2022年2月6日 主日朝礼拝説教「見よ、兄弟が共に座っている」

https://www.youtube.com/watch?v=Fu7Of37-W_0=1s

創世記45:1~28

「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、…あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。/わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」(創世記45:7~8)

説教者 山本裕司 牧師

 神学校に入ると「予型」(type)という言葉を学びます。聖書解釈の一つです。旧約聖書の物語が新約聖書に登場するイエス・キリストや教会の予型(前兆)であるという理解です。私たちはヨセフ物語を毎主日ここで読むという、語る私にとっても聞く皆様にとっても二度とないかもしれない経験をしながら、この冬の礼拝を続けています。そしてこれはただおもしろい昔話を聞いたということに止まらず、この旧約のヨセフは新約のイエス・キリストの「予型」、ヤコブの息子たちは12弟子や教会の「予型」という解釈法を用いて、ここまで私たちはこの物語を読んできました。つまり新約で起こる出来事を、神様は大昔のヨセフ物語の中に「前もって表して」おられた、そう理解するのです。そして私が度々引用する作家トーマス・マンこそ、まさにこの「予型」の神学を用いて、ヨセフ物語を新約の光のもとで語り直しているのです。

 先ほど朗読した創世記の物語において、ヨセフがついに兄弟たちに、45:3「わたしはヨセフです」と名乗りました。それに対して兄弟たちは「驚きのあまり、答えることができなかった」と続きます。この「驚き」とは「恐れ」とも訳されます。兄弟たちにとって事実上死んだはずの弟ヨセフが目の前に現れたのです。しかもヨセフは、45:4b「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と続けました。兄たちはこれを聞いた時、どんなに恐ろしかったでしょうか。殺したはずの者が生き返って目の前に現れたとしたら、怪談がそうであるように、たいがい復讐のためです。しかもヨセフは今や無抵抗な弟どころかこの世の最高権力者でした。だから震え上がる。そうでなくても被害者に目の前に立たれたら、加害者の良心の呵責は耐えがたいものがあるのではないでしょうか。

 それとの関連で申しますと、先週の夕礼拝で2年間を要したマルコ福音書を読み終えました。その終わりは当然主のご復活の出来事ですが、マルコ福音書の最後の節はこうです。16:8「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」この復活の恐れが「予型」として、このヨセフの兄たちに先取りされていると先ず解釈出来るのです。しかし無論旧新約両聖書とも、この再会は「恐怖」では終わりません。それは同じ驚きであっても、まさに驚くべき喜びが直ぐ現れます。復活の主と出会った弟子たちの歓喜、それはマルコ以外の他の福音書で等しく記されるのです。どうしてこの再会が新約の弟子たちとって、恐怖から喜びに変わったのでしょうか。その福音の秘密こそ、このヨセフ物語において最も大切なこととして「予型」されているのです。

 ヨセフは恐れる兄たちに語ります。45:5~8「今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。/…神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、…あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。/わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」

 もう一度言います。ヨセフは、45:5b「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」、そうこの兄弟の間で起こった悲劇の全てを、神の救いの御業、御計画であったと解釈し直します。これは表面的には全土に広がった7年に及ぶ大飢饉から、イスラエルの肉体の命を救うということでしょう。〈45:10~11、ヨセフは未だ飢饉は5年続くと知っているので、家族たちがヨセフによって食糧が保証されるゴシェンに移住することを勧めます。〉しかしそれはただ肉体のことだけでなく、互いに罪を犯したこの「死の家」が贖われ「命の家」へと甦るという救済が起こったと暗示されているのです。そしてここに驚くべき主イエスの「予型」が現れるのです。主イエスは受難週の金曜、弟子たちをも含んだ人間たちによって殺され埋葬されたのです。しかしこの十字架の死によって、私たち全人類の罪が贖われ、死ぬべき私たちに命が与えられたのです。井戸の如き墓穴に、捨てられた主が、捨てた者の命を救ったのです。その「予型」としてのヨセフ物語は、エジプトに売られた少年が、売った者の命を養ったのです。これは人間の業ではなく、全ては神の救いの計らいであった。ですからそれを知った時、ヨセフはもはや復讐どころではない、兄弟たちに、45:4「どうか、もっと近寄ってください」と呼び掛けます。それは空間的な距離のことだけではありません。20年以上、心こそが隔てられた兄弟の交わりが回復するのです。近寄っただけでもない。一つになる。45:14「ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。/ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。」一つになった。詩編詩人はこう歌いました。133:1「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」この祝福がここでイスラエルの家に実現したのです。しかも祝福はこの家だけで終わりません。

