2022年1月2日 主日朝礼拝説教「それでも人生にイエスと言う」

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創世記41:1~16,25~43

「ファラオはヨセフに向かって、『見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる』と言い、印章のついた指輪を自分の指からはずしてヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをヨセフの首にかけた。」(創世記41:41~42)

説教者 山本裕司 牧師

 ヨセフは17歳の時ドタンの草原で、兄たちによって晴れ着を剥ぎ取られ、裸で井戸に投げ込まれました。そして隊商に拾われエジプトに連れ去られたのです。彼はエジプト人高官ポティファルに売られましたが、ポティファル夫人の誘惑を受け、ここでも服を剥ぎ取られ裸にされ、再び井戸の如き監獄に投げ込まれました。やがてそこにエジプト王ファラオの給仕役の長、料理役の長も投獄されてきました。ヨセフは彼らの夢を解いたところ、その通りとなり給仕役は宮廷に復帰出来たのです。その時ヨセフは給仕役に頼みました。「ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください」(創世記40:14a、旧70頁)と。ルカ福音書に記される御受難の物語、そのゴルゴタで、主イエスの傍らで同じく十字架につけられている犯罪人が願いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。すると主イエスは、「はっきり言っておく、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束下さった。「今日」と主は言って下さった。どんなに犯罪人は嬉しかったことでしょう。

 ところがヨセフ物語では、今朗読したように、41:1「二年の後」と記されるのです。きっと自分の無罪が証明され自由になれる。今日かもしれない、あるいは明日かもしれないと、待ちわびた2年だったことでしょう。しかし時は空しく過ぎていきました。ドタンの事件から数えれば、既に13年の幽閉に、ヨセフは生きる望みを失っても当然だったと思います。しかし彼は耐え抜きました。どうしてそんなことが出来たのでしょうか。聖書は、39:21、23「主がヨセフと共におられた」からだと繰り返すのです。ヨセフの時代にも御国におられた三位一体の御子イエスは、給仕役を初めとするこの世の誰が忘れてしまったとしても、ヨセフの「わたしを思い出してください」、その願いを御国で思い出さない日はなかったに違いありません。そのインマヌエルの神への信頼が獄中のヨセフを支え続けたのです。

 昔、私たちは「パンの会」という、皆でビデオ映像を観て語り合うという会を開いていました。その最初期に観た映画に「ショーシャンクの空に」がありました。それが一昨日、BSで放映されたので私は久し振りに観て、至福の大晦日を過ごしました。そこで気付いたのは、これはヨセフの獄中物語のリメイクでもあるということです。若き銀行副頭取アンディーもヨセフ同様に冤罪によって終身刑を宣告されます。収監されたのは不正と暴力の巣窟ショーシャンク刑務所でした。その絶望が支配する監獄の中で彼はやがて、ヨセフ同様に監守長に取り入れられ(39:22)、彼の蓄財に敏腕を振るいます。またこの監獄に適応するためには「諦めること」を学ぶほかはない、そう皆から諭されるのですが、アンディーは決して希望を捨てません。そして同囚の友を励ますのです。それはまさに40:7「今日は、どうしてそんなに憂うつな顔をしているのですか」と声をかけ、囚人たちに希望を与えようとするヨセフの姿そのものです。例えば寄贈品の中にモーツアルトの「フィガロの結婚」のレコードがあるのを発見したアンディーは、放送室の扉に錠をかけて全館放送で流す。囚人たちが全員、手を休め、無言で美しい歌声に聞き惚れてしまう。外の拡声器の下に皆出てきてしまい、ショーシャンクの空を見上げます。どんなに高い壁に囲まれていたとしても、突き抜けるような「空」がこのショーシャンクの上に広がっているではないか。我々を誰も縛ることは出来ない。音楽と「空」、つまり天からくる自由を奪うことは誰にも出来はしない。そう歌うように訴えているのです。そうしている内に20年間待って巡ってきた無罪証明のチャンスがやってきます。しかしそれは財産管理のために必要なアンディーの釈放を許さない所長によって、無惨にも打ち砕かれる。しかし彼はそれでも自由への希望を捨てない、そういう物語です。

 あるいは、左近淑先生がここでやはりヨセフに似た存在としてあげるのは、ヴィクトール・フランクルです。彼は強制収容所での経験をこう書いています。「特に超越的な存在を知っている囚人は自殺しようとしない。同じ状況でも彼らは生き延びる」と。このフランクルの伝記を読んだ時に教えられたのは、「夜と霧」というタイトルで、日本に紹介されたアウシュビッツ体験記、それは新版においてはタイトルがこう変わったということです。「それでも人生にイエスと言う」。この言葉は囚われていたユダヤ人によって作詞された歌で、収容所の中で歌い継がれていました。フランクルがこのタイトルを用いて強調したかったのは「夜と霧」に覆われた絶望の井戸の底に落ちても、「それにもかかわらず、人生にイエスと言える」と言うことです。

