2022年2月13日 主日朝礼拝説教「父子の再会」

https://www.youtube.com/watch?v=2V9dCibA_CI=1s

創世記46:1~34

神は言われた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。/わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」/ヤコブはベエル・シェバを出発した。(創世記46:3~5a)

説教者 山本裕司 牧師

 先週読みました創世記45:28で、父イスラエルは喜びの叫びを上げました。「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」またイスラエルはヨセフからエジプトへの移住を勧められていました。45:10~11a「ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。/そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。」ヨセフが用意したゴシェンは、ファラオの家畜の牧草地(47:6)であり、羊飼いにとって最良の地域でした。ヨセフを頼って移住すれば飢饉から逃れることが出来るのです。そこで一族七十人はヘブロンから旅立ちました。

 一族の誰にとっても希望に満ちた旅であるはずなのに、その途上で老ヤコブだけは深い恐れに捕らえられたようです。ヤコブにとってエジプトは長く嫌悪の国であったからです。遡ればノアの三人の息子の内、神から祝福されたセムからイスラエルは生まれ、呪われたハムの子孫がエジプト人であったのです。祖父アブラハムもやはり飢饉の折りにエジプトに逃れました。その時妻がファラオに奪われそうになったのです(12:15)。それに続いて、やはり飢餓の恐れからでしょう、アブラハムと甥ロトは別れることになりましたが、その時ロトが選んだのが、13:10「主の園のように、エジプトの国のように」潤った町ソドムでした。しかしその豊かさこそロトにとって命取りとなったのです。彼は直ぐ資源収奪戦争に巻き込まれるという災いに遭う。またソドムの悪徳の故に、町は神の怒りの炎によって滅ぼされ、ロトは何もかも失いました。それに対してアブラハムは約束の地カナンに留まり、生き延びるのです(13:12)。ヤコブはそれら昔の伝承を父イサクから聞かされて育ちました。国も王を持たず、広大な大地を自由に移動し、ただ主なる神ヤハウエにのみ支配される旅人イスラエルにとって、中央集権国家エジプトは対極の世界でした。その地に林立する目を見張るようなピラミッドや大神殿は、祖父アブラハムの故郷メソポタミアの文明都市ウルに建つ「バベルの塔」ジッグラトを思い出させて余りあるものでした。太祖アブラハムはその高慢の都から旅立つことを神より求められたのです。その都市文明こそ、砂漠の神ヤハウエに帰依する、信仰の旅人、天幕生活者が最も忌避すべき土地でした。しかもアブラハムが昔、大いなる暗黒の中で聞いたのは、15:13「あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。」そういう預言でした。ヤコブはこの異邦の国こそ、エジプトではないかと想定していました。もしそうなら、そのエジプト高官はイスラエルをエジプトの奴隷とするための策士なのではないか。ロトを破滅に導いた沃地ソドムも「エジプト」とか「主の園」と譬えられたのです。悪魔は最愛の人の姿をとって、あるいは利用して現れる。最初の人アダムに禁断の果実を差し出した者こそ、アダムが「ついにこれこそ私の骨の骨、私の肉の肉」そう歓喜して迎えたエバであったことからもそれは分かるのです。

 ヘブロンを出発したヤコブはそうやって不安の虜になりました。途上のベエル・シェバはヤコブが若かった時父イサクを初めとする家族と暮らした居留地でした。46:1「イスラエルは…ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえをささげた。」そうあります。彼はエジプト移住が本当に御心であるのかを問わずにおれませんでした。ヤコブにとって最も真剣な礼拝は、生きるか死ぬかの危機の旅、その途上で献げられました。そこで彼は礼拝をせずにはおれなかったのです。そうであれば、こうして私たちの人生の旅の途上で献げられるこの礼拝が、私たちにとってもどんなに大切なものかが分かるのではないでしょうか。あのヤコブの旅の原点、創世記28章に記される、まさに今彼が逗留しているベエル・シェバからの逃避行、そのどん底の夜、ベテルの荒れ野で、彼は階段を伝わってどん底にまで来て下さった神と出会います。またこの神はメソポタミアのラバンの家で奴隷状態の境遇で苦しんでいた時、31:13「わたしはベテルの神である」とヤコブを呼び、あなたの故郷カナンに帰りなさないと旅立ちを促す。そうやって、32:25、カナンとの境界線に近づいた時、祝福を奪ったヤコブへの復讐を誓った兄エサウの一団が待っている、その「ヤボクの渡し」での格闘もまた礼拝そのものなのです。またラケルの死の直前の35:7、ベテルでの再度の礼拝も、旅の中で行われました。それら全ては旅の深い夜の不安の中にあるヤコブに、旅立ちの勇気を与える礼拝だったのです。