 45:2「ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。」45:16「ヨセフの兄弟たちがやって来たという知らせがファラオの宮廷に伝わると、ファラオも家来たちも喜んだ」とあります。「見よ、兄弟が共に座っている」、このイスラエルの兄弟の中で始まった喜びと祝福が、宮廷、つまりエジプトの家へと広がって行くのです。これこそ神が曾祖父アブラハムを、行き先を知らないで旅立たせた目的でありました。12:2~3「わたしは…あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。/…地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」この神様の、人間の罪、悪をさえ用いながら進められる壮大な救いの御計画によって、喜びと祝福が、今、目に見える形として満ち潮のように地を覆っていくと描かれるのです。

 この満ち溢れる祝福の後もはや物語は、兄弟たちが、ヨセフとファラオからの夥しい贈り物を携えてヘブロンに帰るだけとなりました。しかしそこで終わらせずにトーマス・マンは再び巨大なる想像の翼を広げて、父ヤコブへの報告の物語を描きます。確かにヨセフが生きていることを父ヤコブに報告することは難事業です。兄たちは22年前、ドタンからの帰還の時、ヨセフの死を報告しました。しかし今回のエジプトからの帰還の時、全く逆に、45:26「ヨセフはまだ生きています」と報告しなければならないのです。それは自分たちの22年前の罪責の全てを父に告白することでもありました。この帰路、兄たちは悩みました。老父はヨセフが生きていると知らされた時、驚愕してまた後ろに倒れるかもしれない。あるいは薄々気付いていた、ラケルの息子にした兄たちの仕打ちと嘘がはっきりして激怒し、やはり後ろに倒れるかもしれない。そこでどう報告するかの策を17日間の帰路の中で彼らは相談します。一応皆で知恵を絞って、一番老父にとって刺激が少ない方法を編み出しましたが、それは先ず王宮馬車など夥しい贈り物を先に行かせて、この贈り物は誰からのものでしょう、当ててごらんなさい、などという所からじわじわと核心に触れていったらどうだろうなどと、涙ぐましい工夫を相談しました。しかしヘブロンが近づいてくると、このような方法が実に馬鹿馬鹿しいことに気づき、どうやってこの信じ難い福音を伝えたらよいか殆ど万策尽きたという感じになってしまったのです。このような兄弟たちの姿も、私たち伝道者が、あるいは皆さんが、例えばあの理屈っぽい求道者に、あるいは家族の頑固者に、どうやったら良き訪れ「福音」を伝えられるのか、そのやり方が見つからずに、頭を抱え込む私たちの「予型」先取りなのではないでしょうか。

 一行が進んで行った道には春の花が咲き乱れていました。その脇の石の上に、離れたこちらからはその花のひとつに見えるほど、いたいけな少女が座っていました。赤いシャツを着て髪に雛菊の花を挿し、キトラを抱え、しなやかな指で弦を弾いていた。それはアシェルの子セラでした。その「祝福された」との意味の名を持つ八男アシェルは嬉しそうに言いました。「ああ俺の娘のセラがキトラを鳴らしている。」12歳の少女セラはその歌と楽器を奏でる天才的な才能が、咲き乱れる春の花のように開花していた。その時、兄弟の一人が天啓のように思いついて言った。これまで練った案はどれもくだらない。そうだ、神様がこのセラに最初に会わせて下さったのは理由がある。セラに一足先に行かせて歌で真実をお父さんに知らせれば、我々が到着する頃には、その報告を聞く心の準備になろうというものだと。そこで伯父たちはセラを呼んで、お前には未だ会ったことのないもう一人の叔父さんがエジプトにいるんだよ…、そう一部始終を伝えた。この話を直ぐ歌にしてお爺さまに聞かせてあげなさい。セラは「喜んでするわ、すごい家族のお話を聞いたんですもの、誰にも負けない新しい歌にしなくちゃ」そう無邪気に言って、楽器を手に取り指を弦の上に広げ、こういう具合と指の位置を定めて花を踏みしめながら歌い始めました。

