2022年1月16日 主日朝礼拝説教「神は宝を隠しておられる」

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創世記43:1~23 マタイ福音書13:44

「執事は、『御安心なさい。心配することはありません。きっと、あなたたちの神、あなたたちの父の神が、その宝を袋に入れてくださったのでしょう。あなたたちの銀は、このわたしが確かに受け取ったのですから』と答え、シメオンを兄弟たちのところへ連れて来た。」(創世記43:23)

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイ福音書13:44)

説教者 山本裕司 牧師

 王ファラオの夢をヨセフは解き、7年の豊作後7年の凶作が続くことを予知しました。その文字通りの神業であった夢解釈が評価されて、囚人からファラオ高官に大出世を遂げたヨセフは、豊作の間に夥しい穀物備蓄を成し遂げました。凶作の7年に入った時、エジプト国内だけでなく世界各地の人々が穀物を求めてエジプトにやって来るようになりました。その中にカナンのヤコブの息子たちもいたのです。十二人の兄弟であるはずなのに十人でです。ヤコブの最愛の妻ラケルの二人の息子がそこに含まれていなかったからです。父ヤコブに偏愛されたヨセフは17歳の時、兄たちの嫉妬の嵐によってドタンの空井戸に突き落とされました。それ以後死んだことにされていた。そしてもう一人、ラケルが命と引き換えに産み落とした末の息子ベニヤミンは、父から旅に出ることを厳しく禁じられていました。何故ならヤコブはもう二度とラケルの子だけは失いたくなかったのですから。
 
 十人の兄たちは肉体の飢えだけでなく、この父の愛の飢餓に苦しみながらエジプトへ行ったのです。そこで彼らは食糧配給の責任者であるファラオ高官の前に引き出されました。その高官は十人に対して善意と悪意が混在しているような捉え所のない男だったのです。彼らをスパイと疑い、ついにシメオンを縛り上げ人質として、返してもらいたかったら末っ子ベニヤミンを連れてこいと命じます。それでいて高官は帰路の兄たちのために弁当を用意してくれる。また穀物代金として支払った銀が袋の中に全て隠され戻されていたのです。ヘブロンに帰ってことの顛末を父に話し、このエジプト高官がベニヤミンを連れてこいと要求していると言うと、ヤコブは、創世記42:38a(旧76頁)「いや、この子だけは、お前たちと一緒に行かせるわけにはいかぬ。この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか」と許しません。

 そうやっている内に一年が瞬く間に過ぎ、イスラエル家の穀物は食べ尽くされました。その時、父ヤコブは当然のように再び息子たちにエジプトに行くように命じたのです。ここから今朝の43章が始まりました。その時ユダは再び主張します。あの風変わりな高官が、弟を一緒に連れてこない限り面接も許さぬと言っているのです。そうしなければシメオンも解放されないし、穀物も手に入りません。それなのにお父さんは、弟ベニヤミンを溺愛し、相変わらずエジプトへやりたがらないではないですか。43:4「もし弟を一緒に行かせてくださるなら、我々は下って行って、あなたのために食糧を買って参ります。」このユダの願いに対しても父は、43:6「なぜお前たちは、その人にもう一人弟がいるなどと言って、わたしを苦しめるようなことをしたのか」と息子たちを逆に責めます。息子たちは抗弁する。高官は執拗です。まるで我々のことを全部知っているかのように、もう一人の弟はどうしたのかと問うのです。まさかその弟をエジプトに連れて来いと高官が言うとは思ってもみなかったのです、と。ユダは43:8以下でさらに一所懸命説得しました。お父さん、どうか皆が生き延びられるように、ベニヤミンと一緒に行かせて下さい。この「生き延びられるように」との言葉は、既に42:2で既にヤコブが言った同じ言葉です。彼ら父子は、我々イスラエルはあの危険なエジプトに行く時、むしろ生き延びられると何故か等しく言うのです。読者はこの聖書の含蓄に気付くことでしょう。食糧を得るという肉体的意味だけでなく、エジプトにいる失われた兄弟ヨセフと再会し和解する時だけ、イスラエルは霊的意味で「生き延びられる」という意味だということを。ユダは自分でもその含意を知らないまま続けます。ベニヤミンのことは私に任せて下さい。必ず無事にお父さんの所に返しますから。ここでトーマス・マンはユダの台詞にこう付け足しています。「イスラエルよ」とユダは父に呼びかけました。「ご自分のお気持ちに克って下さい。お父さんはかつてヤボクの渡しのほとりで天使と力くらべをなさいましたが、そのときのように夜が白むまでご自分と力比べをなさって下さい。お父さん、あなたのヤボクの時が再び巡ってきたのです」と。