 そのベエル・シェバの夜、神様は幻の中で現れ、46:2「ヤコブ、ヤコブ」とお呼び下さいました。二度名を呼んで下さるところに既にヤコブへの愛が表れているのです。

 46:3~4「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。/わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」同様の飢饉の時、父イサクには、26:2「エジプトへ下って行ってはならない。」そう、その危険性の故に命じた神様が、今回はイスラエルと共に、エジプトへ行って下さると言われるのです。確かに危険はある。しかし私が共に行く、だから安心して移住しなさいと。そこでヨセフが最後まであなたに寄り添う、そのヨセフが両手を広げてあなたを待っているのだ。そしてこの飢餓から人々を救った宰相、養う人ヨセフの記憶がある限り、あなたの一族イスラエルはエジプトで大いなる国民として栄える。だから恐れるな、安心せよと、神様は言って下さいました。

 しかしやがて「ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配」(出エジプト1:8)した時、アブラハムが聞いた預言が実現する。イスラエルは異邦の国で奴隷となる。四百年間!しかしその時は、46:4「わたしがあなたを必ず連れ戻す。」イスラエルをカナンに連れ戻す、そう神は力強く約束して下さったのです。ヤコブはどんなに勇気付けられたことでしょうか。繰り返します。礼拝とはこのように、私たちに新しい未知の世界に旅立つ勇気を与える力なのです。46:5a「ヤコブはベエル・シェバを出発した。」やがて七十人はエジプトの東の境界に広がる豊かな牧草地ゴシェンに着きました。そこでヤコブは、46:28、ユダを遣わしてヨセフに到着を知らせ、ゴシェンに来るよう伝えさせたのです。

 ここで再びトーマス・マンの物語ですが、ヤコブが待っていたゴシェンの草原はとても気持ちの良い所でした。棕櫚の木が陰を投げかけ、池から涼しい風が吹き、パピルスが生い茂り、睡蓮が青色やバラ色の花を咲かせていた。ヤコブはその「エデンの園」を彷彿とさせる場所に座り十人の息子たちに囲まれていた。やがてユダが戻ってきて十一人になった。聖なる数十二人がヤコブの目の前に揃うのはもう寸前でした。ヤコブはユダの姿越しに遙か後方を見詰めます。小さな人馬の影がもう見えてきたからです。近づいてくるのは何台もの王宮用馬車でした。一団が近づき、その馬車に乗っている人やその前後左右を走る召し使いたちの姿も見分けられるようになった。ヤコブは、その中の一際贅沢を極めた「裾の長い晴れ着」をまとうエジプト人を指してユダに問いました。「あの中背の男は何者だ。大変高貴はお方に見える。虹のような首飾りをし、今馬車の金色の籠から降り立ったあの男だよ。」「あれこそあなたの息子ヨセフです、父よ」そうユダは答えた。「そうだとしたら、わしも立ち上がって迎えることにしよう。」ヨセフの方でも父を見つけると、出来るだけ老父に草原を歩かせまいとして足を速めた。至近距離になると彼は微笑みを湛え、両腕を広げて迎えようとした。ところがその時、ヤコブは何か手探りをするように、両腕を伸ばしはしましたが、同時に相手の近づくのを阻もうとするかのような感じで動かした。実際二人が向かい合って立った時、ヨセフは父の首に取りすがり、その肩の上に顔を埋めようとしました。ところがヤコブの方はそれを許さず、ヨセフの両肩の上に両手を突っ張り、相手を寄せ付けないようにしたのです。そして頭を斜めに倒し苦悩と矛盾をたたえた疲れた目でエジプト人の姿を見ました。

