2022年2月27日 主日朝礼拝説教「ヤコブの交差する手」

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創世記48:1~22

「イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。」(創世記48:14)

説教者 山本裕司 牧師

 エジプトのゴシェンに移住して17年、波瀾万丈の旅路を歩んだヤコブは147歳になっていました。老いて痩せ衰えた肉体はその死の時が近づいていることを示していました。遠い昔、砂漠を横断しパダン・アラムの草原に至った時、彼は初恋の少女ラケルと出会います。その時彼は興奮の余り、数人がかりでなければびくともしないはずの井戸の石蓋、その重石を一人でわきへ転がしてしまった。その若き日のヤコブはもういません。私たちも壮年時代には多くの仕事を精力的にこなしてきたかもしれません。しかし年を取るともう重荷を担ぐ力はありません。ヤコブも先ほど朗読した、創世記48:2bにあるように、力を奮い起こさなければ寝台の上に座ることも出来ないほど弱っていました。また48:10、目は老齢のため霞んでよく見えませんでした。しかし彼には大きな仕事が残っていたのです。それこそ、祖父アブラハム、父イサクと受け継いできた神の祝福の継承でした。そう聞くだけで、私たちもまた自分がどんなに弱っても、やるべきことが残っていると教わるのではないでしょうか。いや、むしろ老いた今だからこそ出来ることがあるのです。それぞれの人生の中で与えられた神の祝福を、家族に隣人に分け与える仕事が残されているのではないでしょうか。それは決して人生のおまけではありません。むしろその「祝福とは何か」を知るために、自分の山あり谷ありの生涯の全てがあったのではないでしょうか。そこで知った信仰を次の世代に継承するために私たちは今日まで生かされてきた、そう言うべきではないでしょうか。その思いを以てヤコブがなす、祝福継承とは渾身の祈りです。48:16b「どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。」これこそ私たちの祈りでもあるのです。
 
 ヤコブはこの祈りの時、先ず万感の思いを込めて神を呼びます。48:15b「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」と。ここで私たちは先週に続いて詩編23編を思い出すのではないでしょうか。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」この詩人の経験をヤコブもしたのです。まさに彼は「死の陰の谷を行くときも」牧者なる神様が同伴して下さった。そして憩いの水のほとりに導いて下さった、だから生き抜くことが出来た、その経験をしてきました。あるいはルカ福音書15章に記される主イエスご自身が作られた物語を思い出すのです。あなたがたが、「その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」ヤコブの人生がいかに罪に迷う旅路であったか。しかし牧者なる主は、失われた羊ヤコブを捜して下さった。見捨てなかった。繰り返せば、このヤコブの冒頭の祈りを聞いただけで、内村を真似れば、私たちが子どもたちに残す「後世への最大遺物」、それは財産でも土地でもないことが分かります。これさえあれば人は、死の陰の谷を行くときも生きられるというもの、それはただ一つ、「神の祝福」なのです。

 ヤコブは続けます。創世記48:16a「わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。」まさにあらゆる自他の罪咎の苦しみが、彼の旅路にはつきまといました。しかし御使いの姿をお取り下さった神様は、贖って下さったと祈られます。「贖い」とは、元々借金を返せなくて奴隷に落とされた者に代わって、誰かがその借金を支払ってあげる。それによって奴隷の境遇から救ってあげる。そのような経済的な意味がありました。その「贖い主」に神様がなって下さったと祈られるのです。そして旧約学者は指摘します。神は「贖い主」である、そのことについて語られた最古の言葉こそ、このヤコブの祈りです、と。これまで人類の中で誰一人知らなかった、神は「贖い主」であられる、その真実に「かかと」とか「欺く者」との罪人の名を持つ「ヤコブ」だからこそ気付いたのではないでしょうか。使徒パウロがこの信仰をさらに展開しました。人は等しく罪の支払う報酬の故に、死と悪魔の奴隷状態となった(ローマ6:23)。しかし我々はイエス・キリストの十字架の贖いよって救い出されたのだと。私たちに代わって主は、ご自身の命を代価として支払って下さった。そして私たちを悪魔の虜から買い戻して下さったのだ。このパウロの知った主の十字架による罪の贖いの御業を、遙かなる大昔、既にここでヤコブは垣間見ていると言われるのです。どんなに肉体の視力は衰えても、その霊的視力は益々研ぎ澄まされ、2.0以上あったに違いない。霞むどころではない、その澄んだ眼差しを大きく開いて、彼はこの新約の福音を直視しているのです。

 〈ヤコブは創世記48:11で言います。「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった。」いや、私には祝福が見える、神が見させて下さったのだと、彼はここで暗に言っているのではないでしょうか。〉

