2022年3月20日 主日朝礼拝説教「誘惑の物語」

https://www.youtube.com/watch?v=1pW0aIkd308=1s

創世記3:1~7 マタイ福音書4:8~11

「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」(創世記3:6)

「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」(マタイ福音書4:10)

説教者 山本裕司 牧師

 私たちは、1年4ヶ月前の2020年11月22日より創世記をここで読み始めました。その時4章から始めた理由は、この年度末、つまり次週、3月27日の主日に、創世記の最後の章に至るように大雑把ですが計算したためです。ところがご承知のように先週50章に到達してしまい、この年度、後2回の主日が残ってしまいました。そこで言い訳めいた話ですが、この2度の機会を用いて、創世記3章の堕落物語をご一緒に読みたいと思います。

 この蛇の最初の人間に対する誘惑の言葉はこうでした。3:5「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者になる…。」ここで言う「善悪を知る」とは神様だけが持っている「全知全能」を意味しているそうです。3:6「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで」した。つまり「神のようになる」この自己神格化の誘惑に人は限りなく魅了されると言われるのです。私たち人間は、神に代わりたくて仕方がないのです。そこで私たちは、先週ここで読んだ創世記の終わり、50:19(旧93頁)に表れる、ヨセフの言葉を思い出すのではないでしょうか。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。」ご承知にように兄たちは昔、少年ヨセフをリンチした。その報復を兄たちは恐れています。この時のヨセフは神の化身と称されるファラオの名代、エジプトの最高権力者として君臨していました。何でも出来る。しかしヨセフは「わたしが神に代わることは出来ない」と答えたのです。人を裁くことが出来るのは、全知全能の神のみと。自分はファラオのような神の化身ではなく「ただの人」に過ぎない。そう覚えるヘブライ人の信仰を、ヨセフは父ヤコブから受け継いだのです。だからこそ、彼は権力に溺れることなく、謙虚に隣人に仕え、国内外の飢餓を解決するなど善政を敷くことが出来ました。

 父ヤコブも先んじて同じ信仰告白をしているのです。それは創世記30章(旧48頁)です。この物語は、今朝発行された「月報」に掲載した説教にも記されますが、ヤコブの二人の妻の内、姉レアは次々に子どもを産むのに、妹ラケルにはどうしても赤ちゃんが出来ない。その時、彼女はヤコブに、30:1b「わたしにもぜひ子供を与えてください」と強く訴えた。それに対して、ヤコブは30:2「わたしが神に代われると言うのか」と怒り、人は誰であっても全能の命の創造主、その神に代わることは出来ないと信仰告白をしているのです。

 3章に戻ると、楽園の蛇は女エバをこう誘惑しました。3:1(旧3頁)「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」しかし神様は決して蛇が言うほど厳しく私たちを縛っていません。むしろ話は逆です。主なる神は人に命じられました。2:16「園のすべての木から取って食べなさい。」その上で 2:17「ただし」と言われたのです。「善悪の知識の木から(だけ)は、決して食べてはならない。」さすがの女も、蛇の意図的曲解を否定しようとします。しかし元々、たった一つの禁止事項であっても、それに苛立っていたのかもしれない彼女は、完全には蛇の偽情報を否定することは出来ません。3:2、いえ「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。」そう一応修正を加えますが「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」実は「触れてもいけない」とは神様は言っておられません。しかし女は神の戒めを誇張するのです。神はやっぱり厳し過ぎる御方だ。蛇よ、お前の言う神様への悪口にも一理ある。私も思い当たる。神は暴君だと。このよろめきのチャンスを逃さず蛇は畳みかける。3:4~5「決して死ぬことはない。/それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」彼女はそうやって蛇の罠に完全にはまり、改めて果実を見ると、それは、3:6「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。」もはやこの果実の魅力、この誘惑に人間は勝つことは出来ません。
 
 この禁断の果実を食べた最初の人間の子孫である私たち現代人は、昔なら神の領域であると思われた、宇宙、生命、そして核にまで手を伸ばすに至りました。しかしそうであるならば、神は、未知の科学研究の一切を禁止しておられるのでしょうか。そうではありません。先にも指摘したように、創造主はむしろ、2:16「園のすべての木から取って食べなさい。」と、禁止より先ず人間に、大いなる自由を与えておられます。あるいは、確かに神は、知識の木からは2:17「決して食べてはならない」とは言われましたが、エバが蛇に誘導されて答えたように、3:3「触れてもいけない」とは命じておられません。確かに、人間は、天の知識の深淵に土足で侵入することは禁じられていますが、その神的知の表面に触れることは許されている、そうここを読むことが出来るのではないでしょうか。しかし、そうであるなら、私たちは深い畏敬を尽くして、神的知に触れなければなりません。

