2022年3月6日 主日朝礼拝「ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。」

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創世記49:1~28

「王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。」(創世記49:10)

説教者 山本裕司 牧師

 147歳のヤコブは臨終の床に、後の時代にイスラエル12部族の太祖となる12人の息子たちを呼び寄せました。それは新共同訳の小見出しでは「ヤコブの祝福」とされますが、その朗読を今、聞かれた皆様は、むしろ大変厳しい遺言が印象に残られたのではないでしょうか。特に創世記49:3以下の長子ルベンや、49:5以下のシメオンとレビの兄弟に対しての遺言などです。49:7でははっきり「呪われよ」と言われています。またこの3人に対するような決定的な呪詛(じゅそ)ではなくても、49:15b、イサカルは「苦役の奴隷に身を落とす」とあり、祝福とはほど遠い言葉です。しかしこのヤコブの遺言の終わりに創世記記者はこうまとめました。49:28「これらはすべて、イスラエルの部族で、その数は十二である。これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。」これはやはり祝福なのです。そうであれば、たとい厳しい遺言を受けた息子たちへの言葉も、神様の御心の内では、祝福の内なる呪いなのです。憐れみの内なる裁きなのです。そしてそれは私たちの人生でも同じではないでしょうか。私たちも自分でも何をしているか知らないままに、とんでもない罪を犯して生きています。その報いを刈り取るのが人生であるようなところがあります。しかし私たちはその暗いと思われる日々の中に、上から光が射し込んでくるのを感じることが出来るのです。その呪いと思われるような人生が、御子の赦しという祝福にいつの間にか包まれている、そのことを感じ安堵し、その「安息」の中で眠りに着くことが出来る。それこそ私たち信仰者に与えられた特権的祝福ではないでしょうか。

 12部族連合イスラエルの49:1b「後の日に起こること」、その歴史は混乱の連続でした。どの部族も等しく犯す罪のためであったのです。それをここで呪われた4つの部族の太祖が代表して叱責されているに過ぎないと読むべきだと思います。この49:3以下で呪われる長子ルベンは、かつて、35:22、誘惑に負けて父の寝台に上り側女ビルハと交わりました。だから、49:4「長子の誉れを失う」と父から断罪されています。しかしこの姦淫の問題は、この旧約全体を貫いてイスラエルの罪としてつきまといます。荒れ野の唯一の主ヤハウエに従うイスラエルは、隣接する農耕文明の神バアルの誘惑を常に受けました。そのカナンの祭りには神殿娼婦が存在し、自由な性的交わりがなされました。その影響をイスラエルは決定的に受けたのです。男女関係の姦淫と他の神々を拝する姦淫、つまり偶像崇拝がワンセットとなってイスラエルを浸食したのです。そのあり方をヤコブの背後にいる神様はここで問われるのです。

 続く、49:5以下の呪いの言葉はこう始まります。「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。」49:6b「彼らは怒りのままに人を殺した。」これもかつて読んだ、34章の「ディナが物語」が想起されています。この二人が先頭に立って行った殺戮、シケムでのヒビ人大虐殺事件、それがヤコブの念頭にあったに違いありません。この後、イスラエルが王国になった時も残虐な戦争は繰り返されました。その発端こそ兄弟シメオンとレビの暴力体質であると言えます。このシメオンという言葉がギリシア語となった時、シモンとなると知れば、私たちはこのレントの期節、イスラエル12部族の新約版、12弟子の一人ペトロを思い出します。ゲツセマネで主イエスが逮捕される夜、シモン・ペトロは剣を取りました。しかしイエス様はシモンに言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)。事実、剣を取ったシメオンに対するヤコブの預言、49:7b「わたしは彼らをヤコブの間に分け/イスラエルの間に散らす。」離散する。この通りのことが起こったのです。

 祝福継承の儀式のはずなのに、臨終のヤコブは息子たちを裁く他はありませんでした。説教者リュティは、ここで戦時下の従軍牧師の働きを思い出しています。「この祝福なるものが演じた忌まわしい役割、あの原子爆弾を広島上空に運んだ爆撃機が出発するに際して、このB29のために牧師によって祝福の祈りが捧げられたのだ」と。日本人はこれを「クリスチャン爆弾」と呼んだと悲しみを込めて書いています。それは祝福の濫用ではないかと。今、私たちはロシア・ウクライナ戦争によって、原発を含んだ核の脅威まざまざと見せつけられています。その21世紀の剣「核」を呪うことこそ、世に真の祝福を充たすことになるのは明らかです。ですから、このヤコブの遺言の中にどれほど厳しい言葉があっても、これはやはり祝福です。この呪いは祝福に包含されているのです。

