2022年1月30日 主日朝礼拝説教「ユダの嘆願」

https://www.youtube.com/watch?v=D0ZjIbkbeec=1s

創世記44:1~34

「神が僕どもの罪を暴かれたのです。」(創世記44:16)

説教者 山本裕司 牧師

 凶作に苦しみ、エジプトの備蓄穀物を求めたヤコブの息子たちを迎えたのは、その兄たちによって22年前、井戸に突き落とされた弟ヨセフでした。何も知らない兄たちにとって、この高官は溢れるような好意と悪意が混在する奇妙な男でした。1回目の食糧買い出しの時には、兄たちはスパイの嫌疑をかけられシメオンを人質とされた。高官は助けたかったら次に来る時、末の弟を連れてこいと命じています(創世記42:20)。その一年後、家族が穀物を食べ尽くした時、兄たちは2回目の買い出しに出る。ようやく父ヤコブの許可を取り付け、末っ子ベニヤミンを伴って旅立ちました。エジプトに到着すると直ぐシメオンは解放され、スパイ容疑どころかこの上なきVIP待遇で持て成され夥しい穀物配給を受ける。そうやって帰路に就くところから今朝の創世記44章が始まるのです。ところが直ぐ話は暗転し高官が再び兄たちに災いをもたらすのです。44:2「わたしの杯、あの銀の杯を、いちばん年下の者の袋の口に…入れておきなさい」と。兄弟が未だ遠くに行かない内に執事は追い付き、高官から命じられた通り非難しました。44:4b~5「あの銀の杯は、わたしの主人が飲むときや占いのときに、お使いになるものではないか。よくもこんな悪いことができたものだ。」そう再び身に覚えのない疑いをかけられた時、兄弟たちは促されるまでもなく、44:11にあるように急いで袋を開きました。執事は兄弟たちの荷を年上順に調べていきます。執事自身が末の弟の袋に杯を隠したのですから全ては演技です。探索の空振りが繰り返され、兄弟たちはそら見たことかと勝ち誇った。彼らは、昔、メソポタミアからカナンに逃亡する時、ラケルが父ラバンの「テラフィム」(守り神)を盗み出したことを思い出したかもしれません。それを取り戻そうとラバンが汗みずくになって空しく天幕を探し回った、その愉快な出来事を思い出して、執事を嘲笑したかもしれません。ついにその最も無垢なベニヤミンの袋を改める頃にはすっかり安心し切っていた。ところがこの末の弟の袋から神聖なる銀の高坏(たかつき)が出てきたのです。

 執事は言っていました。44:10b「だれであっても、杯が見つかれば、その者はわたしの奴隷にならねばならない。ほかの者には罪は無い。」無罪放免にしようと。このヨセフの罠の理由は表面的には、ヨセフが弟ベニヤミンと別れ難かったからに違いありません。しかしこれは同時に、ヨセフの企ての背後にいる神様による兄たちに対する再度の試みでもあったのです。兄たちはこの危機においてどう振る舞うのか、それが今、神によって試されようとしているのです。泥棒ベニヤミンをエジプトにほっぽり、自分たちはヘブロンに帰るのかということです。かつて彼らがラケルの長子にしたように。

 ところが兄たちは、44:13「衣を引き裂き、めいめい自分のろばに荷を積むと、町へ引き返した」のです。兄たちが高官の前に戻った時、ヨセフは言いました。44:17b「ただ、杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい。」ここにはヨセフの皮肉な心が表れているのです。あの時、22年前、兄さんたちは僕を井戸に突き落とし父のもとにさっさと帰ったではないか。今回も同じくラケルの次男をエジプトの井戸の如き牢獄に落としてさっさと帰れば良いではないか。そして父に、あの時と同じ慰めの言葉を言えば良いではないか。「ラケルの子はいなくなっても、我々十人の息子がいるではないですか」と。何故あの時と同じことをしないの兄さんと、ヨセフは兄たちに向かって叫び出したい衝動を抑えていたのではないでしょうか。

 しかし彼らはもう昔の兄たちではありませんでした。杯が発見された時、44:13a「衣を引き裂いた」ように、衣を引き裂かれ絶望の井戸に突き落とされた者の痛みが分かるようになったのです。最初のエジプトへの旅の時、兄たちはこの高官によって牢獄に監禁された。その時既に兄たちは言いました。42:21(旧75頁)「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」それまでは自分たちのしたことは正しいという気持ちがあった。依怙贔屓をされたのだ。それを良いことにヨセフが我々をどれほど見下したか、だから当然なのだ、と。しかしその結果は、弟ヨセフだけでなく、父ヤコブをどれほど苦しめたのか。それ以来一家は表面的にはともかく、もはや誰も本当には笑わなくなった。「イスラエルの家」は、アブラハムに託された「神の祝福」を受け継ぎ、これから何千年もの間、人類の祝福、言い換えれば「笑い」、その源とならねばならないはずだったのです。それを我々は逆に粉々に打ち砕き、呪いの源としたのだ。それで良いわけがない。兄たちがエジプトへ戻った時、高官は言いました。44:15a「お前たちのしたこの仕業は何事か」と。ここに、杯盗難を叱責するヨセフの演技を超えて、彼の背後にいる神の兄たちへの問いが含蓄されているのです。

