2022年2月20日 主日朝礼拝説教「旅路の果てに」

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創世記47:1~12 ルカ福音書6:20~21

 「それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。」(創世記47:7)

 「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20)

説教者 山本裕司牧師

 先ほど朗読した創世記47:9において、ヤコブは自らの人生を「旅路」と言い表しました。ものの譬えではありません。彼の人生は文字通りの旅そのものだったからです。その旅はヤコブの祖父アブラハムから既に始まっていました。アブラハムの故郷はメソポタミアのウルでした(11:31)。ウルとは人類最初の高度な文明が誕生した都です。それを「模範」として現代の文明が成り立っていると言っても過言ではありません。そこが故郷であるにも関わらず、何故アブラハムは旅立ったのでしょうか。その理由は都ウルの中心に、創世記10章にも登場する神話的王ニムロドが、バベルの塔の如き偶像の神殿を建てたことに因(よ)ると想像されるのです。アブラハムはその「統合の塔」に対する疑惑を抑えることが出来ずに、真の神の促しを受けて自らを散らさせていく。そこにウルとは全く異質な生き方、別の人類の「模範」が表れたのではないでしょうか。

 その孫ヤコブについてトーマス・マンはこう語っています。「ヤコブは安定した定住生活に対する抜きがたい嫌悪感を露わにしていた。それは常に同一の場所に定住しない、その場限りの宿無しめいたヤコブの生活態度に表れていた。彼は天幕の仮の宿にとどまり、次の土地が指示されるのを待っている。そして指示されると、直ぐに心臓が動悸するようになる。一つは快感から、一つは恐怖と不安から、心臓がドキドキ音を立て始める。とにかくすぐさま旅を続けなければならない。つぶさに経験しなければならない無限の曲折をそなえた新しい冒険へ、誰かに促されるまま旅を始めなければならない。」

 このアブラハムの遺伝子を持つ心臓、その音を立てる動悸を感じる者は、旅を始めざるを得ない。何故ならこの、旅人、羊飼い、巡礼者、漂泊者、脱走者、逃亡者、難民、それら以外には、唯一の神、砂漠の主ヤハウエは、何故か出会って下さらなかったからであります。

 今、私たちが読んでいるのは、ヤコブを初めとするイスラエル七十人が飢饉を逃れてエジプトのゴシェンの地に移住した物語です。彼らは、創世記47:6「エジプトの国のことはお前に任せてあるのだから」とファラオからの信任厚き兄弟ヨセフによって、破格の厚遇を受けました。しかしイスラエルは、それでもこの帝国エジプトに同化してはならないのです。ヨセフは、兄弟たちがファラオに謁見する時、くれぐれも自分たちが「先祖代々、羊飼い」であることを強調するように教えました(46:33、47:3)。それは表面的には、最良のゴシェンの王室牧草地、その家畜監督者という特権的職に兄弟がつけるようにするための配慮でした。しかしここで同時に創世記が暗示しているのは、イスラエルは決してエジプトの都市文明に定住同化はしないとうことではないでしょうか。彼らはエジプトにあってもなお羊飼いであり続けなければならないのです。46:34b「羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。」この指摘もまた帝国エジプと旅人イスラエルの価値観の著しい相違が暗示されています。

 それは、今朝は読みませんでしたが、47:27以下の「ヤコブの遺言」にも表れています。47:29b~30a「どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。/わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい」と。あり説教者(ヴァルター・リュティ)はその講解の中で、このヤコブの遺言もまたイスラエルの「巡礼性への固執」と書きました。確かに、47:27「イスラエルは、エジプトの国、ゴシェンの地域に住み、そこに土地を得て、子を産み、大いに数を増した。」そうあるように、イスラエルはヨセフの保護のもと、エジプトで富み栄えます。そうであれば、世界中に根をおろした中国人「華僑」のように、定住富裕の自分たちの共同体を大国の中に作るべきではないでしょうか。しかしヤコブは自らのなきがらをカナンに携えるとによって、イスラエルとは、神の約束の地を目指す旅人であり続けなければならないという、警告を与えようとしているのです。そのカナンのマクペラの洞穴にアブラハム、イサクが葬られているのです。ヤコブは「生においても死においても」その先祖に倣って神の旅人であろうとするのです。ヘブライ人への手紙11:13が言うように、「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者である」者として、ただ約束の地、11:16「天の故郷を熱望」する、そのあり方に固執するのです。何故か。この旅人の人生にこそ、唯一の神の祝福を担う者の資格が生じるからではないでしょうか。

