2022年1月9日 主日朝礼拝説教「魂の飢えを充たせ」

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創世記42:1~28

「ほかの兄弟たちに言った。『戻されているぞ、わたしの銀が。ほら、わたしの袋の中に。』みんなの者は驚き、互いに震えながら言った。『これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは。』」(創世記42:28)

説教者 山本裕司 牧師

 カナンの父ヤコブと息子たち、この家族の魂は、あの事件以来、いつも飢え渇いていました。そこに肉体の飢えまで重なる、そこから創世記42章の物語は始まります。去年も今年も何も実りません。いくら畑を耕しても報われることなかったのです。それは兄たちが23年前のドタンでした命懸けの骨折りが、空しかったことに似ているのです。弟を殺そうとした、それほどのことをしたのに、兄たちは父の愛の果実を見ることはついに出来ませんでした。その上、兄たちの原罪となってしまった、その重荷を負ったまま、後半生を、父と神の顔を避けて生きる他はなくなったのです。その家はこの地方全域が享受した、7年間の類い希な豊作の間、表面的にどんなに飲食の快楽の中で笑っても、目は笑っていない、心は飢えたままだったのではないでしょうか。そしてついに充たされることなき愛の飢えが、そのまま現実となったような大飢饉がカナンを襲ったのです。

 ヤコブは息子たちに言いました。42:2a「聞くところでは、エジプトには穀物があるというではないか。エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。」それなのに十人の息子たちは42:1「顔を見合わせてばかりいた」のです。彼らも飢餓は恐ろしかった。しかし帝国エジプトへの旅も恐ろしかったのです。父も実はその旅が危険なことはよく承知しています。42:4a「ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄たちに同行させなかった。」そうある通りです。

 ベニヤミンはヤコブの最愛の妻ラケルが生命と引き換えに産み落とした子です。父ヤコブはヨセフを失った今、ラケルの唯一の忘れ形見ベニヤミンをヨセフの分まで愛したのです。しかもヤコブには旅に対する激しいトラウマがありました。ラケルは旅の最中に死に、その子ヨセフは兄たちを訪ねる旅の後、帰って来たのは引き裂かれた血染めの晴れ着だけでした。爾来、ヤコブはベニヤミンをヘブロンから一歩も出ることを許さなかったのです。42:4b「何か不幸なことが彼(ベニヤミン)の身に起こるといけないと思ったからであった。」それほど旅の危険に敏感は父が、他の息子たちには、さっさと見知らぬエジプトへ行けと命じるのです。再び依怙贔屓による心の大飢饉をヤコブの家は迎えようとしているのでしょうか。そうではありませんでした。この肉体の糧を求める旅は、いつの間にか神の導きによって「命のパン」を求める旅に変わっていく、そう救いの物語りとしてここから描かれるのです。
 
 ヨセフは今や42:6「エジプトの司政者として、国民に穀物を販売する監督」者となっています。41:57a「世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。」トーマス・マンによれば、ヨセフはこの頃、政務のための超多忙な日々の中で、国境地帯から送られてくる報告書を丹念に読むことを怠ることはありませんでした。入国を希望する異国人たちの国籍、職業、姓名は勿論、その父親や祖父の名前まで記載させ、それを異例にも毎日、高官ヨセフに届けるように彼は命じていたのです。不作が始まって2年後、ヨセフは興奮状態で執事のもとに駆け付けました。「さっき渡された書類を読んで知ったのだが、いよいよ皆がやってきたのだ」と。「みんながやってくる。長い間待った。もう入国した。兄たちだよ。十人で来るのだ。ベニヤミンはその中にいない。ということはもしかしたら未だ父は存命で、ラケルの子ベニヤミンを旅立たせることを許さなかったのだろうか。いやそれとも父は死に、父という石蓋が転がり落ちた井戸の中に、もう一人のラケルの子も突き落とされたのだろうか。」そう想像した時ヨセフは絶句しました。もしそうなら、イスラエルは信仰的にも事実上も神の民イスラエル十二部族を形成することは不可能となり、全世界の祝福の源どころか呪われ、霊肉ともに餓死することは必至となるのです。

 普通なら辺境カナンなどから来る遊牧民や難民は、下級国境警備員が担当し、穀物取り引きはしてもエジプト国内には入れません。しかしヨセフの命令によって兄たちは、都メンフィスの宮廷に護送されました。そして高座のエジプト王ファラオの代理者つまりヨセフの前に引き出されたのです。その時42:6b「兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝し」ました。この「ひれ伏す」とある動詞こそ、17歳のヨセフの夢、その描写に使われていた言葉なのです。37:7b「すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」怖いくらい夢の通りになったのです。