 「魂よ、歩きながら、新しい歌を主に向かって歌え。十弦のキトラを奏でて褒め歌をうたえ。新しい歌を主に向かって歌い、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ(詩編33:1~3)。イスラエルに主の栄光を語り伝えよ、諸国の民にもその驚くべき御業を(詩編96:1)。キトラの音に恥じないこんな言葉が、私の心を満たす響きに加えられました。お爺さま、少年は引き裂かれたと、あの人たちは真っ赤な嘘を言い、それを聞いてあなたの心は永遠に冬の闇に閉ざされ、塩の柱になりました。あなたの心の中で少年は死にました。それが今、甦ったとしたらどうでしょう。…その人こそ死んだはずのヨセフです。気高く美しい私の叔父様、エジプトで最高の重臣となったヨセフ、お爺さま、あなたのあの子羊はこのように高く上げられたのです。お爺さまが子羊の死を悲しむこと既に二十年、でも神様は、あなたに耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共にそれから逃れる道をも備えてくださいました(コリント一10:13)。神様はお爺さまを見事にからかいましたが、欺す人との名を持つお爺さまを欺した神様の御業は偉大です。」

 いつの間にか、この少女の歌に魅せられた村人の一人が一緒に歩き始め、皆にも呼び掛け、そこに一人また一人と加わり、やがて大きな群れとなって、マムレのテレビンの木の近くまで行進してきました。ヤコブは天幕の前の筵(むしろ)の上にいつものように座っていた。近づいて来たセラは、楽器を高々と抱え、弦をつま弾いて巧みな諧謔音と不協和音を出したかと思うと、今度は一転、豊かに湧き上がるような美しい和音を響かせて歌った。「私の調べに織り込まれるのは、いつまでも亡びない美しい言葉、少年は生きている。我が魂よ、歓呼して歌え、弦の黄金の調べに合わせて!心よ、それは失われていた子、獣の牙に引き裂かれ、櫃(ひつ)の中に閉じ込められた、冬の野は一面荒れ果てました。でもついに響き渡る声、あの子は甦ったと。老いたる父よ、信じて下さい。あなたの愛児は春の花が咲き乱れる彼方から、あなたのもとに帰って来る。その人があなたに向ける「おはよう」の挨拶は、冬の夜を追い払う。」

 初めヤコブは歌好きの孫娘と村人たちが音楽に合わせて、両手を打ちながら近づいてくるのを上機嫌で見ていました。しかしそのセラが歌う詩歌が明瞭に聞こえるようになってから、不審な思いで胸が一杯になってきた。そして孫娘に話しかけた。「いい子だ、でもおまえは、いつの間にあの谷間のカナンの神々のことを歌うようになったのだね。確かに今年もその一度死んだカナンの神々が三日目に甦る、そのお祭りが行われることだろう。でもそれはアブラハムの子孫である我々が信じる真の主ヤハウエと関わりのないことだ。我々は陰府に落ちた死者が生き返るなどという、ありえない異教徒の教えは退けないといけないんだよ。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神から頂いたおまえの類い希な音楽の賜物は、唯一の主にだけ献げられるためなのだから、無駄遣いをしてはいけないんだよ。」ところがアシェルの娘セラは微笑みを浮かべて答えず、再び弦を鳴らし始めた。「私が歌うのは誰でしょう、一度陰府の井戸に落ちたヨセフのことに他なりません。でも神様はご自身も陰府に降って、少年の手をつかんで高く引き上げて下さった、だから彼より偉いのは玉座にあるファラオだけ。お爺さまは信じられない、でも信じないわけにはいかなくなる。何故なら、楽の音に値する一つの言葉が天から与えられたのです。言葉と響きが美しさを分かち合い、こう新しい歌を歌おう。空井戸の底のようなお墓は、空っぽ、空っぽ、空っぽ、少年は生きている。」ヤコブは気がおかしくなりそうだった。「セラ、この孤独な爺さんを慰めようとしてくれる、それはありがたい。しかし私は嬉しくないぞ、ヨセフはとっくに死んでいる、引き裂かれてだぞ。」するとセラは、その「死」と「悪い訪れ」に負けてたまるかと言わんばかりに、弦をいっぱいにかき鳴らした。「わたしは力の限り良き訪れ「福音」を告げ知らせます。わが魂よ、歓呼しつつ歌え。黄金の弦に合わせて。岩穴は愛児を引き留めてはおけなかったと。心よ、愛児は生きて還るのです。長い間彼はいなくなっていた。冬の野は荒れ果てました。でもついに、春分後の最初の満月の次の日曜日の朝、響き渡る声、あの子は甦ったと。老いたる父よ、信じて下さい!そうです、魂が求めていたことが、今度こそ現実となりました。ですからあなたのために歌いましょう。あなたの少年は生きています、あなたの子羊は生きています、ラケルの長子は生きています。」ヤコブはアシェルの娘セラから涙をいっぱいたたえた目を背けた。

