| 巻頭コラム |
‘ヨベルの年連帯’のために
‘ヨベルの年連帯’代表 朴聖慈 |
“・・・あなたが倒れるなら わたしが行って起こしてあげよう/
わたしが倒れるなら あなたがきて起こしてほしい/
・・・解放の道 統一の道 茨の道 真っ白い道/
行き疲れたら 休みながら行こう/ 痛む足を互いに支えあいながら”
(キムナムジュ‘共に行こうわれらこの道を’)
詩人、故キムナムジュはわたしたちの進むべき道をこのように詠った。
すぐる50余年の分断の世はわたしたちに耐えがたい痛みを与えたが、
一方では、冷戦の苦痛の中にあっても互いに抱きしめあい頼りあうことの
できる暖かい心がわたしたちに残っていることを悟らせてくれた。
‘ヨベルの年連帯’が誕生するようになった背景もまさにここにある。
空腹を抱え国境をさすらう脱北難民の痛みを共に分かち合い、
それをわたしたちの痛みにしてみようというのである。北韓は1990年代
以後繰り返された災害によって深刻な食糧難に遭遇した。その渦中、
多くの北韓同胞は北韓当局の目を逃れ、食料を得ようと国境を越えた。
しかし、彼らは、北韓当局は勿論中国政府からも歓迎されなかった。
‘ヨベルの年連帯’はわたしたちの小さな助けが、たとえ少しであっても、
彼らを飢えと恐怖から免れさせることができたらという思いで、
この6月に出発した。
“ヨベルの年”は旧約聖書にでてくる言葉である。すべての者が
抑圧されることなく自分の権利を享受する事ができる年を“ヨベルの年”と
呼ぶ。わたしたちはその‘すべての者’の範疇に北からの難民も
含まれていると考える。わたしたちは恵みを施すという次元から
彼らを支えようというのではない。ただ、彼らが今直面している状況は
わたしたちの助けを必要としており、わたしたちの関心が彼らに小さな
希望を与えることができると考えているだけである。
彼等を気遣うことは私たち自身を振り返ることとも一脈相通じる。
最近外為危機を経験したとはいえ、わたしたちは相変わらず非常な
豊かさの中で他人の痛みを振り向きもしない風潮に取り巻かれている。
統一が具体的に目に見えるような状況にあっても、自分の問題に
のみ熱心で、統一も北韓同胞の飢えにも関心がないようである。
長い長い分断の痛みの中で花開いた連帯の経験は徐徐に色褪せて
きている。今、彼等をとおしてわたしたちの協力する心を回復することが
できないならば、わたしたちは永遠に分断の障害から抜け出すことは
できないであろう。
南北韓氷解の機運が歴然と現れてきた今、わたしたちがなすべきことは
何か。詩人キムナムジュが大声で訴えたように、共に支えあい肩を
貸し合って連帯することではないだろうか。‘ヨベルの年連帯’は
皆さんを待っている。共に手を携え北からの難民の痛みを経験し、
これから広がっていく統一の世を準備してゆかねばならないの
ではないだろうか。
‘ヨベルの年連帯’はいまだこれと言った成果も経験もない。
今ようやく会報誌第1号を出したところである。じゅんじゅんに
力を集めていくためにも皆さんの参加がどうしても必要です。
‘ヨベルの年連帯’のために互いに互いを立ち上がらせ、支えあって
進んでいきましょう。 (訳:吉岡春江)
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| 特別寄稿文 |
| 統一列車は今何処を通過しているか |
キムクァンヨン
(運営委員、政治学博士、北韓問題研究家)
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すぐる6月、韓半島は初めて行われた南北頂上会談を祝う感動と
希望の波で満ち溢れた。続いて8月、ソウルとピョンヤンで行われた
離散家族の再会は、民族分断がもたらした悲劇的現実を克明に
見せてくれることによって、統一の妥当性をわが民族のみならず
全世界に刻み付ける契機となった。
しかし、ほんの半年も経たないうちに、あの感動は半減し、
冷笑的な気流さえひろがっている。現在ピョンヤンで進行中の
4次大臣級会談でもわかるように、南北関係は再びうんざりする
駆け引きの局面に差しかかったような感じさえする。いまにも
南北関係改善に画期的な成果があるだろうと思わせた‘バラ色’の
青写真は、やはり、‘青写真’に過ぎなかったのだろうか?