 これらの厳しい遺言の中で文字通りの祝福を受けるのは四男ユダです。49:9「ユダは獅子の子。わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。彼は雄獅子のようにうずくまり/雌獅子のように身を伏せる。誰がこれを起こすことができようか。」このユダを太祖とするユダ族から、戦に強い王ダビデが生まれます。彼はこのユダ族のシンボルとなる獅子(ライオン)のような力を振るって、パレスチナに統一王国イスラエルを確立しました。さらに王国分裂後も南王国ユダを支配する歴代王はこのダビデの血統でした。まさに49:10a「王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。」この祝福の通りのことが歴史的に実現しました。一方、ラケルの長子ヨセフこそ、49:22以下で、ヤコブの偏愛通り、最高の祝福を得ます。先週読んだ創世記48章には、ヨセフの2人の息子へのヤコブの祝福継承の物語が置かれていますが、その時、ヤコブの両腕は交差されて、弟エフライムに右手の祝福がなされました。事実、イスラエルの分裂後、北イスラエル王国はこの次男の名「エフライム」と呼ばれるのです。そのような形でこのヤコブの祝福は実現したのです。しかしそこで指摘しなければならないのは、それもまた歴史の狭間の一時の栄光に過ぎないということです。事実は北のエフライムも南のユダも、偶像礼拝に陥る。その神々への姦淫と、剣を取った争いに生き、結局、呪われたルベンやシメオンの末路と何も変わらない破局を迎えています。それらは救い難いイスラエルの歴史そのものでした。

 それらヤコブの暗い預言の中で、ピカリと一筋の光を放つ言葉が一箇所だけあるのではないでしょうか。49:10b、ユダへの言葉の中にです。

「ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。」

 この「シロ」という謎の存在は誰かということです。これを、救い主イエスの到来の預言と洞察して描いたのがトーマス・マンでした。彼が描くには、老ヤコブが幻の内に見ていた真の英雄は、戦争に強い王ダビデではありませんでした。先に言ったように、獅子の如き力に溢れた王朝ユダがやがて、剣を取る者の宿命の故に滅びるのです。それにもかかわらず、49:10、王錫はユダから離れないと預言される。どうしてか、それはただ一つの理由による。「シロが来るから」である、そう預言されたのです。マンに言わせると、ヤコブが口にした英雄シロという名は、その場面に居合わせた人たちにとって初耳であって誰もがおやっと耳を澄ます他はなかった。しかし、それら祝福継承の儀式を一目見ようと集まっていた群衆の中で、ただ一人の女性だけは、シロの名がヤコブの口から語られるのを、いまかいまかと待っていたのです。その女こそタマルであった。私たちは創世記38章以来、久し振りにタマルの名をここで聞くのです。タマルはヘブロンの土地の子であり、バアルを信仰する小農の娘でした。しかし彼女は郊外の天幕で暮らすヤコブから唯一の神の存在を学びました。彼女は老人の語る話に魅了された。原罪の井戸、その真っ暗闇の底に落ちた全人類を、神はやがて引き上げて下さるであろう。そのために祖父アブラハムに自らの祝福を与えたが、それを保持しているのは、今はこのヤコブである。自分が地上を去る時、四男ユダこそ祝福の後継者となるであろう。そしてユダの血の株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。その英雄は獅子のように剣を振るって全てを滅ぼす王ではない。何故なら彼は獅子であって同時に小羊であり、この世界に真の安息を与えるために来る王である。彼によって、「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く」(イザヤ書11:6)、その神の国を出現させる。その来るべき王の名こそ、シロであるとタマルは教えられたのです。

 ヤコブがどうして、その王の名は「シロ」との示しを受けたかと言うと、元々はシロとは単なる町名に過ぎませんでした。しかしその地方の住民たちは、しばしば戦に出た後、そこに集まった。何故なら「シロ」とは「安息」の意味であり、いくさに疲れた男たちの休息の場であったからです。血生臭い戦いの後に、身も心も休むことの出来る祝福の響きを持つ言葉、それがシロであり、これが人間の名となると「平和をもたらす者」という意味になった。シロはそのような安息の主、神の小羊であった。しかし同時に、後の時代、パトモス島のヨハネが、幻の内に再臨の主を見た時、彼を「ユダ族から出た獅子」(ヨハネ黙示録5:5)と呼ばれたのだ。その力強き王の王に、創世記49:10b「諸国の民は彼に従う」のです。このやがて来るシロこそ、アブラハムの祝福を受け継ぎ、その祝福を「幸いなるかな、貧しき者よ」と呼び掛けながら、全人類に分け与えるお方、その啓示を、ヤコブは幻の内に神から受けていたのです。

 ヘブロンのタマルは、それを聞いた時カナンの女である自分が、この神の救済史の一齣になりたいという、宗教的野心に捕らえられてしまった。その夢を果たすために、彼女は義父ユダのカナンの祭りの帰り道に、神殿娼婦の姿をして待つということをした。そしてユダの性的弱点につけ込んで思いを遂げるという離れ業をやってのけた。やがてタマルは月が満ちて双子の男の子を産んだ。最初に産まれたペレツはわけても逞しく育ち、やがてイスラエル・ユダ族の子孫たちを本格的に歴史の中に送ることになったのです。その血の流れの末に、獅子の如き王の王、主の主でありながら、神の小羊、安息の主イエス・キリストがダビデの子として、このユダ族から到来したのです。
 