 今「祝福」と言いました。ベエル・シェバで暮らしていた若き日のヤコブは、この「祝福」とは、地上の豊かさ、それによってもたらされる幸福であると理解していました。しかし彼はその祝福を兄から欺し取ったため、逆に無一文の逃亡者、脱走者になる。そこに既に、彼を「祝福の源」として選ばれた神の奇しきご計画があったと言わねばなりません。その地上の放浪者にこそ、砂漠の神は自らの真の姿を現して下さるのです。そうやって、人は持ち物の多さによってではなく、ただ神の一方的な恩寵によって生きる、神はそれを彼の魂にたたき込もうとされているのです。やがてウルの価値観を受け継ぐメソポタミア、そのパダン・アラムの伯父ラバンの家に落ち延びた時、ヤコブは羊飼いとして酷使されます。彼は何年も羊の番をしながら、昼はメソポタミアの大草原に座り雲の流れを眺め、夜は満天の星を仰いで、荒れ野の主についての瞑想にふけりました。羊飼いであるからこそ、彼の信仰と祝福理解は飛躍的に成長していったのです。そうであれば、私たちの人生に時々襲いかかってくる否定的出来事を通しても、神様はご自身の計画を着々と進めておられるのではないでしょうか。やがてヤコブはパダン・アラムからの脱走者に再びなる中で、最愛の妻ラケルを失う。やがてそのラケルの忘れ形見ヨセフも失った。これは明らかにヤコブの偏愛の罪がもたらした悲劇でした。彼はまさに「死の陰の谷を行く」(詩編23:4)旅人です。しかし主は、詩編詩人が歌ったように、その死の陰の谷を行く旅人の「羊飼い」(23:1)となって下さるのです。一方、この偏愛の人ヤコブだからこそ、世界を覆う多神教の渦の中で、唯一の主のみを「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」(申命記6:5)愛する者になれたのです。同時にその信仰を後世に伝える、人類史上この上無き偉大な貢献をなす存在になれたのです。

 その旅人ヤコブと都市文明の頂点に君臨するファラオ、まさに人間の生き方において対極の存在、地上のこの上なき安住者と、ヘブライ11:13「地上ではよそ者、仮住まいの者」、この対極の二人が謁見室で対峙してしまったというのが、今朝の物語なのです。

 若きファラオのヤコブへの儀礼的挨拶、創世記47:8「あなたは何歳におなりですか」と問いに対して彼は答える。47:9「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く…」と。ヤコブは「苦しみ多い」旅路の果てに老い、飢饉によって痩せ衰え、ヤボクの組み討ちで痛めた足を引きずりながら入場してきた、難民のような男でした。しかし、マンは描きます。「ヤコブの入場は堂々としていた。彼はニムロド王の壮大さに圧倒的な威厳で立ち向かった」と。何故かくもヤコブには威厳があるのでしょうか。それは彼が若きファラオに勝る長寿という値打ちを持つからでしょうか。百三十年と聞いて尊敬の眼差しを向けるファラオに対して、ヤコブの方は長寿を誇りません。むしろ「短い」と言いました。それはおそらく量でなく質の意味のことでしょう。それは「空しい」と言い換えることが出来るのです。罪人の人生はいくら長くても、いえ、むしろ長ければ長いほど、空しいのではないでしょうか。百年以上に及ぶそれぞれの時代の仮住まいの地、ベエル・シェバ、パダン・アラム、シケム、ヘブロンで繰り返されたヤコブと家族の分断と憎しみの悲劇を、私たちは毎主日ここで読み続けてきたのです。しかしそれでも何故か彼の威厳は神話的ニムロド王に匹敵するファラオを圧倒したのです。何故なら彼はファラオの持っていない、ただ一つのものを祖父と父から受け継いだ、唯一の人間だからです。それこそが、神がアブラハムに与えられた祝福なのです。