 それから一千六百年後、ヤコブの子アシェルを太祖とするアシェル族のファヌエルの娘で、アンナという84歳の女預言者が神殿で神に仕えていた。ある時、ナザレから幼子を連れて神殿に初参りに来た若夫妻に彼女は近づいて来た。そして神を賛美し、ルカ2:38「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」アシェル族の娘はこのように、アシェルの娘セラの反復として、誰よりも早く救い主の命の到来を、その良き知らせを告げ知らせる福音宣教者となる定めになったのです。

 ヤコブがあっけにとられている間に、11人の兄弟は到着しベニヤミンを中心にして父に近づいて来た。他の十人はそれぞれ皆、ベニヤミンのどこかを捕まえたり触れたりしていた。それは皆自分の手で、ラケルの子を父の手に戻そうと願ったからです。ヤコブはなお茫然とした目つきで言った。「危険に満ちた旅から皆そろって帰って来た。普通の場合だったら、ただ喜べば良い瞬間であろう。しかし私の心は今別のことでいっぱいになってしまった。それは祝福の子と呼ばれる八番目の我が息子アシェル、おまえの娘が、ラケルの子ヨセフについて非常識な歌を歌い続けるからだ。」

 その時、ユダが前に進み出て言った。「父上、セラがキトラに合わせてうたった歌は、それほど非常識な歌でなくて、真実を宿していると、お考えにはなられませんか」と。ヤコブは言い返した。「真実だと、この娘はわしに「少年は生きている」と三度もリフレインしたのだ。そのどこに真実があるのか。」その瞬間、11人の兄弟は両手を高く差し上げながら、ユニゾンで叫んだ「真実です。アーメン!」と。

 それから一千六百年後、復活の主に出会った11人の弟子たちが、両手を高く上げて「イエスは生きておられる。これは真実です。アーメン!」と宣教を開始した姿に、それは反復される。「真実です!」その声は、水面のさざ波のように広がって、兄弟たち後ろに集まってきたイスラエル一族に伝染して「真実です!」との叫び声となり、それはまた空を舞う風のように広がり、セラの後から歌いながら行進してきたカナンの夥しい村人たちも「アーメン!」と一つになって唱和したのです。

 ベニヤミンは「お父さん」とヤコブを抱擁して言った。「信じて下さい。お父さんのことを繰り返し質問して「お父上はまだご存命か」と知りたがったエジプト高官は、ラケルの長子ヨセフです。」イスラエルはもはや疑うことは出来ず言いました。

 「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」(45:28)

 そして目を高く上げて続けた。「復活の主の御名を褒め称えよ。」一同は歓喜し応えた。「讃美せよ、ハレルヤ!」と。セラがまたキトラを力強く奏で始めた。その伴奏に合わせてヤコブを中心に、天幕の周りいた者たち全員が一つ輪となって歌い始め大合唱となった。「少年は生きている、これが真実、洞窟の死の塞ぎ石は転がされる、死は勝利にのみ込まれた、櫃の中は、空っぽ、空っぽ、空っぽ、だから十弦のキトラを奏でて褒め歌をうたえ。新しい歌を主に向かって歌い、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。」その時、ベニヤミンの鼻孔は、はっきりと谷間から春の風に乗って流れてくる、今年初めてのミルテの花の香りを、祝福と命の香りを捉えたのだ。主がなされることは何と素晴らしいことでしょう!

祈りましょう。 主なる神様、兄弟が共に座っている、その喜びと祝福をどうか私たちにも与えて下さい。そのために、御子が死んで甦られた福音を、それは真実と信じる信仰を与えて下さい。それを信じたら、アシェル族の娘の心を受け継いで、私たちもまた今近づいてくる2022年の春の朝、オルガンの伴奏に導かれて、御子の復活賛歌を一つになって合唱する教会、そうやって祝福の源流となる西片町教会となりますように、聖霊を豊かに注いで下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



a:418 t:1 y:0