 フランクルはゲットーからアウシュビッツに送られることによって全てを失います。自分の分身と覚える著作原稿はゲットーから密かに自分のコートに縫いつけて持ってきました。しかしそのコートも没収された。ヨセフ同様に裸にされたのです。その時彼はこの喪失が自分の人生を無意味にしてしまうのではないかと自問しました。しかしそれに対する答えは直ぐに与えられました。彼は自分の服の代わりに、既にガス室送りになった別の収容者のぼろ服が与えられました。彼はそのポケットの中に引きちぎられたヘブライ語祈祷書の一頁を見出すのです。それはユダヤ人にとって一番大事な祈り「シェマーイスラエル」つまり「 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4~5)、その教えであった。この言葉をフランクルはこう理解するのです。「つまり艱難であれ、たとえ死であれ、どのようなことに直面しても、これは人生に対して『イエス』と答えよという教えだ」と。

 アウシュビッツの「夜と霧」のただ中で、なお囚人たちが歌い続けた歌、「それでも人生にイエス(肯定する)と言う」と。そう聞く度に、私はこの「イエス」とは、イエス・キリストのことと聞こえてなりません。試練のただ中で、何の光もないと思わざるを得ない、否定的暗黒の中で「それにもかかわらず人生にイエス・キリストと言う」。真の「人生の肯定(イエス)」とは、私たちのことを思い出して下さる「イエス・キリスト」から来るからです。

 獄中の給仕役だけではありません。王宮のファラオも夢を見ました。これから自分はどうなるのだろう、今年、この国はいったいどうなってしまうのだろうか、その未来に対する不安、恐怖が人間の潜在意識、深層心理には存在し、それが夢に現れるのです。

 先ほど創世記41:1以下で朗読した通り、ファラオの夢は肥えた牛が七頭出てきて、葦辺で草を食べ始めたのですが、その後に出て来た醜く痩せた牛が肥えた牛を食い尽くしてしまいます。続いて、よく実った七本の穂が、次に出て来た干からびた七本の穂に呑み込まれてしまう、そういう夢でした。国の責任を預かるファラオはその夢を見て心が騒ぎ、何とかしてその意味を知って対処したいと思いました。そこで41:8「エジプト中の魔術師や賢者のすべてを呼び集めた」のですが、「しかし、ファラオに解き明かすことができる者はいなかった」のです。ここにファラオの御用学者や官僚など、王のブレーンたちの無能力が暴露されるのです。その時、あの給仕役がファラオに申し出た。41:9b「わたしは、今日になって自分の過ちを思い出しました。」そして41:12「ヘブライ人の若者がおりまして」と話しました。41:14「そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た。」思えば、あのドタンとポティファル邸で裸にされ、井戸の底に落ちたヨセフが、今、囚人服から新しい衣に着替えて上界へと返り咲くのです。夢を解いた直後ファラオよりさらに「亜麻布の衣服」(41:42)を与えられるのです。神の鍛錬の時が満ち、彼はついに自由へと復活、そのことの象徴として。

 ファラオは、お前は夢を解き明かせるそうだなと問います。ヨセフは答えました。41:16「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」それは深層心理の超えている、神様はファラオに予め未来に何が来るのかを示して王とその国を「幸い」へと導こうとしているのですと言うのです。「幸い」とは創世記後半の主題「祝福」のことです。アブラハムから受け継がれてきた祝福が今、ヨセフを通してエジプト王にもたらせられようとしているのです。まさに、神がハランでアブラハムに約束されたことが、今ここで実現しようとしているのです。「…あなたの名を高める/祝福の源となるように。/ あなたを祝福する人をわたしは祝福し…地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」(12:2b~3)。
 
 その祝福の源に鍛え上げられたヨセフは神の知恵をもって夢を解き明かします。牛の夢も穂の夢も、七年の豊作の後に七年の不作が続くことを意味する。しかもその不作とは、4:30「国を滅ぼしてしまう」未曾有の飢饉を引き起こすと。つまりこれは国家の根幹、環境問題と食料問題のことなのです。創世記は既に41:8、エジプトの御用学者や高級官僚などの未来に対する無能力を語りました。それは現代も同じではないでしょうか。私たちはまさに悪夢を見ているような時代を生きています。しかしその悪夢に対して、やはり、41:8b「解き明かすことができる者はいなかった」と言わねばならないのではないでしょうか。3・11の原発事故に始まって、地球温暖化やコロナ禍に対する国の無策、また災害対応の行政の貧しさが繰り返されています。いくらまともな学者や市民たちが破局の危機を訴えても、彼らの意見は聞かれませんでした。「聞く力」を標榜する現首相はどうでしょうか。