 この神の御寛容によって、かつては神の領域と覚えられてきた、天体の秘密や生命操作などの医療技術を、私たちは「福音」として受け入れることが許されています。しかしそこで私たちキリスト者は、それが、神が許しておられる、知識の実に触れることに止まった、許されることか、それとも禁断の実を、実際に食べてしまう原罪なのかを熟慮することが求められています。神の厳格なる禁止と、神の大いなる許可との狭間の、主イエスのお言葉で言えば「命に通じる狭き門」(マタイ7:14)を祈りつつ模索していくことが、現代ほど必要な時代はありません。従って、核や生命などの先端技術の選択は科学者や権力者らによってだけ決定出来る問題としてはなりません。宗教者、哲学者、教育者、そして生命の問題などに対する直感に優れる市民を交えて判断をしなければならない、高度な倫理問題なのです。

 神的知に対しては、「食べる」(2:17)と「触れる」(3:3)とでは、決定的な違いがあるというのが堕落物語の立場です。食べると何が起こるかというと、それがエネルギーになりますが、それで終わらず、悪臭を放つ排泄が付随します。つまり「核」を食べれば、同様に排泄としての「放射性廃棄物」が放出されるのです。原発は「トイレなきマンション」に例えられます。特に高レベル放射性廃棄物は、生態系から10万年も遠ざけておかねばならないと言われます。しかしこの地震列島日本に長期間安定貯蔵出来る「トイレ」は見つかりません。今回のウクライナ戦争においても、原発、兵器の区別なく「核」が、極めて危険なものであることが再認識されました。従って核に関わる科学的研究、つまり触れることを神様はお許しになるかもしれませんが、食べることに例えられるような、原発や兵器としての使用は、その放射能大量漏出の故に許されてはいなかった、それが創世記の戒めから示されるのではないでしょうか。しかし私たちは貪欲の故に、一度触れてしまえばもう我慢出来ず食べずにはおれなかったのです。それは死を招くと神は警告された。そうであれば、禁断の果実を食べる、そうやって自己神格化の「悪」を犯した私たちに、もはや救いはないのでしょうか。

 先のヤコブ物語に戻れば、ラケルは次々に子を産む姉レアを妬み、神に代わって、自力で赤ちゃんを作り出すために、召し使いビルハを代理母として子をもうけました。また受胎力増進の効能があると言われた、現在の生命医療の兆しのような「恋なすび」も用いた。姉妹がそういう競争をしている内に、結果として、ヤコブはこの2人の妻、2人の召し使い計4人によって、12人の息子を得るのです。そうであれば、この12人の息子たちは厳しく言えば「原罪の果実」であって、祝福されることはなかったはずではないでしょうか。成長すると彼ら自身も、まさに原罪の子らしく「悪」を犯して生きた。しかし、その彼らこそ神の民イスラエル12部族の太祖となり、全人類の中で唯一、神の祝福を担う民をこの世に送り出すという、大どんでん返しを引き起こしたのです。何故そんな奇跡が可能となったのでしょうか。

 そこで私たちはもう一度、創世記の最後の章で、先週聞いたヨセフの兄たちへの言葉を思い出すのです。50:20(旧93頁)「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」そうであれば、この姉レアと妹ラケルの競争も、神様は善に変えて下さったのではないでしょうか。マンに言わせれば、近眼で濡れる黒い瞳のラケル、その瞳を受け継いだヨセフに向かうヤコブの激しい偏愛、美少年ヨセフの高慢、そのための兄たちの嫉妬の大爆発、それらは確かに悪です。しかしそれら「悪」が寄り集まって、ヨセフ物語が描いたように、イスラエルは餓死から救われ、その血の流れから、全人類の救い主イエス・キリストが誕生したのです。ヨセフが言った通りになった。もう一度引用します。「神はそれ(悪)を善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」

 彼の母、近視のラケルはただ、目の前に立ちはだかる人生の障壁を超えようと、神に代わって命を作り出そうと、やみくもに突進しただけです。ところがその悪戦苦闘が、いつの間にか、遠視の如き神様の遠い将来を見据えた計画、その道を切り開いていたのです。そうやって神の民イスラエルが成立し、その民からイエス・キリストが到来する、それを促す働きを彼女は、いつの間にか担わせられているのです。そしてそのイエス・キリストこそが、ラケルを、そして全人類を、その原罪、神に代わろうとする「悪」から救済して下さったのです。それを天国で知った時、ラケルはどんなに驚き、ローマ11:33「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」と使徒パウロと共に歓声を上げたのではないでしょうか。