 臨終を迎えているはずの老ヤコブは、そのシロの名を興奮の中で口にした時、彼の心臓は甦ったようなり顔は紅潮し、今にも立ち上がるのではないかと思われるほどであった。その天幕の隙間から、羊が草を食むゴシェンの広大な草原が見えましたが、今や太陽がその地平線の彼方に没しようしていた。そしてヤコブの顔を、ユダやタマルの顔を、その厳かな儀式の参列者たちの顔を、エジプトの壮大な夕焼けが赤々と照らし始めたのです。その顔は皆最良の葡萄酒によって酔っているかのように真っ赤に染まった。ヤコブはヘブロンのはずれの葡萄園を思い出したのか、驢馬の子が葡萄の木に繋がれていると言い始め、シロはその驢馬の子を葡萄の木から放ち、自ら、その背に跨がって山の上の町に入るだろうと語り出す。その英雄シロの入城を迎えた町民は恍惚として棕櫚の枝を振り「ホサナ、ホサナ」と賛美した。驢馬から降りると何を思ったのか、シロは服の裾をまくり上げて、葡萄を圧搾する槽(うけ)に入り、足を交互に上げて踏み続け、圧搾槽の中で踊り始める。その踊り続ける姿はいかなる姿にもまして美しく、彼の雪のように白い前掛けも服も葡萄の汁で血のように赤く染まったのだ。その臨終のヤコブの見た幻の断片が記録されました。

 49:11~12「彼はろばをぶどうの木に/雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。彼は自分の衣をぶどう酒で/着物をぶどうの汁で洗う。/彼の目はぶどう酒によって輝き/歯は乳によって白くなる。」ヤコブはこの祝福をユダに与えるに当たって、その体力の全てを使い果たし、その声はそこで消えた。
 
 その時兄弟たちの心に去来したことは、創世記がこれまで延々と語ってきたように、そして父ヤコブがそれをどうしても問わずにおれなかったように、自らがこれまで犯してきた罪の数々であった。そのため12人の兄弟の誰一人として、自分に神の祝福を受け継ぐ資格などないと思うようになっていた。もしあるとしたらそれは、未だ架空の存在としか思えないシロだけなのではないか。そう皆、ヤコブの臨終と合わせるかのように、太陽の残照さえ消えた、ゴシェンの大草原、その深い闇をじっと見詰めていた。

 その時、妹ディナが、一本の蝋燭を持って近づいて来た。兄たちによって初恋の異邦の王子シケムを残虐に殺害されて、どれ程苦しめられたか。ディナは16歳で老婆のようになってしまった。その妹の姿を兄たちは見て懺悔せずにおれなかった。そしてディナは、残された命の全てを注ぎだして安らかな顔となった父ヤコブ、その寝台の傍らに燭台を置いて灯しました。その瞬間、そこに居合わせた人々の耳にどこからともなく不思議な言葉が聞こえてきたのです。それは寝ていると思っていたヤコブの口からだろうか。それともその臨終に立ち合おうと集まって来た内の誰かが呟いたのだろうか。しかし皆、確かにその言葉を聞いたのです。その言葉とはある者の耳にはこう聞こえました。

「光は闇の中に輝いている。闇は光に勝たなかった。」

 またある兄弟の耳にはこうも聞こえたと伝えられています。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 何故、大草原の漆黒の闇の中でも、光は勝つと、言えるのか。どうしてこれほど罪深いことしてきた、あるいはこれからすると預言された兄弟たちへの、赦し、その執り成しが祈られたのか。この二つの祝福の言葉が何故、終わりに皆の耳に聞こえたのだろうか。それはシロが来るからだと、皆が直感した。そのお方シロは彼らの罪の贖いのために葡萄酒を浴びたように、体中から血を流し、屠られた小羊として死ぬ。そして井戸の如き洞窟に葬られるが三日目に、その死と闇の石蓋をわきに転がしてしまい、朝の光の中に躍り出て来られる。その輝ける復活のシロは、争いの世界を駆逐し永久の安息をもたらす永遠の王の王、主の主、ユダ族の獅子として立ち上がる。その新しい約束の日を皆で共に待とうではないか。父がシロの幻を見詰めつつこう祈ったように。49:18「主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む」と。人々は今や、走るべき行程を走り通して安息するヤコブの前に頭を垂れつつそう感じていた。

 私たちもどんなに自分の闇に打ち沈んでも、兄弟たち同様に、小羊の赦しに執り成され、獅子の永久の命の力に導かれ、皆で4月17日、春たけなわの朝の光を全身で浴びたい、そう願う。

祈りましょう。 主なる父なる神様、あなたはこの人類の信仰の曙に、平和の主シロの到来、その預言をなさり、罪の赦しの祝福を約束して下さった、その恵みに心から感謝します。今なお偶像と暴力が満ちるこの世界に、罪の故に戦いに疲れた者たちの真の安息の町シロ、その執り成しと祝福の殿堂西片町教会を、これからも建て続けていく私たちをならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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