 それはとりもなおさずこの創世記を読む私たちの人生に対する神からの問いでもあるのではないでしょうか。「お前たちのしたこの仕業は何事か。」それに促されて兄弟を代表するユダは答えました。44:16b「神が僕どもの罪を暴かれたのです」と。そうであれば、これはベニヤミンの窃盗を認めたという意味を超えるのです。ユダが「僕どもの罪」と「複数」で答えるところにその意味が既に表れています。逆にベニヤミンを抜かした「複数」十人の兄弟の罪責の方が神によって暴露されているのです、そうユダは洞察したのです。何故なら我々こそが弟を見捨てた罪人だからです、と。その罪がついに高官、つまりヨセフ自身の前で告白される直前、兄弟たちは、44:14、ヨセフの前で「地にひれ伏した」と書かれてあります。左近淑先生は、これは一回目の訪問の時(43:26)のように、単に国家の偉い人への礼儀ではない。原意は「身を打ち伏し、倒れる行為」だと説明します。それはこの不思議な高官の背後にいる真の神に対して、罪を告白する時の人間の謙り、悔い改めの姿勢そのものなのです。

 そのような姿勢の中で、44:18以下の有名な「ユダの嘆願」へと物語は流れ込んでいきました。ここで再び、トーマス・マンが日本語訳で5頁を割いて、聖書を膨らませたユダの嘆願の一部を朗読したいと思います。

 「御主君様、お聞き下さい。私たち兄弟がどのような事情にあるかを申しあげたく存じます。主君は、末弟(ばってい)を私どもから引き離して留めておくと言っておられますが、それはなさることは出来ませんし、なさってはならないのです。私ども兄弟全員は決して末弟を伴わずに、老父の所に戻ることは出来ません。絶対にです。ファラオにも等しい御主君、あなた様は私どもに末弟がいることを知ると、その弟を私のもとに連れて来なさいと命じられました。しかし、父は末の弟の手首をきつく握って離さずに育ててきたのです。それと言うのも、その末の弟の直ぐ上の兄がいなくなって、死んでしまったと考えられたからです。最愛の妻の産んだ二児のうち残ったのはこの弟だけなのです。ですから御主君がスパイの容疑を晴らすためには弟をここに連れて来いと言われても、それは全く出来ない相談でした。しかしあなた様から頂いた穀物は一年で尽き、私たちが餓死しそうなった時、父は私たち兄弟に再びエジプトに行くように命じたのです。その折り、私たちは末弟をどうしても連れて行かなければならない事情を、つまり御主君のご命令を、父にもう一度訴えました。その時年老いた父は涙ながらにこう歌い始めたのです。

 「愛しのラケル、私が若い頃、ラバンのために14年の間働く理由となったラケル、野道を少し行けばベツレヘムの宿屋が待っていたのに、路傍で死んだラケル、私の妻ラケルは、私のために二人の息子を産んでくれた。生きているうちに一人を、死を以て一人を。私はラケルと瓜二つのヨセフに全てを与えずにはおれなかった。しかしヨセフは私が旅に出したために野獣の牙に引き裂かれ、美しい体は冷たくなってしまった。私はその知らせを聞いた時、後ろにひっくり返り全身がきかなくなった。お前たちが私に残されたベニヤミンまで連れて旅立って、ベニヤミンが野獣の牙に引き裂かれたら、私は井戸のような墓穴に落ちるだろう。天地は既に最愛の者が引き裂かれたという叫びで破裂しそうになっているが、それにまた新しい叫びが加わったら、世界はガラスの城のように粉々に破裂してしまうことだろう」と。

 御主君はこの悲しみの歌を聞いて下さいましたか。お聞きになったら、私どもが弟を伴わず老父のところに帰れるとお考えでしょうか。この歌を歌った父はそれでも夜を徹した二度目のヤボクの渡しの格闘の末、ついに末の弟を旅に出すことを許したのです。父は弟が帰ってこなければ、今度こそ自分は死ぬことを知っていましたが、イスラエルのために自分を犠牲にする覚悟をなさったのです。ですからこの父の犠牲に応えて、私どもは父に命懸けで末弟を守ると約束したのです。ですからこの下僕のユダは、末弟を伴わずに父の所に帰ることは出来ませません。絶対に。またドタンのあの時のように、自分たちだけで帰国して老父の前に出て、どうやって『弟はいなくなりました』と報告出来るでしょうか。」

