2022年1月23日 主日朝礼拝説教「シャーロームは満ち溢れ」

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創世記43:17~34 マタイ福音書8:11

「ヨセフは急いで席を外した。弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったからである。ヨセフは奥の部屋に入ると泣いた。/やがて、顔を洗って出て来ると、ヨセフは平静を装い、『さあ、食事を出しなさい』と言いつけた。」(創世記43:30~31)

「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。」(マタイ福音書8:11)

説教者 山本裕司 牧師

 先週読んだように大凶作に苦しむヤコブの息子たちは、エジプトへの2度目の食糧買い出しに旅立つことになりました。それは父ヤコブが、不思議なエジプト高官の要求を飲んで、ラケルの次男ベニヤミンをその旅に同伴させることを許したからです。ヤコブは二十数年前、ラケルの長子ヨセフをシケムへの旅に送り出しために失ってしまいました。そのトラウマによってベニヤミンに、母の墓参り以外の旅を決して許さなかったのです。しかしヤコブは、創世記43:14b「このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」そうイスラエルはついにラケルへの愛の執着に勝利したのです。一方兄たちもまた、ラケルの長子ヨセフへの罪責の償いとして、次男ベニヤミンを瞳のように守りながらエジプトへ旅することが出来ました。彼らもまたラケルの子への嫉妬心に勝利し、ヤボクの渡しで与えられた名「勝利」を意味するイスラエルに相応しい群れに成長していったのです。かくして私たち読者は、イスラエルに平和、シャーロームが満ち潮のように満ちてきたことを感じるのではないでしょうか。

 ところが一行がエジプトに到着した時、何故か一回目のように都メンフィスの謁見室ではなく、高官私邸へ連れて行かれるのです。前回も難民のような自分たちに対する破格の扱いであったのに、それを上回る待遇に息子たちの不安は募るばかりでした。43:18b「これはきっと、前に来たとき我々の袋に戻されていたあの銀のせいだ。それで、ここに連れ込まれようとしているのだ」と。前回訪問時、穀物代金として支払ったはずの銀が袋に隠されていたのです。高官はあの時も親切そうにしておいて、唐突に我々をスパイだと決めつけたのだ。今度も油断させておいて盗みの容疑で、43:18c「ろばもろとも捕らえられ、ひどい目に遭い、奴隷にされてしまうにちがいない」そう思った。そこで息子たちは高官の執事に銀の顛末について訴え、43:21b「それで、それをお返ししなければ、と持って参りました」と釈明に必死です。執事はそれに答えます。43:23a「御安心なさい。心配することはありません」と。この「ご安心なさい」が「シャーローム」です。

 このシャーロームがさらに高官ヨセフの兄たちへの挨拶で、43:27「安否」と訳されて出てきます。また43:27b、28aで交わされる兄たちと弟ヨセフの父ヤコブについての問答、「元気か」、「元気です」これもシャーロームです。そう繰り返されるシャーロームの一つのしるしとして、43:23b、捕らえられることを恐れる息子たちの前に、人質シメオンが逆に解放されるのです。顧みると、37:4(旧63頁)には、兄たちが裾の長い晴れ着を着る少年ヨセフを憎み、穏やか(シャーローム)に話すことも出来なかったと聖書は書きました。この平和の挨拶が失われて二十数年、ついに互いにシャーロームと交わし合う「挨拶」が、兄弟たちに回復したのです。しかもこのエジプトで、12人がついに一人の欠けもなく揃った兄弟たちによってです。シャーロームの意味は「一つの欠けもない状態」とも言われますが、その通りのことが実現するのです。

 〈同時に執事は、43:23「あなたたちの神、あなたたちの父の神が」と兄弟に言います。そしてヨセフは待ちに待った弟ベニヤミンに会った時、43:29b「神の恵みがお前にあるように」と祝福しました。今、この12人の兄弟イスラエルを、一人の欠けなくシャーロームの中に包み込もうとする、恵みの神のお姿が、ここに大きく浮かびあがってくるのです。〉