 ヨセフもまたその夢を思い起こしながら厳しく尋問します。42:9「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない。」そう身に覚えのない嫌疑をかけられた兄たちは必死に弁解する。42:10~11、食糧を買いに来ただけです。私たちは皆同じ父親の息子です、正直な人間ですと。ところが高官は聞いてくれない。そこで十人は一層詳しく、42:13、自分たちがカナン地方の一族であって、元々は十二人の兄弟で、末の弟は今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました」と続けました。まさにこの「失われた一人」が自分自身であることを、兄たちに悟られないように、わざわざ通訳を介していたヨセフです。しかし今、兄たちの話から父は存命しており、ベニヤミンもその父のもとで健在であると聞いて、最悪の想像が払拭されたのです。マンによれば、それを知ったヨセフは思わず通訳を待たず歓喜の余り謁見室に響き渡るほどの大爆笑をしてしまう。訝る兄たちや側近たちにそれを何とか誤魔化すのに苦労することになったと描かれていました。

 ではここでそんなヨセフは何故こんな意地悪い尋問を兄たちにするのでしょうか。やはり復讐なのでしょうか。実はそうではなくヨセフを通して、神様が兄たちからある言葉を告白させようとしているのです。ヨセフ自身もどうしてもそれを聞きたいのです。それを引き出すための問いなのです、その兄たちの応えを得ない限りイスラエルの家の飢えは決して充たされることはないからです。

 左近淑先生は言います。彼らは実は今、自分たちが何者であるかを問われているのだと。それは人ごとではありません。この尋問は、私たちの洗礼式の時の問答に重なるのではないでしょうか。日本基督教会の前身、日本基督一致教会が1887(M20)年編集した「基督教礼拝式」を見ると、洗礼式誓約の第三の問いはこうです。

 「爾(なんじ)は生まれながら罰を受くべく邪心を懐き自ら救うを能わざる者なりと信ずるや。」これに明治期、志願者は「然り」と返答することが求められました。つまりあなたは何者であるかと、問われているのです。その時正直に、私は「生まれながらに罰を受ける他はない邪心を懐き、自らを救う力がない者です」と白状しなければならないのです。そうしなければ洗礼を受けて、命のパンに与ることが出来ないのです。同様にこの創世記の苦い尋問も、決して復讐ではなく、罪人の心が飢餓から救われるためなのです。

 ヨセフは問います。お前たちは、自分たちが言うように、42:19「本当に正直な人間」なのかと。このヨセフの問いは、自分が何者か、その問いに対して、正直になって欲しいという願いでもあります。そのために、ヨセフは、42:17「彼らを三日間、牢獄に監禁」することにしました。

 その牢獄で兄たちはこのファラオの高官、親切さと危険な匂いが混在している不可思議な高官のことで悩みます。スパイの嫌疑が晴れなければ死刑か奴隷として売られるに違いない。その不安の中で井戸の底のような闇の中にいる内に、彼らはあのドタンの古井戸のことを思い出さずにいられなくなるのです。あの恐ろしくて、しかしどうしか憎めない権力者に接した後で、何故かヨセフの面影が心に迫ってくる、兄たちはそういう経験をするのです。これまでは、兄たちはこの自分たちの原罪、ドタンの秘密を隠し通し、墓場まで持って行くと誓い合ってきたに違いありません。しかしここで彼らは自分たちの真実の姿に向き合うのです。三日目に牢獄から出された時、ヨセフは言いました。42:19「お前たちが本当に正直な人間だというのなら、兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り」なさいと。兄弟たちの一人を古井戸のような牢獄にさらに入れ、他の兄弟たちは父のいるヘブロンに帰ることを許す。それはあのドタンで兄たちが行ったことの再現です。そのために選ばれるのは、42:24「シメオン」です。ヨセフと、その背後におられる神は、そうやって兄たちは23年前と変わったのか、この一人の兄弟を救うために井戸の穴に戻ってくるのか、それを知ろうとしているのです。このイスラエルが再生するためには、もう一度言います。自分たちが何者であるかとの問いに、「我は罪人なり」と応答して悔い改めなければなりません。それは教会が、その洗礼式の誓約で重んじる「罪の告白」と一つのことです。

 ヨセフは、42:16でこうも言っています。「お前たちが言うことが、本当かどうか試す」と。この「試す」とは、「精錬する」という意味だそうです。鉱石を溶かし、金属を精製する工程を言う言葉だそうです。