 それは美食によってよく肥えた、はち切れんばかりの肉体に、贅を極めたエジプトの装飾で身を飾るこの上なく威厳に満ちた高官でした。一方の老ヤコブと言えば、元々、神への献身のために禁欲的に生き、その上、二年間の飢餓に耐えてきた肉体は惨めなほど痩せ衰えていたのです。ヤコブは遊牧のヘブライ人の伝統である、これもまた簡素な式服を一枚まとうだけでしたが、それと全く異質は異国の極彩色の礼服に包まれるこの権力者を、あの17歳であった贅肉一つない紅顔の美少年ヨセフと、どうしても信じることが出来なかった。再びイスラエルには、あのベエル・シェバでの礼拝前の恐れが、病気のようにぶり返し、その老いた心を支配した。46:34bには、都市文明を最高価値と覚えるエジプト人は、ヘブライ人のような羊飼いを厭う、つまり差別していたのも事実でした。そうであれば、やはりあの、15:13「あなたの子孫は異邦の国で…四百年の間奴隷として…苦しめられるであろう。」その祖父の預言がヤコブの頭の中で鳴り響き始めた。この男は、二度の食料買い出しの時、息子たちをこの上なく厚遇しながら、突然手のひらを返したように、犯罪者扱いをして冷遇した、あの巧妙な罠を仕掛けているのではいか。一度あることは二度ある二度あることは三度ある。そしてイスラエルはやがてあのメソポタミのウル、その「高い塔」で崇拝される「月神」、それに匹敵するエジプトの「太陽神ラー」、その偶像礼拝を強要されるのではないだろうか。荒れ野の主への信仰を、この地球上に保持するために唯一選ばれたイスラエルにとって、それを喪失することは、どのように莫大な穀物とも果実とも釣り合うことはないのです。これこそエデンの園での蛇の誘惑の反復ではないか。その妄想が春の光で満ちた草原の真ん中で黒雲のようにヤコブを覆い包んでいきました。我々は今堕落させられる、そう気付いて、この男の伸ばされたふくよかな両腕を、骨と皮ばかりの老いた手で振り払おうとした、その瞬間をマンはこう描く。

 これまで顔を背けていたヤコブが、はずみでふと目を上げると、そのエジプト人はヤコブの顔を見詰めながら、うるうるとその両目に涙がいっぱい浮かび上がってきたのが見えた。その黒い瞳に涙が豊かに湛えられた時「ああ、どうだろう!」それはヤコブが遠い夢のような過去に見た、あの近眼でいつも潤んでいたラケルの夜のように黒い瞳、ヤコブがその生涯の中で、唯一の神と並ぶほど愛した、吸い込まれるような黒目がちの眼差しそのものであった。ヤコブはもはや疑いようもなく、彼の両腕を受け入れ、遠い異郷の人となったラケルの長子の肩の上に、顔を埋めて激しく泣いた。ヨセフも老いた父の首にすがったまま泣き続けた。

 46:30「イスラエルはヨセフに言った。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」

 私たちもまた地上の寄留者、旅人です。私たちの最後に待っているのは、死に向かう旅です。実はこの創世記は45:28「死ぬ前」という言葉が置かれ、また46:4b「ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるだろう」とあり、その終わり近く、46:30「もう死んでもよい」と「死」のモチーフで、この旅の物語が文学的構造として囲われていることに気付きます。私たちにとっても、未知の死への旅はヤコブのエジプトへの旅に匹敵する大きな恐れと不安を呼び起こすことでしょう。しかし私たちもまた、その旅の最中にヤコブを励まし続けた神の言葉によって、行き先が定かに見えなくても、平安の内に旅を終わりまで進むことが出来るのです。そしてああ、もう死ぬのだと、自分もついに死に神の手に落ちると、その悪魔の手を振り払おうとする時、あに図らんや、それは神の子イエス・キリストの御手であった。私たちの名を二度呼びながら、私たちを見詰めるその眼差しは、憐れみが水のようにうるうると満ちている、その御顔を私たちもまたヤコブのように見ることが出来るのです。それが故に私たちも恐れを振り払って旅を続けることが出来る。

 あのベテルのヤコブへの約束、28:15「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」このようなインマヌエルの主に出会えた私たちの祝福を思う。

祈りましょう。主よ、私たちも旅を続ける勇気を失うこと度々ですが、それは死への旅路において最も際立ちますが、しかしその時、あなたは天から梯子を伸ばし復活の御子を遣わして下さる。そして御子はその黒い瞳で、私たちを見詰めて下さり、御手を伸ばし、私たちの痩せ衰えた体を抱きしめて下さる。それを信じて「そなえたもう主の道を、ふみて行かん、ひとすじに」(『讃美歌21』463)と褒め歌を歌う私たち西片町教会でありますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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