あえて専門家の分析を引用するまでもなく、最初の予想とは異なり、
関係改善が現在遅々として進んでいないのは火を見るより明らかである。
今のような状況を迎えるようになったのには、いくつかの理由があった。
まず、第一に指摘できることは、当時わが社会が過度の興奮状態に
あったため楽観一辺倒に流されたという点である。これは言論や学会は
勿論政府も同様であるが、特に政策担当者は、後に起こるかもしれない
変化を予測しそれに対処する多様なシナリオ、それも5年、10年後の
シナリオではなく、わずか6ヶ月後のシナリオさえ持っていなかったの
ではないかと思われる。最もお粗末な点は北韓の意図と戦略に対する
分析のなさである。北韓が頂上会談に同意した最も大きな理由は、
自分たちが直面している危機を克服することによって体制を保全し、
安全に維持することであった。北韓体制を脅かしているのは、分解寸前の
経済と老朽化してゆく軍事力とによる、安保危機であった。これを
突破するためには多様な戦術的組み合わせを想定することができるが、
現実的に実現可能なことは、北韓との頂上会談を強く望んでいる
韓国の政治的現実とアメリカの介入政策を積極的に活用することであった。
日本はそのあとおのずからついてくるものと判断したのであろう。
手順は、南北会談という大きなイベント、チョミョンノク次席と
オルブライト米国務長官の相互訪問、最後にクリントンの任期内
ピョンヤン訪問まで実現されれば錦上花を添えることになる。その場合、
金委員長のソウル訪問はワシントン訪問へと繋がる可能性があるから
である。いずれにせよ、ソウルからの経済協力または支援は、北側が
満足できる水準ではなかったとしても、歴代の最高水準に達するものであり、
米国との共同声明発表は今後ブッシュ新政権の対北政策変更を
一定程度制限する拘束力をもつものになった。
そうではあったが、ここには伏兵が隠れていた。最大の問題は韓国が
再度直面した経済危機であり、それによって金大中大統領は執権基盤で
あった支持勢力の相当数が背を向けるという深刻な状況を迎えている。
現政府の最大功績であったIMF克服が水泡に帰した局面に立たされて
いるのである。そのうえ、国内では現在一方的?な対北支援に反感を
持つ批判勢力までも勢いをつけてきている状況である。この場合
対北経済協力は物理的に困難になり、太陽政策は推進力を失うであろう。
その結果、北韓にとってもはや韓国は優先的交渉相手としての
魅力ある存在ではなくなる。
第二の理由は、一か月あまり続いた米国大統領選挙が終わり、
北韓としては避けたいと思っていた共和党政府が登場することになったと
いう事実である。いまのところ、いろんな状況から見て、ブッシュ政権の
対北政策が急激に変わることはないであろうというのが大方の観測で
あるが、クリントン政権に比べより頑強であり非妥協的であるという点
では一致している。特に北韓が主要戦術の道具として活用してきた核と
ミサイル問題の効用性が過去よりも衰えるのは明白である。やっと
好機をつかんだ北韓としてはより厄介な相手に出会ったわけである。
こうしてみると、今後の南北関係は巡航というより難航が予想される。
最悪の場合、来年春に予定されている金委員長のソウル訪問も予想より
遅れる可能性さえある。結局、民族すべての心をわくわくさせた南北統一の
希望は再び遠ざかろうとするのか?