 この祝福とは何か。それは青年ヤコブが誤解していていた、この世の幸福ではありません。この祝福の意味を完全に把握したのは、全人類の中でただお一人、イエス・キリストのみです。主は説教された。ルカ6:20b~25「貧しい人々は、幸いである、…今飢えている人々は、幸いである、…今泣いている人々は、幸いである、…しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、…今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、…今笑っている人々は、不幸である」と。この「幸い」こそ祝福のこと、この「不幸」が呪いのことです。何故こんなことが言えるのでしょうか。逆ではないかと誰しも思う。しかし荒れ野を旅したヤコブは、おそらくこの主イエスに肉薄する祝福理解を体得していたのではないでしょうか。彼は貧しさという闇の中にこそ光は現れるという逆説を経験してきました。肉体が飢える時、その中でこそ、魂の充満が起こる。涙を流すその傍らに笑いがもう控えている。何故かというと、そこで私たち人間は初めて唯一の神、荒れ野の主と出会えるからであります。神こそが究極の光です。どのような荒れ野の夜の底にも、神は梯子を伝わり降りて来て下さり、私はあなたを見捨てないと約束して下さる(創世記28:15)。この神を見る、そこに私たち人間の究極的祝福がある。これを持たずしてどれほど富み栄えようと、それは不幸である、何故なら、人は罪人であるために、自分で知る知らないを超えて、実は皆、死の陰の谷を行く孤独者だからです。その旅路にただ羊飼いなる主イエスだけが同伴して下さるのです。それ以外に私たちに真の安心、平安はないのではないでしょうか。そうとはまともな人は思えないと思う。やはり富と力こそ幸福の源である、それが常識です。教会に来ている私たちだってそう思っている。しかしこの創世記と主イエスが言われている「祝福」の意味こそ本当だということは、おそらく私たちが「死の陰の谷を行く」、その死への旅路を辿る時、初めて分かるのではないでしょうか。

 だから注解書は書きます。今夕の創世記47:7以下に記される、ファラオとヤコブの対話の中に、ヤコブが豊かな土地への移住を許可された、その感謝を述べる情景は一つもないと。またヤコブには食糧が豊かに保障されて飢餓から解放された、その喜びも少しも感じられないと。ヤコブの感謝は、人生の同伴者なる神にただ集中しているのです。そこにのみ祝福があるからです。
 そしてこれは自分だけが幸いになる道ではありませんでした。主は、あのベテルの荒れ野でこうヤコブに約束された。28:14「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」と。これは祖父アブラハムに神が与えられた「祝福の源」となる使命がヤコブに受け継がれることを明らかにしている約束です。だからヤコブはファラオに謁見した時、先ず、47:7b「祝福の言葉を述べた」のです。そして退出の時、47:10「ヤコブは、別れの挨拶をして」とありますが、これも「祝福の言葉を述べた」という同じ言葉が言われているのです。二度ヤコブはファラオを祝福したのです。繰り返せば、世界の富を掻き集めた王宮謁見室の上座に鎮座するファラオと、その遙か下段のフロアーに一人の痩せ衰えた遊牧民の老人が相対している。しかし使徒パウロが言ったように、ヤコブは、その弱さの中にこそ強さがある(コリント二12:10)。その貧しさの中に宝が隠されている。世界中の者から捨てられても、私は共にいて見捨てないと言って下さる、インマヌエルの主を知る、それ以上の祝福は私たちにはない。私たち常識人が、それをどんなに否定しても、私たちもまたその最期、死の陰の谷を行く時に、それを認めざるを得ない。そうであれば、最期ではなく、今、この「生」のただ中で、いち早くそれを認めて、主のみを偏愛する、そのヤコブの世界に与するべきではないか。ヤコブは、ただ救いは主にしかない、それを骨身に徹して知っている。無に等しい自分を、それでも生かす神の祝福、その偉大な祝福を分け与えることを以て、彼はファラオを祝福するのです。たとえ相手がファラオであっても、です。いえむしろ、儚い地上の宝に安住するファラオにこそ、決して失われない宝を与えようとするのです。

 その祝福の掛け替えのなさは、後の時代の出エジプト記にも表れています。ヤコブから四百年後、イスラエルは再び、荒れ野への集団脱走者となろうとしていました。そこで荒れ野の主ともう一度出会うためであったに違いない。その指導者モーセの自由解放の求めに対して、時のヨセフを知らない王ファラオは拒絶し続けた。そのために神の裁きによって打ち叩かれた時、ファラオは言いました。出エジプト12:32「羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい。」ファラオもこのイスラエルの祝福を必要としている。帝国エジプトが必要としている。全世界が必要としている、全人類が必要としている、その祝福の源こそ主イエス・キリストです。どのような闇の旅路をも光で照らして下さる主、私たちがどん底に落ちたとしても、その底の底まで、天からの梯子を架けて下さり、そこをつたわり降りて来て下さるインマヌエルの主、その御子が与えられた私たちの限りなき祝福を思う。

祈りましょう。 主なる神様、真の祝福を知らずに、この世の光を追い求め、あなたのことを忘れ、返って井戸の底に落ちる私たちを憐れみのうちに覚えて下さい。しかしそこに御子が救いの御手を伸ばして下さる、その御手を私たちが握り返すことが出来ますように。そこで知った祝福の喜びを私たちも隣人に宣べ伝えつつ、祝福の源としての旅を続ける西片町教会とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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