 そのシャーロームの最も大きなしるしこそ、今開かれようとしているヨセフ私邸での宴会に象徴されるのです。トーマス・マンの描写ではヨセフは「先の君たちの来訪後に一念発起してカナン語を学んだのだ」そう言って母語で兄弟と対話し始めています。ヨセフはベニヤミンに再会した時、未だ小さかった頃の愛らしい弟の思い出が万感胸に迫りました。43:30「ヨセフは急いで席を外した。弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったからである。ヨセフは奥の部屋に入ると泣いた」そうあります。時間になって執事が客たちを席に案内した時、兄たちは、43:33b「驚いて互いに顔を見合わせ」ました。それは兄弟たちの席がきれいに年齢順に並んでいたからです。末席は末弟(ばってい)ベニヤミンでしたが、一番下座に着いたテーブルマスターのヨセフの隣席となるようにされていました。この食卓はその朗らかさで人々の評判になった食事会となりました。エジプト人の客たちも最初は、ヘブライ人とわだかまりなしに食事をすることは出来なかったと思います。43:32b、それはエジプト人のいとうことであったからです。ところがマンの物語では、直ぐに互いの「隔ての壁」(エフェソ2:14)は取り払われてしまい、宴もたけなわになった頃、貴族や軍人などはそれぞれ気が合ったカナンの兄弟たちと大声で話し合い酒を酌み交わした。もはやエジプト人もヘブライ人もなかった。マンはこの祝祭的な昼餐を、先に朗読した、主イエスが語られた神の国の祝宴に近いものとして描きます。マタイ福音書8:11「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。」ご承知のように出エジプト記1:8にあるように、ヨセフのことを知らない王ファラオが現れた時、この神の国の似姿、シャーロームは破壊されました。まさに兄たちがここで心配した通り、43:18b、ヘブライ人は奴隷とされてしまうのです。それは神の子の存在を知らない世界で起こる分断の現実なのではないでしょうか。逆に言えば、その神の子イエスを指し示す如きテーブルマスター・ヨセフの存在が、何よりもこの宴の「平和」を作り出しているのです。彼はこの上なく浮き浮きとしており、それが次第に客たちにも伝染していきました。しかしどの客もその上機嫌のわけは分からぬままでした。しかし多くの客人たちの中で、おぼろに真相に気付き始めた者が一人だけいたとマンは物語ります。その者こそラケルの次男ベニヤミンです。ベニヤミンは初めエジプト高官と、少年の頃ふいに自分の前から消えた兄を結びつけるなどということは思いもよりませんでした。ところが宴が進むにつれ、遠くかけ離れた全く別の存在の間に、何か類似的なものがありそうだという予感に、身も震えんばかりの胸騒ぎが抑えられなくなる。マスターは客の中で最小年であるにもかかわらず巧妙に彼の左隣に座らせたアジア人の若者に、自分の皿から幾度となく繰り返し料理を分け与えるのです。それはエジプト人の客たちの好奇心を呼び覚ましました。彼らはその回数を数え、後にこの昼餐の素晴らしさと共に、皆に噂して歩いた。そのために、43:34bに記されたように、このヘブライ人の若い客が、他の客たちの五倍もの料理が与えられたという話が現在まで伝承されたのだと言われるのです。ホストの夜のように黒い瞳はベニヤミンをからかうように見つめ、時としてベニヤミンがまさかそんなことがあるわけがないと否定しながらも驚愕に満ちて、父譲りの灰色の目で高官を見詰め返す。するとホストの目は退却するように塞がれてしまう。やがてベニヤミンは不思議にも、目の前のご馳走とは別の幼い頃の匂いの記憶、かぐわしい花の香りをかぐ思いがし始めるのです。