 このエジプト高官の不思議な態度、厳しさと優しさ、好意と悪意が混じり合っているような高官、厳しく人を試し、人生に苦しい課題を与えながら、一方、お前たちは、42:19b「飢えている家族のために穀物を持って帰れ」と優しく勧める。それだけでなく、その穀物代金である銀をいつの間にか、42:25ですが、袋の中に返している高官。帰路の「道中の食糧」まで持たせてくれる、その不思議な人格。それは私たちの神様の御性質を暗示しているのではないでしょうか。私たちも神様に対して、この兄たちが高官に覚えるような、不可思議さを感じる時があるのではないでしょうか。神は私たちに大変親切であられる、それを覚えると同時に、私たちの罪をこの上なく厳しく責め立てる、あるいはとんでもない試練を与える、陰府の底にまで落とすようなことだってなさる、それでいて何故か、神は私のことをこの上なく愛している、その憐れみの眼差しを感じられる、親切と危険が混在している、それこそが、私たちの信じる主なる神様ではないでしょうか。兄たちもそれを直感した時、42:28b「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは」と。かくして全てはイスラエルの再生を図る神の「精錬」の御業が進んでいるのです。

 その少し前ですが、兄たちは牢獄から出されて再び高官の前に立った時、牢獄の中で煩悶した中で得た洞察を母語で語り合います。42:21「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」長兄ルベンは言いました。42:22b「だから、あの子の血の報いを受けるのだ。」罪責告白です。弟を苦しめたのだ。それでこの苦しみが我々にふりかかったのだ。これはエジプトでの試練だけのこことではありません。何故23年間、自分たちの魂が飢えていたのか、ヘブロンの天幕で互いに誰も本当には笑えない。その原因を彼らは知ったのです。

 42:23~24a「彼らはヨセフが聞いているのを知らなかった。ヨセフと兄弟たちの間に、通訳がいたからである。/ヨセフは彼らから遠ざかって泣いた。」ついに兄たちが罪を認めている、弟ヨセフがどれ程苦しんだかそれに同情してくれた、その母語の言葉を聞いた時、感動のうちにヨセフはその場を離れて別室で泣きました。

 父ヤコブは最初言いました。42:2「聞くところでは、エジプトには穀物があるというではないか。エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるではないか」。神の人ヤコブは自らも知らない内に、エジプトには自分たちの家を霊的意味で救う命のパンがある、エジプトに行けば、我々はつまりイスラエルは死なずに生き延びることができる、その示しを神から受けていたのです。

 繰り返せば、42:28b「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは。」この言葉は具体的には、帰路の途上穀物代金として支払った銀がみな返されていることを知った時の兄たちの言葉です。彼らはこの旅の全てにおいて、神が我々に何かをなさろうとしている、それをこのように感じているのです。ここでマンはその日の夜、横になった兄たちの姿を印象深く物語っています。それをそのまま朗読します。「彼は頭をふった。眠ってからもひとりが頭をふり動かしたと思うと、つぎにもうひとりが頭をふり、同時に何人もが頭をふった。眠りながらほっと溜め息をついた…。ところがその合間に、まどろむものたちの唇のまわりに微笑が浮かんだ。いや、何人かが眠りながら唇のまわりにいっせいにうれしそうな微笑を浮かべることがあった。」そう描くのです。23年間、笑えなかった兄たちに、不可解なエジプトでの経験の後、何故か微笑が戻ってきた、そう印象深く描くのです。それはやがてこのイスラエルの家にも、あの奇妙な高官が何故か宮廷であげたあの大爆笑が戻ってくる。一度砕け散った「ガラスの城」が今甦ろうとしている。そうやってついに7年の肉体の飢えどころか、23年間もの魂の飢餓が終わろうとしている。神の憐れみの導きによって、この砂漠の夜におけるこの兄たちの微笑はその和解の歓喜を、その大爆笑を先取りしているのです。

 祈りましょう。主なる神様、自らの罪を認めず、そのために魂は飢え渇き、ガラスの城を建てる私たちを憐れみのうちに覚えて下さい。あなたの悔い改めを迫るその厳しさにたじろぐ者です。しかしどうかそれこそが、あなたの私たちの飢えを満たそうとする憐れみと信じることが出来ますように。そして皆が罪を告白し洗礼を受けた者として、この主の食卓で命のパンについに与り、この家にも大爆笑を甦らせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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