 左近淑先生は注解します。兄弟たちは長い間、父を許しませんでした。父に反抗してきたと。若い頃だけでなくつい先週読んだ、43:10でもユダは、お父さんが「こんなにためらっていなければ、今ごろはもう二度も(エジプトに)行って来たはずです」との意地悪を言うことを抑えることが出来ませんでした。しかしこの嘆願でユダは、44:20b「父は彼をかわいがっております」と、また44:30「父の魂はこの子の魂と堅く結ばれています」と素直に言えたのです。彼は父のラケルの子に対する溺愛をついに許すことが出来たのです。いくらでもユダは父とヨセフを責めることが出来るのに、いくらでも自分たち兄弟こそ被害者だと言えるのに、彼はこの父子の弱さを温かい心で受け入れようとするのです。彼はそうやって、大昔、神様がカインにそうせよと命じられた、戸口で獣のように待ち伏せている罪(4:7)、その嫉妬心をねじ伏せることが出来たのです。父ヤコブは唯一の神と唯一の女しか愛せないのだから、そこに父の強さと弱さがあるのだからと、受容したのです。その彼の優しさは、自分もまた同じなのだ、アシュトレトの祭りでのように弱い人間なのだ、ドタンの草原でのように罪人なのだという自己理解と深い関係があるのです。太宰治が言ったように。「憂いの人と書いて優しいと読む、憂いを知る者だけが優しくなれる。」それこそ後に神の民イスラエルを代表する「ユダヤ」、その太祖に相応しく、人間の罪、弱さに同情出来る心の広さを彼は得ようとしているのです。
 その思いの中で、彼は自らの罪責を告白しようと勇気を奮い起こすのです。聖書では、44:16「神が僕どもの罪を暴かれたのです」と、なお暗示に止まる罪責告白を、マンは大きく広げて、ここでユダは具体的な罪の告白に至ったと物語りました。

 「主君は未だ私たちの家についてご存じないことがあるのです。今度のこの不思議なエジプトでの出来事、溢れるほどのご好意と同時に私たち兄弟を容赦なく裁かれる不思議なあなた様との出会い、何故これほど謎めいたことが私たちに押し寄せるのか、その原因になっているのは、おそらく恐ろしい秘密が未だ私たちにあるからだと思います。その秘密を打ち明ける以外に解決がないことを、今、私の心は感じるのです。」
 このユダの言葉を聞いた兄弟たちは動揺し互いに顔を見合わせました。しかしユダは決然と言うのです。「ですから弟の代わりに私を残して奴隷として下さい。それをもって私ども兄弟の贖罪として下さい。そう申しますのも、私たちは贖罪をしなければならないのです。兄弟全員に代わって私が贖罪をいたします。私ども兄弟は22年前に誓いました。墓場まであのドタンの秘密を持って行こうと。しかしその恐ろしい誓いを今、この両手でつかみあげ、投げ捨てる時がきたのです。私どもの11番目の兄弟、父の仔羊、最愛の妻ラケルの長男は、野獣の牙に引き裂かれたのではありません。そうではない。この兄である私どもが、父の愛をどうしても受けることが出来なかった、その嫉妬に捕らえられ、彼を殴りつけ、彼の晴れ着を引き裂き裸にして井戸に投げ込み、世界の果てに売り飛ばしたのです。私どもの父への報告「獣の牙」とは私ども自身のことなのです」と。

 周りにいた他の兄弟たちの顔は真っ青になった。しかし同時に不思議なことにこの22年間で初めて気持ちが軽くなったのです。ギリギリと体を締め上げていた縄目から解き放たれたような気持ちになった。その時、ただ一人、これまでずっと黙って、ただなすがままに着いて来たベニヤミンが、何を思ったか両腕を高く差し上げ、名状し難い叫び声をあげた。エジプト高官の方はと言うと、彼はいつの間にか主君席からずるずる崩れ落ちるように下段の床に立ち、よろよろと羊飼いたちに一歩でも近づこうと、居合わせた役人や召使いたちが目を見張る中、進んできた。既に一日の終わりを迎えていた。エジプトの大地に沈もうとしている真っ赤な夕日が高官の顔を照らし、彼の両頬を伝わる涙はきらきらと光りながら落ちていた。後々までベニヤミンはその涙はルビーの一粒一粒、そのものであったと子どもたちに語り伝えたのだ。

 ヨセフの高坏(たかつき)を使ってベニヤミンをしばらくエジプトに留め、母を同じする兄弟同士の楽しい時をもちたいという願い、それは兄ユダによって阻止されました。しかしそれ以上に、ユダの一身を犠牲にするという高邁な行動によって、12人の兄弟の和解、一族和合へと物語は一気にクライマックスへと流れ込んでいきます。神の民イスラエル12部族はこの時真実の意味で誕生するのです。人は罪を犯しても悔い改め、それに何者かの犠牲、その贖罪が伴えば、父なる神に赦される。このアダムとエバの原罪の子・全人類に与えられた十字架の福音、その祝福の源となるイスラエルがここに出現したのです。そして私たちこそ、このイスラエルの子孫、新しいイスラエルの兄弟たち、教会共同体なのです。

祈りましょう。 主なる神様、私たちは罪を告白して洗礼を受けたと言いながら、誰にも言えない、隠されている罪を告白する勇気のない者です。そのために笑っても目は決して笑えない、そのような空虚な人生を送っている私たちを憐れみの内に覚えて下さい。主よ、どうかその罪をあなたの御前に告白して、重荷を下ろすことが出来ますように。その時訪れる御子の赦しを信じ、皆で笑いの共同体、教会をここに建てていく私たちでありますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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