2022年3月13日 主日朝礼拝説教「悪を善に変える神」

https://www.youtube.com/watch?v=sZwkGGp5qfE=1s

創世記50:1~26

ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。/あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50:19~20)

説教者 山本裕司 牧師

 老ヤコブの亡骸はエジプトの高度技術によってミイラ化されました。続いてファラオの葬りに匹敵するような壮大な葬送行列と、創世記50:10「非常に荘厳な葬儀」が執り行われました。しかし到着したのはピラミッドではなく、全く対照的な素朴な洞窟墳墓マクペラであったのです。しかしそれでいて、全人類の中で初めて砂漠の神ヤハウエと出会った遊牧民の先祖、その家族たちの眠る、霊的意味ではこの上なき祝福された墓の中に、ヤコブの亡骸は横たえられたのです。そして70日間に及んだ喪が明けました。この大イベントを終えて皆ほっとする時であるにもかかわらず、以前からこの日を迎えることを、ヨセフの兄たちは恐れていたのです。十人の兄たちはこの時、大昔、伯父エサウが言ったと伝承された言葉を思い出していたからです。「エサウは…『父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。』」(27:41)。今回も同様の復讐心をヨセフの密かに燃やしているのではないか。これまでは父の存在が盾のように弟の仕返しから兄たちを守っていた。しかし今や父は洞窟の中です。その時彼らが頼ったのが一人の人でした。50:16「そこで、人を介してヨセフに言った。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。」トーマス・マンはこのヨセフに伝言する者をラケルの次男ベニヤミンとして描きました。

 兄たちは末っ子ベニヤミンに伝えました。父上は死ぬ少し前に我々だけを集めて、ヨセフにこう語れとお命じになられたのだ。50:17b「確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい」と。送り出されてベニヤミンは、遊牧民エサウが持っていた力と比較にならない、大帝国エジプトの最高権力者ヨセフを訪ねました。「ヨセフお兄様、お母さんの違う兄たちからの伝言を託されてきました。それは父上の臨終間際に言われたことだそうです。四十年前の昔のことで兄たちに報復しないように、死後も父は盾となって、天地創造後の最初の兄弟のようなことが反復されないように、今もお前たちの間に立っているのだ」と。

 ヨセフはそれを聞いて「いったいそれは本当のことかい」と問うた時には、もう彼の目には涙が浮かんでいました。ベニヤミンは「おそらく本当ではないでしょう」と答える他はありませんでした。「そうだろうな、父上はもう私たち兄弟には、人類最初の兄弟のような心配は必要ないことを承知しておられたはずだから。」そう言ってヨセフはさらに涙を流しました。その時兄たちもやってきます。そして50:18b、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言いました。かくして、40年前、17歳のヨセフの夢が実現したのです。37:7「畑で…いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」その夢の話を聞いた兄たちは怒り狂い、ドタンの草原で依怙贔屓の象徴、弟の晴れ着を引き裂き空井戸に投げ込んだ。その束の夢を正夢にしないために。すんでの所で殺害だけは思い止まりますが、ヨセフはエジプトに奴隷として売られてしまったのです。それが血を分けた弟に対してどんなに残酷なことであったか、多くの人生の試練を経て、70歳前後と換算出来ますが、兄たちはこの父の墓前で痛いほど感じていたのです。若い頃は何でもないと思ってしたことが、トラウマとなって生涯頭から離れなくなる。特に愛する家族を葬る時、私たちの心は極めて鋭敏に研ぎ澄まされるのではないでしょうか。

 私が小学3年生の時祖父が死にました。故郷深川での葬儀の後、伯父さんがこれから皆でどじょう鍋を食べに行くと言う。私は当然、どじょうなんか食べたくないラーメンが食べたいと言いましたが、誰も言うことは聞いてくれない。そんなことまで何故かリアルに覚えているのです。ところが初めてどじょうを食べたら、下町の血がそうさせたのか、とてもおいしかった。その席で何故か父が「おやじが死んだ、次は僕の番だな」と言った。それから60年が過ぎてその言葉が今でも忘れられません。その父も死にました。その松沢教会での葬儀の時、私も「次は僕の番だ」と同じ台詞を呟いたのです。家族の死を経験し見送るとは他人事ではい。ヨセフの兄たちもこの時、死のリアリティに直面する。次は僕の番だと。それを突きつけられた時、過去の罪深い記憶の数々が昨日のことのようにフラッシュバックされる。そして失敗したと、ああ人生をやり直せたらと思う。その後悔の中で、兄たちは父ヤコブの遺言という形を取って、自分たちの真心を弟に届けようとしているのです。「ヨセフよ、お前に悪いことをした。あの時は自分が何をしているか知らなかったのだ。どうか私たちの咎と罪を赦して欲しい。」

 一方、それを聞いて涙を流すヨセフも同じ感情に心が揺さぶられたのではないでしょうか。彼は言いました。

「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。」(創世記50:19)