 それに対して、この数千年前のファラオは、ヨセフの夢の「解き明かし」を耳を開いて「聞く力」を持っていたのです。41:41「見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる」と。これは王の政策提案をなす最有力側近、ブレーンです。それは日本で言えば、内閣官房参与や首相補佐官のように、トップに直接専門的意見を進言する者です。最近の日本の闇、原発再稼働や森友学園を巡る文書改竄問題や、天下の無駄遣いアベノマスクやコロナ対策事業の中抜き問題、Gotoトラベル事業と東京五輪開催による感染爆発など、悪夢ばかりですが、それを提案実行したのが、総理補佐官たちであると言われています。それはいかにトップのブレーンによる専門的政策提案が、国を救うのか破滅に導くのか、その命運を左右するかがよく分かるのです。

 41:30b「飢饉が国を滅ぼしてしまう」という古代エジプトを揺るがす環境問題と食料問題という危機を前にした時、ファラオの横に補佐官ヨセフが与えられたのです。その者こそ神の長年の鍛錬によって鍛え上げられた鋼の如き政治家でした。ヨセフはその信仰によって、41:25,28「神がこれからなさろうとしている」未来を知っているのです。41:32「神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるから」と。現代では、夢解きと言うより正しい聖書解釈によって国家に仕える、そのヨセフのような信仰者が内閣参謀や補佐官に抜擢され日本の政策立案に加わるようになれば、この日本も根底から変わるのではないでしょうか。そのヨセフが言うように、41:33「聡明で知恵のある人物」を見つけて「エジプトの国を治めさせ、国中に監督官を」立てることが必要なのです。その「聡明と知恵」とは信仰から来るのです。そうすれば日本だけでなく、やがてヨセフがするように飢餓難民をも救い、祝福を世に充たす真の平和国家となるのではないでしょうか。

 このエジプトにおける環境、食料問題において、極めて誘惑的なことは、先ず来るのが、41:29、七年間の大豊作なのです。つまりバブル期のことです。18世紀の産業革命によって、凄まじい技術革新と経済成長を人類は成し遂げました。しかしその頃から大気中の二酸化炭素濃度は飛躍的に増していきました。それがここで言う最初の七年だったのではないでしょうか。41:2「突然、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた」という時代です。しかしそれで話は終わりません。その経済成長は資源を食い尽くした末「人新世」の時代を呼び起こして終わります。今や41:3~4「その後から、今度は醜い、やせ細った七頭の雌牛が川から上がって来て、…醜い、やせ細った雌牛が、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。」
 
 それはまさに現代、21世紀の預言でもあるのではないでしょうか。私たちは今、その後半の七年を呼び起こしてしまったのではないでしょうか。元旦の新聞にも「地球温暖化、第六の生物大量絶滅時代、プラスチック汚染、ウイルス感染爆発、超格差社会の出現」など文明の末期症状と言いうる活字で埋め尽くされていました。そのような中で、年の瀬には、生活困窮者への食料配布には、昨年と比べても数倍のもの人が訪れていると言われます。その一人は「食事は五個入り200円のインスタントラーメン、その一個を半分に割り、それを、一日一、二食のみ。明日はどうなるか分からない眠れない日々だ」と言うのです。またアフリカ大陸のマダガスカルは、気候変動が引き起こした深刻な干ばつに見舞われ雨が降らず、これまでにない最悪の飢餓状態にあり、数万人が生命の危機に晒されていとありました。

 そうであれば、この2022年、このヨセフのような人を、私たちはどうしても必要としているのではないでしょうか。神からの未来への警告としての夢を解いて、まさに真の意味で「先手先手」で国家と人類の危機に備える、そのような聡明で知恵ある信仰者を、教会は政治の世界に、あるいはいずれの組織の中にも、送り出すことが求められているのです。

 41:48~49「ヨセフはその七年の間に、エジプトの国中の食糧をできるかぎり集め、その食糧を町々に蓄えさせた。…ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた。」ノアが晴天の丘の上に、またある者たちが「我が亡き後に洪水よ来たれ」ととぼける中で、箱舟を建造したように、夢を解くヨセフもまた、大豊作が永遠に続くかのような錯覚に陥っているバブル時代の最中、徹底した穀物備蓄をなして飢饉への備えをしたのです。やがて解釈通り七年の大飢饉が始まる。41:56~57「飢饉は世界各地に及んだ。ヨセフはすべての穀倉を開いてエジプト人に穀物を売ったが、エジプトの国の飢饉は激しくなっていった。/また、世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。世界各地の飢饉も激しくなったからである。」

 ヨセフの心の中にあったのは、しかしこの途方もない環境、食糧危機のただ中で、なお「それでも人生にイエスと言う」という希望です。そうやって、アブラハム以来の「祝福の源」としての使命を果たそうとするのです。このような偉大な政治家を生み出した神のご計画に、まさに、41:43「アブレク(敬礼)」、脱帽せずにおれません。

 祈りましょう。 主よ、どのような歴史の「夜と霧」の中にあっても、あなたは共にいて下さり、あなたの救いの夢と祝福を私たちに与えて下さることを心から感謝します。そのあなたの知恵を知った者として、祝福の源として私たちも、一人のヨセフとなって祝福を隣人に分け与えて歩む、教会の2022年として下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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