 私たちは今朝、マンの大長編『ヨセフとその兄弟』第三巻、その大詰め近くに差し掛かっているわけですが、ここで第一巻に戻らねばならいのです。故郷カナンのヘブロンの町から30分くらいの所に一つの谷間があって、そこはミルテ(ギンバイカ)の木立で埋められていた。その中央にはカナンの祭壇があって、一度死んだカナンの神が三日目に甦る、そのお祭りが春毎に行われる場所でもあった。ヨセフは八歳のベニヤミンと幾度もその場所を訪れてきました。ベニヤミンは母親ラケルの優しさを受け継いでいましたが、少年の小さな体は、内気な憂愁さ(憂い)が影のように離れません。それは母親がどのように死んだかを父の態度から感じてきたからです。ベニヤミンはその母の命がその黒い瞳に未だ宿っているような兄といつも行動を共にした。ふたりは谷間の神を祀ってある森の小道を、手を繋ぎ笑い合いながら駆け回った。ヨセフは春になって白く咲き始めたミルテの花をつける小枝で冠を作り、自分の頭髪の上にのせます。そのカナンの祭りでは同じミルテの冠は神の像に被せられることになっている。そしてその神の像は殺された者として櫃に収められる。だからミルテの香りは死の香りにもなる、そうヨセフは教えるのです。ベニヤミンは「それならぼくは母の死の子だから、ミルテの冠が似合いそうだね」と呟きました。しかしヨセフは言うのです。この冠がふさわしいのは君じゃない、きっと僕のほうさ、と。みんなに寄ってたかって殺されるカナンの神は、脇腹の傷口をぱっくりあけて、やがて櫃に入れられ、洞窟の中に隠される。そしてカナンの村人は悲しみの中で沈黙する。しかしそれから三日目になった時「神は生きておられる、主は復活された、神を賛美せよ!」と一人の乙女の喜びの声が谷に響き渡るのさ。そして復活賛歌が歌い始められた時、みんなは墓の前に走り寄ると、洞窟の塞ぎ石は既に転がされていて、どうだろう中の櫃は空っぽなんだ。そしてカナン人は歓呼する。「空っぽ、空っぽ、空っぽ!」と。「墓の中は空っぽ、主は復活された!」。その時ミルテの花の香りはもう寂しい香りじゃない、歓喜の香り、命の香りになって、それにみんなが包まれてしまうのさ、そうヨセフは弟に教えました。