 これは信仰告白です。真に他者の罪を裁き復讐出来るのは「完全なる義」に生きる神のみ。人間ヨセフにはその曇り無き義はありません。そこで赦せないなど言うのは傲慢なのです。少年は王子のように振る舞い、労働に明け暮れる兄たちをどれ程見下したか。自分でも何をしているか知らないままに。兄たちのしくじりや自分に対する虐めを、許すどころか、父に告げ口する快感に酔った。それが「ガラスの城」を作り上げたのです。ヨセフもまた兄を裁く資格はない。彼もまた50:20「悪をたくらんだ」一人に過ぎません。そして私たちは全てこのような存在なのではないでしょうか。

 ニューヨークで働く救急救命士の言葉を読みました。彼は患者が後数分に死ぬ、そのような事故に多く接してきました。その時彼はその事実を告げてきました。それは本人にとって良いことだと思ったからです。そして人はその最期に取る共通のパターンがあるのに気付くのです。それは救命士をいつも驚かせてきた。宗教や文化的背景に関係なく、死にゆく人は赦しを請うということです。その死の瞬間、記憶の底から、それは時に数十年前のことも含んで、ほとばしり出てくるのは罪責意識だと。「私は一度、心臓発作を起こした男性の対処をしたことがあります。今にも起こる心停止に備えている時、彼は看護士の態度から死を既に悟っていました。私が彼の胸にAEDパッドを置いた時、彼は私の目を見て言いました。「ああ自分の時間をただ自分勝手に用いず、妻や子どもたちともっと沢山の時間を過ごせばよかった。忙しい、忙しいとそっぽを向き続けた。何故もっと優しい言葉をかけてあげられなかったのだろうか。」差し迫る死に直面し、彼が欲したものは家族からの赦しでした。そういう事例を紹介しながら救命士はまるで説教者のように言うのです。「実は皆が望んでいる若さや健康は、人に何も見えなくさせているのです。もう死ぬと分かる時、初めて人間は真実に目覚めるのです」と。

 あるいは、56歳で死去したアップル創業者、資産数兆円と言われたスティーブ・ジョブズの最後の言葉は余りにも有名です。「私は、ビジネスの世界で成功の頂点に君臨した。他の人の目には、私の人生は成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし、振り返れば喜びが少ない人生だった。病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。私が求めて来たプライドや認証(人から認められること)、そして富は、迫る死を目の前にして色褪せていき、何も意味をなさない。神の息を感じる。死がだんだんと近づいている…。今やっと理解したことがある。…価値なるものは、人間関係や、芸術や、または若い頃の夢かもしれない。終わりを知らない富の追求は、成功は人を歪ませてしまうばかりだ。神は、誰の心の中に、富によってもたらされる幻想ではなく、愛を感じさせるための「感覚」(センサー)を与えて下さったのだ。私が勝ち得た富は、一緒に持っていけるものではない。私があちらに持っていけるものは、ただ一つ愛情に溢れた思い出だけだ。これこそが本当の豊かさであり、あなたとずっと一緒にいてくれるもの、あなたに力を与えてくれるもの、あなたの道を照らしてくれる唯一のもの…」そう言うのです。彼のこの発見は彼の発明、直ぐ時代遅れになる「iPhone」以上の普遍的値打ちを持つのです。つまりここで彼は、私たちがこの創世記の旅人の物語を読みながら追求してきた「祝福」とは何かを、言い換えているのです。青年だったヤコブが、穀物など長子の家督権であると覚えた祝福、しかしそれを得た時、ヤコブは、それが祝福でも何でもないことに気付いた。爾来、彼は漂白の旅をしつつ神の祝福とは何か、それを生涯をかけて瞑想し続けた。そこで知ったことは愛さないことは呪いであるということです。そうであれば祝福とは愛そのものであった。あのベテルで、インマヌエルの主が与えて下さった愛です。あのパダン・アラムで、夜のように黒い瞳をキラキラ輝かせていた少女ラケル、彼女の愛です。それこそが彼の祝福だったのです。

