2022年3月27日 主日朝礼拝説教「礼拝に祝福は満ち溢れ」

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創世記3:6~21 ローマの信徒への手紙8:19

「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(創世記3:21)

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」(ローマ8:19)

説教者 山本裕司 牧師

 イギリスの詩人ジョン・ミルトンは、先ほど円谷恵さんに朗読を頂いた創世記3章に記されるアダムとエバの堕落を、見事なイメージを以て膨らませた作品を残しました。それは『失楽園』(パラダイス・ロスト)という壮大な物語です。その物語は、サタンが地獄から楽園である地球、パラダイスに侵入してくるところから始まります。そして蛇に憑依し人間を巧みに誘惑して堕落をさせることに成功します。勝利者サタンは凱旋将軍のように地獄に帰還した時、その門口で待っていたのは、サタンの二人の息子でした。二人は、父なるサタンから「福音」良き訪れを聞き、感謝の中で自らも父に奉仕をしたいと願う。許しを得ると、父なるサタンが開いた道を飛翔し、既に暗雲が広がり始めていたパラダイスに降り立ちます。その二人の息子の名とは「罪と死」でした。この息子たちの奉仕によって、楽園であったはずの空は、いよいよ黒雲で覆われる。そして罪と死の嵐が吹き荒れ人間は勿論、動植物たち被造物でさえも、罪と死の呪い、その虚無に服していく(ローマ8:20)のです。

 ミルトンの『失楽園』を読むと本当に身につまされます。禁断の知恵の実を食べる前の最初の夫妻の会話は、本当に美しい。思いやりに満ちた仲睦まじい夫妻です。ところが堕落後、直ちにこの二人は、言葉遣いまで粗野になって、淫らな情欲の炎を燃やしたかと思うと、その後は延々と口論をする醜い姿が書かれます。主なる神様に、罪を問われると、創世記3:12「アダムは答えました。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」彼は、堕落前は、創造主が与えて下さった女性を見ると、2:23「ついに、これこそ、私の骨の骨、肉の肉」と歓喜したのです。ところが知恵の実を食べたために、彼は自己弁解の賢さを得て、自分の罪を全て妻のせいにすることが出来るようになったのです。同時に、3:12a「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」とあるように、主よと、結局あなたが張本人だと、あなたが私を堕落させた女を連れてきたのだから、そう言ってのけた。どのような詭弁を弄しても自らの罪を決して認めません。つまり悔い改めない人間の姿です。神様は次に女を追及します。やはり女も男同様に、3:13b「蛇がだましたので…」と、責任転嫁をしました。ですから神様は先ず蛇を裁かれますが、ただ蛇だけは一言も弁解しません。これはいったい何を暗示しているのでしょうか。これらの謎を、荒井真先生と共に青年会で議論したらどんなに楽しいことかと思います。

 それはともかく、数年前の新聞(東京新聞、2016年11月23日)の読者の投稿にこうありました。「先の大戦で負けた日本国民は自分たちで戦争責任者を裁かなかった。そんな歴史を考えると、福島原発の廃炉費用を全国民に負担させようとのプランはとんでもない愚挙であると思う。原発は安全だと宣伝し、税金を地元にバラまいて造っておいて、事故で廃炉になったら「電気使用者は全員金を出せ」はないだろう。原発推進を掲げた国、原発で大儲けした者たちはどれだけ負担するのか。廃炉費用は責任者に負担させよ。」そう経産省を批判しています。本当にその通りです。しかしこうやって力ある者たちを問うことは私たちにとって、これ程容易なことはありません。しかし自分のこととなったらどうでしょうか。これは経験した者だけが分かる、自分の罪を認めることは身を切られるほど苦しいことなのです。私たちはこのレントの期節、確かに祈りにおいて抽象的には罪を懺悔します。でも具体的な問題となると、とたんに、自分は少しも間違っていませんと、全部あいつのせいだという話になります。かくして蛇の誘惑に負けて、大から小に至るまで人間は、罪責を他人に転嫁する知恵を得た。どうしてそんな知恵が必要だったのでしょうか。自分が悪人であると認めると、もう立つ瀬がないからです。私たちキリスト者は特別に「正しさ」という衣をまとって胸張っているようなところがあります。そんな自分が罪を認めるとは、その「義の衣」を脱ぐことです。もう自分で自分を守るすべはありません。残るのは恥辱にまみれた裸体だけです。その姿を晒したら、子どもの頃から教会学校に通って、その頃から「正義の味方」を自称してきた私たちは、とても正常な精神状態を保つことが出来ないのではないでしょうか。だからその罪を何とかごまかしたり隠したりします。自前の衣で。それが最初の人間が、3:7「いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」その意味ではないでしょうか。