統一問題が今現政府だけの課題ではなく、また、アメリカの恩恵に
よって成し遂げられるものでもないという点に留意するとき、この地に
住む我々が少なくとも忘れてはならない重要なひとつの事実がある。
すべてのことには当然費用がかかり、南北の関係改善に基づく
平和体制政策も例外ではないという点である。しかし、それはそれほど
深刻なものではない。例えば、政府が一方的に対北支援をしたというが、
その額をわが国の経済規模と比較してみると、負担になるほどのもの
ではない。政府は今後対北支援を、年間最大一億ドルを超えない範囲で
断行する計画であるといわれているが、これを金融構造調整に
つぎ込まれた公的資金約1,300億ドルや、1999年度韓国輸出入総額
2,634億ドルと比較してみればよくわかるであろう。
この程度の費用で得ることのできる実益は何か。まず、南北韓の
間に形成されるであろう根本的な信頼感の構築、緊張緩和に伴う
心理的安定感の増大、漸進的な軍事費の節減による余剰財源の
創出、国内問題により集中できる余力の確保、北韓経済回生に伴う
統一費用の減少など、数えきれないほどである。このように見るならば、
その費用は決して一方的ではなく、統一されるまで南北韓間の
平和体制を維持するために必要な費用であると認識する必要がある。
また、この費用の問題は韓国の現政権だけの政策ではなく統一を
志向する長期的なものとならなければならない。
今は、興奮と感動を静め、どうするのが我々に有利であるか
という沈着な思考と、55年間の争いと対立を解消するためには
少なからざる忍耐と苦痛の負担が必要だという国民的共感の
拡大が切実な時である。(訳:吉岡春江)
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| 特別寄稿文 |
| 脱北少年の手記 |
[17歳の脱北少年の手記である。特定地名と日時は
明らかにしないことを原則とした。以下【 】表示は
‘ヨベルの年連帯’が付けたものである。編集者注]
私は朝鮮【北韓】から1998年9月中国へわたってきた。
私は中国に住んでいたが、2000年0月00日派出所に
捕まった。私は朝鮮00里にある教導所へ行った。わたしは
そこの保衛部に拘留されたが軍保衛部へ護送された。
保衛部で私は2日間監房にいた。
保衛部の人たちは私が中国へ行きどんな行動を
とったか訊ねながら殴った。私は2時間逆さまにされた。
そうして2日目に軍安全部へ護送された。軍安全部で
私の家【故郷の家】は00にあるといった。私は安全部で
【自己】批判書を書き00郡00へ行った。私は000で
生活するようになった。最初の日000で仕事をした。
本当に大変であった。それでもどうにかこうにか一日が過ぎた。
ところで何日か過ぎて銃殺が行われると言ううわさが
流れた。その日000にいる人たちはみな死刑場の広場に
出て行った。受刑者はみな女であった(3名)。その人たちは
中国に行って迷信、即ち聖書のすべての迷信(キリスト教)を
信じており、人々に福音を伝えたという。そして、そのうちの
一人は女二人を中国に売った【紹介した】ために処刑された。
私は銃殺を見て本当に鳥肌が立った。私たちはまた仕事を
しに行った。しかし、ふっとある考えが私の頭をかすめていった。
それは‘神様がおられるんだから’という考えであった。
私は毎日祈った。
そのように過ごしているうちに護送の日がやってきた。
私は別の安全部に護送された。私は逃亡しようと思ったが手
首に手錠をはめられていて走ることができなかった。私は
何時いかなるときでも走って逃げようと決心した。また、祈った。
本当に神様が私の祈りを聞いてくださったのか、私は
無事脱出することができた。
私は再び豆満江の近くに来た。水かさが増していて
渡ることはできなかった。しばらくした端午の日
2000年12月31日
1号の朝、私は豆満江を渡って00部落に来た。
私は山を超え00まで入ってきた。私はバスの中で
“神様、どうかこの罪人を許し、守ってください。”と祈り続けた。
ところで、以前には検査(検問)していた国境警備軍が
本当にいなかった。
このようにして私は00まで入ってきた。私は00で、
ある家の世話になってお金10ウオンを稼ぎ、バスに
乗った。ところで、00まで来たときにはお金がなくなり、
バスに乗ることができなかった。私はあれこれ思案した
挙句、キリスト教【キリスト信者のいるところ】に行った。
私はそこで着る物とお金10ウォンを貰って
午後5時半に出た。
延吉に到着した私は、あちこち歩き回りながら
友達を探し当て、一緒に過ごした。私はこのように
今回朝鮮に捕らえられていったが再び中国に
やってきた。二度と捕らえられないようにしよう。
(2000年6月) (訳:吉岡春江)
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