 人生の終わりを思い、悔い改めた兄たちに対して、涙ながらにヨセフは言います。50:19「恐れることはありません。」そしてヨセフもまた、この父を葬る中で、鋭敏になった心で次は私の番だと思っていたのではないでしょうか。実際、兄弟たちの中で一番先に死んだのは、11番目の弟なのに、50:24以下の言葉から、この大権力者ヨセフであったと推定されているのです。遊牧民として自然の中を駆けまわり粗食に生きた兄たちとは異なり、真にストレスフルな官僚組織の重責とエジプト料理の美食、過食が祟ったのかもしれません。しかし真に祝福を受け継ぐとは、それが富でないのと同様に、実は私たち年寄りが血眼で追求している健康や長寿でもないのです。むしろ近づいてくる自らの死を覚え、「真実の価値」に目覚めることです。マンの作品の中で兄たちの拝礼を受けた時、ヨセフは両腕を広げて身を屈めました。「兄さんたち、何を恐れておられるのですか。この私に赦せとおっしゃる。いったい私が神のような存在なのでしょうか。エジプトで私は神の化身ファラオに等しい者と呼ばれています。でも実はファラオも憐れなただの人に過ぎないことを私は知っています。私と同じように、お兄さんたちは私たちの家族に起こったことの全体像が未だ見えませんか。罰せられるべきは私です。途方もない若気の至りで兄さんたちを傷つけて、乱暴されても仕方がなかったのです。しかし実は私たちの家族を祝福した神は、それらの人間のあらゆる愚かな感情の全てを用いて、一つのことを成し遂げようとしておられたのです。多くの人々の肉体と魂の飢餓からの解放を」と。そして口をぽかんと開けている兄たちの前で、ヨセフは手品の謎解きをするかのように胸を張って言いました。それが創世記50:20の言葉です。

「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」

 ある説教者(近藤勝彦先生)は、この言葉は、創世記全体のテーマである、そう言って直ぐ言い直します。いや、聖書全体のテーマであると。兄たちは、悪をたくらみ、ヨセフを半殺しにした。しかし、兄たちの妬みの悪事が、しかしその兄たち自身を、さらに多くの者を飢餓から救う善に変えられてしまったのです。パウロの言葉(口語訳)を思い出さざるを得ない。ローマ11:33「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。」「ああ深いかな」、そう使徒パウロは叫ばずにおれない。人間の思いを遥かに超えた神の計画があると言うのです。

 今朝の創世記の言葉は聖書全体の主題であると説教者は言った。その福音の先取りです。50:20、人の悪を神は善に変える、これはイエス・キリストの御受難の意味を予め告げるものだと誰もが気付きました。私たち人間は皆、主イエスに悪をたくらんだ存在です。主イエスの衣を剥ぎ取り十字架につけ、井戸のような墓穴に投げ込みました。この罪無き神の子イエスだけがこの私たちに復讐し裁く権能を有する唯一のお方であったのです。しかし御子はそれをなさらず、むしろ私たちを赦して下さいと、父に取り成して下さった。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23:34)

 その祈りに答えて父は、この人類最大の悪を用いて、それを善に変えて下さった。御子イエスの十字架の犠牲によって、私たちの罪を贖って下さり、その離れ業によって、私たちの根源的魂の飢えを救われたと聖書は告げた。私たちはそれを聞いた時、「ああ深いかな」と呻かずにおれない。

 兄たちもその神の御心を知った時、安心して顔をあげて、母の異なる弟ヨセフの顔を見ました。その時兄たちが聞いたものは、母ラケルから譲られた黒い瞳が大きく見開かれ発せられたヨセフの宣言であった。「私たち兄弟は今、目覚めたのです」と。

 救命士の前で死にゆく男が目覚めたように。暗闇の中で生命維持装置が点滅するのを見つめるなか、ジョブズが目覚めたように。アブラハム以来、イスラエルに継承される神の祝福、それは愛です。後の時代、神を愛し隣人を愛すること、それが唯一のイスラエルの掟だと御子は教えた。その真実を、今、12人の息子たち、つまり神の民イスラエルは分かち合っているのです。50:21bのヨセフ物語の終わりはこうです。「ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。」顧みればこのヨセフ物語の冒頭、創世記37:4にはこう事の起こりを記しています。「兄たちは、…ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」しかし、今、この終わりに「優しく語りかけた」との言葉を以て創世記は終わります。穏やかに話すことも出来ない、殺し合いの世界の中で、互いに慰めること、優しく語り合うこと、その愛に生きる共同体イスラエルが、ついに終わりの日に生まれたのです。そのために神様は営営と私たちに働きかけ、また「悪を善に変える」奇跡を用いて下さったのです。ここに新しいイスラエル、私たちの教会が何を土台としているかが示されています。ジョブズは言った。「プライドや認証、そして無限の富も、迫る死を目の前に全て色褪せ、何も意味をなさない。」死に際して残るのは愛情、ただ愛し愛されたその思い出だけだ。その愛を土台に教会は建つ。この祝福に私たちもこのレントの朝、真から目覚めたい、そう願う。

祈りましょう。 主なる父なる神様、私たちの悪をも用いて、私たちの罪の赦しの福音の道を開いて下さった、あなたの驚くべき御業に心から感謝致します。そのあなたの罪人を救う愛によって、死ぬ直前だけでなく、今、ここで目覚めさせられ、私たちもまたあなたを愛し隣人を仕え、あなたに仕え隣人を愛する、その祝福を受け継ぎ、来るべき2022年度も新しいイスラエル、神の民西片町教会を建て続けていくことが出来ますように、聖霊を注いで下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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