 しかしどんなに自らの罪を隠蔽しようとしても、その衣は「いちじくの葉」に過ぎず、神様は葉の隙間から私たちの罪を見抜かれ宣告されます。女性に対してはこうです。3:16「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。」

 ところで古代人は、世界のいろいろな謎と出会い、どうしてこうなってしまうのだろうかと、その原因を尋ねて、その回答を神話として描いてきました。前にラジオを聞いていたらある歌手が「宇宙の謎だわ、愛なんて!」(荻野目洋子「真夜中のストレンジャー」)と歌っているのを聞いたことがあります。人間は古来そのような「宇宙の謎」を解こうと奮闘してきました。母が新しい命を産み出す時、他の動物と比べても産みの苦しみは余りにも激しいのです。ラケルもそうでしたが、その末に死んでしまうこともありました。そういう悲惨な経験を古代人はどれ程経験をしてきたことでしょうか。生命の誕生、これはこの上なき祝福のはずなのに、どうして死の呪いと背中合わせなのかですかと、その原因を尋ねずにおれなかったと思います。その理由を創世記の神話は、原罪に対する神の裁きなのです、と謎解きをするのです。さらに、3:16b男が「お前を支配する」という女への裁きが続きます。これを男女差別の始まりと理解出来ると思います。造られたままの男女に、創世記は2:24「二人は一体となる」と聖書は宣言しました。この「一体性」男女平等は崩れ男女は支配、被支配の「家父長制」のような関係となる。そうであれば、女性は男を見限れば良いのですが、ところが何故か、3:16bにある通り、女性は「男を求める」。それは不思議なことではないでしょうか。まさに「宇宙の謎だわ、愛なんて!」と絶唱せずにおれない矛盾、「アンビバレンス」(両面価値感情)がここに出現しているのです。「アンビバレンス」の意味は「矛盾する感情が一つの心に同時に現れる」ことだそうです。爾来、私たちは愛しながら憎み、憎みながら愛するのです。これは男女関係のことだけでなく、私たちの全ての人間関係に言えることではないでしょうか。人とお付き合いをすると、苦しめられる、そうであれば、無人島に逃れれば良いと思います。しかし、私たちは傷付けられることが分かっていながら、人を慕い求めずにおれません。つまり人間は、神との関係が矛盾した時、隣人との関係もまた連動して、矛盾した「宇宙の謎」となったと聖書は語るのです。

 続いて男への裁きが語られます。3:17b~18a「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。/お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/」原罪を犯すことによって、神様との分断から始まり、人間同士とも、さらに「土」環境とも人間は分かたれた。人間は三方塞がりの孤独の身となると言われているのです。ドストエフスキーの『白痴』の中で少年がこう呟く場面があります。「僕のそばで、日光を浴びて唸っている小さな一匹の蠅でさえも、宇宙の饗宴にあずかる一員として、そのいるべき場所をちゃんと心得ている。しかし僕ひとりだけが除け者だ。」このような「疎外」が原罪の結果であったと神話は語るのです。

 罪とは根源的には「分離」という意味があるそうです。神の戒めを破って、神から離反することこそ原罪でした。その原罪の結果として、人間は隣人とも分裂します。さらに、ドストエフスキーが言うように、一匹の蠅でさえも持っている宇宙との調和的関係が失われるのです。土から取られた私たちは自然なしに生きることが出来ないにもかかわらず、同時に自然を憎悪するかのように破壊し、人工的なものに置き換えます。自然に対して、愛と憎悪を同時に持つ、アンビバレンスの「宇宙の謎」となってしまっているのではないでしょうか。神と隣人と環境との調和的交流は失われ分断される。それが原罪の呪いなのです。

 それでは、どうしたらこの呪いから私たちは解放されるのでしょうか。私たちが、ここまで長く読んできた創世記の物語、特に私たちは、アブラハム、イサク、ヤコブが、祝福を求めて旅を続ける、その物語にずっと同伴してきました。そして彼らは、その旅の最中、荒れ野の随所に祭壇を築き唯一の主に礼拝を献げてきたことを私たちは思い出すのです。そうであれば、呪いから解放され、その反対の祝福を得る場こそ、礼拝に違いない、そう私たちは直感するのではないでしょうか。