 私は先週、大江健三郎の『河馬に噛まれる』という作品を読んで過ごしました。大江が深い関心を寄せる、1972年の冬に起こった、連合赤軍による浅間山荘に立て籠もり事件がそこでも取り上げられています。その中に最年少のメンバーがいました。彼は共産思想もよく知らず、また武装革命の覚悟もないまま引きずられるように、その渦中の一人になってしまっていたのです。一方、その小さな山荘に多くの赤軍青年たちが閉じ籠もっているので、直ぐ水洗トイレが許容量を超えてしまった。先の放射性廃棄物の問題とも相通じるところがありますが、彼は他に何も出来ないこともあって、滞留する汚物を沢に流し込むための工夫と建設に取り組みます。それはリーダーが論ずる共産革命による未来のユートピアを目指す崇高な聖戦とはほど遠い仕事でした。しかし直ぐ機動隊との銃撃戦となり逮捕され、自分はいったい何をしていたのだろうかと打ちひしがれます。やがて保釈され、彼は動物が好きだったので、ウガンダ国立公園で働いているうちに、河馬に噛まれるという経験をする。それが地方紙の記事となって、彼を知った大江と思われる作家が、河馬に噛まれた元活動家と河馬の生態が、どこか重なり合うことに気付いていくという物語です。そこで作家は動物学者の言葉を引用します。

 「河のなかに緑の植生のかたまりができると、河は氾濫する。水中で盛んに活動する河馬は、植生のかたまりに通路を開き、水の流れを恢復させる働きをする。河馬にはまた、ラベオという魚がまつわりついており、河馬が陸上からおとしこむ植物や、河馬自体の糞を食べる。そのようにして河馬は、アフリカの生物の食物連鎖に機能を果たしているのだ。」そして作家は、ラベオと呼ぶ魚の群れをまつわりつかせつつ、水流をとざす緑の植生のかたまりに通路をあけるべく、猛然と泳ぐ河馬のありように引かれる。そして、おそらく河馬に噛まれた元活動家も、その河馬の姿をウガンダで眺める時、励まされるのでないかという意味のことを書くのです。

 私たちも赤軍革命戦士に似て、終末のキリスト再臨によってもたらされる神の国を待望して戦い、教会を建てています。ところがその高邁な目標のわりには、教会で毎日具体的に行っていることと言ったら、彼のトイレ問題に象徴されるような、日替わりで現れる瑣事ばかりです。しかしそれは避けて通れない、目の前の壁であって、それを突破しようと、河馬同様に衝動的に動き回る日々でしかない。その中でやはり蛇の誘惑を受けて、神様に代わって自力で突破を試みる。つい邪魔物があるとやみくもに噛みついてしまうような本当に馬鹿馬鹿しい河馬的人生を送っているようなところがあります。将来来る壮大なる神の国、そのユートピアを大声で宣教しているわりには、日々、やっていることは訳もわからず、近視眼的に動き回っているだけという、そんなところが私たちの教会生活には付きまとうのではないでしょうか。そうやって振り返った時、浅間山荘のトイレ作りに邁進して、結局挫折した少年兵のように、自分はいったい何をしてきたのだろうと、頭を抱え込むようなところが、実際、今の私にもあります。しかしヨセフは、そして大江健三郎もおそらく、それでも君のしたことには意味がある、それでも将来の希望の道は切り開かれる、そう言ってくれるのではないでしょうか。何故なら、私たちの愚かな業をも、真に全知全能なる神様が良いことに変えて下さるからと、ただ目先のことで暴れ回っているだけですが、それによって「植生のかたまりに通路を開き、水の流れを恢復させる」。つまりそれでも御国は来る。ラケルの人生もそのような良き果実を生み出しではないか。そう私たちの近視眼的河馬的人生を神様は励まして下さる。

 そして、先にもう一箇所朗読したマタイ福音書冒頭に記されているように、そうやって世に来た救い主イエスだけが、全人類の中でただ一人、ついに悪魔の誘惑に勝利したのです。「サタンよ、退け」と叫んで。この勝利者イエスに頼って、私たちもまたサタンの誘惑に耐える道を切り開いていきたい、そのように願います。

祈りましょう。 主なる神様、誘惑に負けて原罪を繰り返し犯す私たちを、どうか御子の贖いの故に赦して下さい。しかしその救いに甘えることなく、今度こそ、勝利者イエスに導かれ、聖霊に助けられ、サタンの誘惑に勝ち、目先のことも遠い将来をも見る、遠近両用の眼差しを与えられ、御国建設に取り組む私たち西片町教会とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



a:171 t:1 y:0