 今はあどけない孫たちも罪人に変わりありません。やがてこの2人の名を掲げる北イスラエルを支配した部族、エフライム族、マナセ族が、どれほど罪深いことをしたのか、旧約聖書に書いてあります。そこからイスラエルにあらゆる苦しみが襲ってくる、そこから救って下さる神の贖いという祝福を、ヤコブはこれから、歴史の荒れ野に出ていく一族イスラエルに、どうしても継承しなければ、死んでも死にきれなかったのだと思います。

 ヤコブの寝室、そのゴシェンの地の天幕に戻れば、ヤコブは一度に二人の孫に祝福をするためには、片手では足りませんでした。そこで父ヨセフは、48:13、目の見えない父に配慮して長男マナセを父イスラエルの右手側に、次男エフライムを左手側に近寄らせました。ところが、48:14「イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いた」のです。ヨセフは父上もいよいよもうろくされたと思ったに違いありません。それでヨセフはやり直してもらおうと、48:17b~18「父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。/…『父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。』」そうヨセフの抗議を受けたヤコブは、48:19「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。」と拒みました。何故なら、このヤコブの振る舞いの背後には、神の選びの不思議さがあったからです。これまで読んできた創世記の物語を思い出してみれば、最初の兄弟、カインとアベルから始まって、アブラハムの子イシュマエルとイサク、そしてエサウとヤコブ、そして11番目のヤコブの子でありながら偏愛されたヨセフ、そして今朝のマナセとエフライムの兄弟に至るわけですが、全て弟の方が神の右手の選びにあずかっています。女性でもヤコブが愛したのは姉レアでなく妹のラケルでした。今朝の物語でも、注解者が訝るわけですが、48:7、前後の祝福執行の話の繋がりと無関係に、老ヤコブはラケルの死と葬りの思い出話を始めてしまいます。ヨセフはまたこの話かと、やれやれと思ったかもしれませんが、それくらいヤコブは妹の方を愛したのです。

 それは古今東西で作り上げられた、長男、長女こそ右手の者であるという人間の定めに対する、神の挑戦だと誰かが言いました。ヤコブがラケルと結ばれたと思った結婚式の闇夜、しかしそれはラケルではなく姉レアであった。ヤコブがラバンに訴えると伯父は平然と「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ」そう答える。姉が優先される右手の者だと。それが人間の作った秩序ですが、それに神は挑戦されるのです。使徒パウロはこの創世記の兄弟たちの経験を挙げながらこう言いました。ローマ9:11b~15、神は「『兄は弟に仕えるであろう』と…仰せられた…それは、自由な選びによる神の計画が人の行いによらず、…進められる(から)です。…(このことは)、神の不義なのか。決してそうではない。神は…『私は自分の憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ』と言っておられます」と。選びは神の自由に属すると。そもそも一族イスラエルを神は全民族の中から御自身を顕す器と選ばれました。それ自体が神の交差する選びであったと思います。神様は何故大文明を築いた強者メソポタミアのシュメール、アッシリア、バビロニアというまさに、人類の長子と言うべき偉大な帝国を選ばれなかったのでしょうか。何故神は御手を交差されるようにして、さすらいの遊牧民イスラエルに祝福の右手を置かれたのでしょうか。それは神が弱い者を偏愛されるからではないでしょうか。申命記7:7~8「主が…あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し」たからだと。

 さらにこのヤコブの交差する両手から思い出されるのは、今週の「灰の水曜日」から特に私たちが心に刻むべき主の御受難です。イエスを総督ピラトが裁く時、彼は主イエスが無実であることを確信します。そこで過越祭の恩赦の候補として主イエスを解放しようとしますが、群衆がそれを許しません。その時恩赦の対象となった、もう一人の囚人の名は「バラバ・イエス」(マタイ27:17)です。この裁判の結末は、結局、犯罪者(左の者)バラバ・イエスが救われ、神の長男キリスト・イエス(右の者)が断罪されることになりました。つまりここに「イエス」の「交換」が起こってしまったのです。私たちはここで、あのゴシェンの天幕でのヨセフの抗議、創世記48:18「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」そう私たちは父なる神に訴えたくなるのではないでしょうか。ところが父は「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている」そう拒まれる。父の御心は、罪人バラバ・イエスと義人キリスト・イエスがこの裁判の座で、交差し、イエスの入れ替えが起こってしまったという驚くべきことが起こったと福音書は書いています。そして改めて思います。この「交差そのものである贖罪」があるからこそ、私たちはまさにバラバのように救われたのだと。