 それはその時、ミルテの冠を被る17歳のヨセフも知らなかったのですが、やがて自分自身もカナンの神のように、ドタンの空井戸に投げ込まれる。しかしその陰府のような穴に隠されてしまっても、三日目に隊商によって引き上げられる。その後、空井戸を尋ねた長兄ルベンもこう叫び始めるのだ。「あの子がいない、空井戸は空っぽ、空っぽ、空っぽ!」と。そして自分たち兄弟を命懸けで産んでくれたために、犠牲となった母ラケルも、やがてミルテの命の香りに包まれるであろう。そういう目くるめくイメージに捕らえられた時、ベニヤミンははっと我に返ると、心を激しく揺さぶられながら、席順の謎について高官に問います。「どうして閣下は、私たちの名前をご存知である上、年の順まで正確に知っておられるのですか。」高官はそれは簡単なことだよ。この銀の杯は、さまざまなことを予知することにも使っている。これを見れば、世界を動かしている秘密を知ることが出来る。諸君の年齢順など杯からいとも簡単に読み取ったのだよ。これは過去に起こったことも教えてくれるのさ。君のお母様のお墓がどんな様子かも見てみようか。「母を知っているのですか」、「頬が薔薇の花びらのように香ったというその女性は、若くして西方に旅立ってしまったと、あなたのお兄さんたちから聞きましたよ。それ以上のことを知りたければ、この高坏(たかつき)をこうして額の所に持ってくるだけで、…ほら、君のお母様のお墓の場所が見えてきたよ。朝日を浴びている山の上の町が見える、その町の名はベツレヘムらしい。その町へ向かう野道だろう、その傍らに立てられた石の墓が見えてきた。おやどうだろう、そこに誰かが跪いて水と甘いパンを供えているぞ。そいつの乗り物だろうな、ろばの子が木陰につないである。」「そうです、それは母の墓です」とベニヤミンはむせながら言った。高官は続ける。「おや、乗り手の姿がもっとよく見えてきた。供え物をしているのは、青二才のにやけた男で17歳になったばかりだ。この若者は派手な裾の長い晴れ着を着ているな。丁度君のお召し物に似ているぞ。でも頭がおかしいらしい、と言うのは、男は朝の散歩くらいの気持ちだったかもしれないが、二度と家に帰れぬ破滅の道行きを進んでいるのさ。この墓からほんの二三日行った空井戸が彼の墓になることも知らずに、にやけおって。」「それは兄のヨセフです!」ベニヤミンは大声を出した。「おや、失礼した。しかしその墓についても余り大袈裟に考えないでおくれ。その墓は確かに暗くて深いが、それは元々空なのだからね。三日目に行ってみれば、それが空だということが益々はっきりする。蓋をしていた重石が脇に転がされている。この死の穴は落ち込んだ獲物を長く陰府に留める力がないんだよ。カナンのお祭りがそうであったように、一時、神の死を悲しんでも、それに続く復活の春の朝が来る。すると人々は、そこでも歓喜の歌を歌い始めるだろう。「空っぽ、空っぽ、空っぽ!墓の中は空っぽ!主は復活された!」と。だからお兄さんの墓について私が口にしたことを余り悲観的に考えないで、元気(シャーローム)を出しておくれ。」その時むせ返るようなミルテの花の香りの記憶に、ベニヤミンは包まれた。かつて兄ヨセフからエデンの園はミルテの香りで溢れていたと教えられた、その香りでベニヤミンは息が止まりそうになり、灰色の目から涙が溢れ、口は今にも叫び声を上げようと開かれたが、声は出ないまま、高官の黒い瞳をじっと見詰めていた。
 
 その瞬間高官の目は再び逸らされ立ち上がると「さあ、そろそろ食事を終えることしよう」と言った。その頃は昼なのにもはや客たちは酩酊状態に近かった。これほどおいしく楽しい宴会は誰にとっても生まれて初めてだったからです。ヘブライ人もはっと我に返り何故自分たちのような遊牧民が、さっきまで身分の高いエジプト人たちと笑い合い、肩を組み、歌まで一緒に歌っていたことに驚愕した。つまりこの宴会には主なる神しか与えることが出来ない、神の国のシャーロームが満ち溢れたのだ。創世記はマンと異なりそのことをただ一言、しかし印象深く語ります。43:34c「一同はぶどう酒を飲み、ヨセフと共に酒宴を楽しんだ。」

 私たちも主日になるとこの「主の食卓」の前に集められます。まるで互いに外国人のようにバラバラの心で、別々の世界からやって来る私たちが、しかしここで一つになるために。これは、互いに直ぐ「隔ての壁」を高く築く私たちが、もう一度シャーロームの挨拶を交わし合うことを可能とする食卓です。同時に、私たちが死の井戸に落ちても、三日目に復活することを約束する、その命の香りに満ちた食卓です。その食卓を今朝も皆で囲むことが出来た私たちの祝福を思う。

祈りましょう。 主なる神様、今私たちはコロナ感染爆発の最中にあり、この食卓からパンと杯を受けることが出来ませんが、それだけに、今、この礼拝に唯一残された、あなたの御言葉をこそ掛け替えのない「サクラメント」と覚えさせて下さい。その神の言葉のパンを食べ、福音の杯を飲み、あなたの創造の目的であるミルテの香りが満ち溢れたエデンの園に、一人も欠けることなくシャーロームに覆い包まれつつ、帰ることが出来るように聖霊を以て導いて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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