 神様は私たち原罪に落ちた者を見捨てず、3:9「どこにいるか」と問われます。その呼び声に「私はここにいます」と応え、創造主との交わりを回復する場、和解の場、それが礼拝です。また私たちは、神社仏閣のように一人でお詣りをするのではありません。日曜日の朝10時半と夕18時と時間を決めて、ここで一堂に会するのです。この礼拝によって、日頃、身も心もバラバラの赤の他人が和解し、2:24b「一体となる」、その本来の人間の交わりの姿に戻るのです。また私たちの礼拝堂には、今朝、布川純子さんのご奉仕によって、美しい花が飾られています。それは、自然、環境、被造物との交わりの回復、和解を示唆しているのではないでしょうか。先ほどもう一箇所朗読頂いた、ローマ8:19で使徒パウロは言いました。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」と。神の子たちの登場によって、被造物(環境)が滅びから解放されると暗示されるのではないでしょうか。神の子は、もう神も隣人も自然も憎みません。ただ愛するのです。そこでは複雑怪奇な両面価値感情ではなく単純な心が出現するのです。そうやってついに「宇宙の謎」は終わる。楽園回復への道が開かれるのです。どうしてそんなこの上なき「祝福」が原罪を宿す私たちに与えられたのでしょうか。

 先にミルトンの『失楽園』では、罪と死が地獄の底から地球に飛び込んできたと物語りました。しかし物語では、飛び込んで来るのは悪魔の子たちだけではありません。その直後、神の御子が宇宙の彼方、天の御座から、スーパーマンのようにもの凄い勢いで地球に下って来られるのです。創世記3:8「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。」そうありますが、ミルトンの解釈ではこうやって来て下さり、3:13以下の裁きの宣告をするのは、御子御自身です。しかしキリストは裁きだけをされたわけではありません。この3:21b、裸に震えて立つ二人に皮の着物を造って着せて上げるのは、キリストご自身です。そしてミルトンは書きます。「御子は人の罪と恥を愛をもって覆われた。御子は父なる神の怒り眼差しから人の罪を隠した」と。裸の私たち人間は、覆われていないと生きられません。その時ミルトンは、そういう楽園を失った人間でも、御子が代わりに衣を与えて下さるから、生きることが出来る。そうこの物語を通して、希望を歌い上げたのです。使徒パウロはこう勧めました。ローマ13:14a「主イエス・キリストを身にまといなさい。」つまり新約聖書では、それはもはや獣の皮でもない。キリスト御自身が衣となって裸の我々を覆って下さるのです。

 ヨハネ福音書19:23には、主イエスが十字架につけられた時に、ローマの兵隊に奪われた主御自身の衣服、その「聖衣」は「縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった」とあります。それは主イエスが十字架について、私たち、原罪のもとにある裸の人間に残して下さった衣ではないでしょうか。それは隙間だらけの自前の「いちじくの葉」と真に対照的です。いちじくの葉では私たちの罪、裸の恥を、隠すことはついに出来なかったと言いました。それに対して御子の衣は、縫い目のない一枚織りとして隙間なく覆って下さると暗示されるのです。このイエス・キリストの十字架の衣に包まれる時、私たちは、再びその聖衣の内において、失われたはずの楽園を回復するのではないでしょうか。この前テレビを観ていたら、宇宙服には隙間はないと当たり前のことですが強調していました。真空の絶対零度(-270℃)の悪環境の中であっても、宇宙服は地球と同じ環境を用意出来ると。それに似た衣が私たちを覆うのです。それを知る時、私たちは初めて誰から糾弾されようとも、自らの罪を告白する勇気を得るのではないでしょうか。どれほど恥を晒しても、そうやって皆から見捨てられも、私たちはもう裸にはならないと約束されたのです。その福音を知った時、もう人のせいにしない。裸を恐れない。何故ならその罪の告白の瞬間、恩寵の衣に私たちは包まれる、その真実を教会で学んだからです。そこで私たちは神と隣人と自然と同時的に和解するのです。それこそ礼拝です。先ほど荒井愛子オルガニストの奏楽に導かれて、心の中で歌った「讃美歌21」140番にあったように、今私たちが座す「み神のすまいは、何と素晴らしい」所でしょうか。「主の庭にすごすこの一日、それは千日にもまさる大きな恵み」と歌わずにおれません。だから私たちは可能な限り主日毎に礼拝を献げる、それを止めろって言われても、どうしても止めるわけにはいかなくなるのです。私たち西片町教会に属する者は、そうやって生涯礼拝者としての祝福の内を生きるのです。

祈りましょう。 創造主なる神様、元々、蝮の子と呼ばれるような私たちを、御子の贖いの故に、神の子と呼んで下さり、礼拝に招いて下さった恵みに感謝します。それに連れて、隣人とも自然とも和解させて頂き、孤独から解放される歓喜を与えて下さった、その導きに重ねて感謝します。あなたを愛し、隣人を愛し、土を愛する、この「三愛」の祝福に一人も漏れることがありますように。そしてここで知った喜びを、孤独の中に呻吟する友に宣べ伝え、また自然環境の回復に献身する、その宣教の使命を世の終わりまで果たしていく私たち西片町教会として下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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