 バッハの『ヨハネ受難曲』の中にも、主イエスがピラト邸で裁判を受けられる箇所ですが、磯山雅(だだし)先生によると、その受難曲の心臓部で、この贖罪による交換の秘儀を歌うコラールが選ばれます。「あなたが捕らわれたからこそ、私たちに自由が訪れたのです。あなたの繋がれた牢獄は、全ての信じる者の罪の赦しの場です」と。ヤコブの場合、彼がヨセフの長子マナセに按手した左手は、それも祝福であることには何も変わりがありません。ところがこの御子の御受難の出来事においては、父なる神の左手は呪いなのです。ですからその交差の意味とは、繰り返せば、本来「祝福の子」であるはずの長子イエスの方が裁かれ死ぬことによって、本来「呪いの子」であるはずのバラバ・イエスの罪が贖われ救済される。その時、バラバの頭上に、ゴシェンのヤコブの祈り、48:16「あらゆる苦しみから贖われた御使いよ」との祝福の言葉が雨のように降り注いだに違いありません。

 バッハがその音楽の中に密かに刻み込んでいった最重要象徴とは「十字架音型」です。そのために『マタイ受難曲』に表れる「十字架」(クロイツ)という言葉とその周辺に、幾重にもシャープを記入します。バッハはクロイツと同型であるシャープを十字架の暗示に多用しました。さらにそのシャープの記号を線で結び合わせることによって、譜面上に図形的な意味で、十字架の形が幾つも出現していくように作曲されていると言われます。また磯山先生が引用するスメントという音楽学者によると「受難曲」のような長大な音楽をバッハが作曲した時、一点を中心とした対象構造で描いたはずだと言われます。それは音楽全体を、キアスムス(交叉配列法)と呼ばれる構造とするためであったと書いてあります。「キアスムス」、それは「キリスト」の頭文字のギリシア文字のΧ(キー)にその名が由来するそうです。クリスマスを時々Xmasと書くのは、その頭文字は英語のエックスではなく、ギリシア文字のキーです。言うまでもなく「Χ」は十字架の形の一つであり、まさにヤコブの交差される祝福の両手、それは明らかに「X」の形を表したに違いありません。それを聞いて思い出さざるを得ないのは、西片町教会会堂の壁に、ベンチに、恵みの座に、梁に、ここに座す私たちを覆うように刻まれている、茨の棘が付く「アンデレ十字架」です。

 『マタイ受難曲』の心臓部でバッハが用いた受難のコラール(46曲)は、この後選ばれています「讃美歌21」313「愛するイェス」ですが、やはり「ヨハネ受難曲」の心臓部と共通に、そこは「交換の秘儀を歌うコラール」が選ばれるのです。つまりマタイであれ、ヨハネであれ、その受難の核心部、音楽の心臓とは、贖罪による交差である、それをバッハは、驚くべきことに、そのコラールの選択を以て暗に強調しているということが判明するのです。それが、「讃美歌21」313-4節の歌詞です。元の歌詞はこうです。「何と驚くべき刑罰だろう!良い羊飼いが、羊に代わって苦しみを受けるとは。正しい御方の主が、僕に代わって負債をつぐなうとは」と。このキリスト・イエスの死の瞬間、死すべきバラバ・イエス(つまり私たち)が復活する。ヤコブはそれを誰よりも早く知り、先取りして両手を交差させた。神の長子が死に、弟である私たちが生きる、しかもその苦しみを受けて命を捨てて下さったお方こそ、同時に共に旅して下さった良い羊飼いであられた。それもヤコブは知っていたことになる。創世記48:15b「わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。」神の道と人の道が、交差し交換される。天におられる神の子が陰府に降られ、陰府にいる私たちが天に昇る、凄まじき交換が起こる。その瞬間、巨大な宇宙的規模の「アンデレ十字架」(X)、その神の御手の交差が出現するのです。そうやって、この贖罪を心臓、最高の祝福と覚えて、十字架を高く掲げ、会堂中に飾らなければ気が済まない、新しいイスラエル・西片町教会が誕生しました。この神の右手の祝福を受けた私たちの幸いを思わずにおれません。

祈りましょう。 羊飼いなる主よ、交差するあなたの御手、その贖罪の秘儀を表す、アンデレ十字に覆い包まれるようにしながら献げられた、今朝の礼拝の祝福を心から感謝します。どんなに目が霞んでしまっても、この驚くべき祝福「十字架」を霊の眼差しを開いて凝視する私たちとして下さい。全てが失われる中にあって、なお決して失われることなき祝福を、終わりの日まで家族に、隣人に手渡していく私たちとならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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