 確かに聖書でもこの43章において何故か、6節、8節、11節と繰り返し、ヤコブはイスラエルと呼ばれています。そこからやはりこの夜、ヤコブにとって、第二のヤボクの組み討ちがあったのではないかと推測出来るのではないでしょうか。思い返せば創世記32章の物語ですが、元逃亡者ヤコブが故郷カナンに帰還する時の話です。その時、ヤコブに祝福を奪われたために殺すと誓った兄エサウと、どうしても再会しなければなりません。ヤコブはひどい恐れに捕らえられていました。その前夜、ヤボク川の渡し場でヤコブは何者かと格闘をします。相手は大変強く、ヤコブは、股(もも)のつがいをはずされますが、彼は相手にしがみついて離さなかった。ついに夜明け前、その者はヤコブを祝福し「勝利」という意味の新しい名「イスラエル」を与えて去って行った、そのような不思議な物語ですが、その再来がこの夜起こったと言われるのです。

 イスラエルはその夜第二のヤボクの格闘の末、自分自身の不安と恐怖と戦って克ったのです。翌朝彼は変わっていました。ヤコブはベニヤミンを昔から忌み嫌ってきた異教の国エジプトに旅立たせるのを同意したのです。聖書に戻れば、43:11aでついに息子たちにイスラエルは言った。「どうしてもそうしなければならないのなら、こうしなさい」と。そして終わりに祈りました。43:14「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」ラケルを失い、ヨセフを失い、もうたくさんだと思っていたヤコブが、そのラケルへの激しい執着心と戦って克ったとマンは物語るのです。そして勝利者イスラエルは、ラケルを母としない息子たちの懇願を聞いたのです。ラケルを母としない人質シメオンを返してもらうために。そうやって家族を霊的、肉的飢饉から救い、一族が生き延びられるように、ラケルを母とするベニヤミンの命を「全能の神」に委ねることが出来たのです。このイスラエルの決意は彼の祖父アブラハムが神の命令に従いモリヤの山に独り子を連れて登る姿に匹敵するものでした。

 改革者ルターは言いました。「隠されたる神」と。神は怒りの下に憐れみを隠す。否定の下に肯定を、呪いの下に祝福を隠すと言いました。理性では神の怒りとしか思われない現象の背後に、神の愛が隠されている。理性や常識には隠されている、その神の愛を洞察出来るものこそ信仰であると言うのです。たとい残されたただ一人の最愛の子が失われたとしても、御心に従う方が良いのだ、何故ならその呪いの下に祝福が、死の下に命が隠されている、そう信じるのです。ラケルの二番目の子と別れるその悲しみの下に、全能の神はヤコブが失った第一のラケルの子との再会の歓喜を隠しておられる。イスラエル十二部族、その神の民の未来がそこに隠されている。肉体の飢えの下に、このイスラエルに付きまとう、霊的飢餓が充たされる飽食の宴が、エジプトに隠されている、ヤコブはアブラハムから受け継いだ信仰によって、それを感じ始めていたのではないでしょういか。

 マンに言わせると、兄弟の旅立ちの早朝、ヤコブは愛妻の形見ベニヤミンを長い間抱きしめていた。他の兄弟たちは辛くはあったが、耐えて地面に目を伏せていた。そして兄弟たちは17日に及ぶ旅の間中、ベニヤミンを瞳のように生卵のように守ってきた。それは父にとってもあのエジプト高官にとってもベニヤミンが最重要な存在であることもその理由の一つでした。しかし実は兄たちがそうするのは、もっと大事な理由があったのです。それは、彼らは口にはしませんでしたが、かつて父の至高の宝ヨセフを空井戸の底に投げ捨て隠してしまった。その罪をベニヤミンによって償いたいと思ったからです。それというのも兄弟たちは、最初のエジプトへの旅において、その悪意の下に好意を隠しているような不思議な高官と対面したからでした。その出会いによって、何故か分かりませんが、弟に対して犯した暴力が、まるで昨日のことのように甦ってきからです。その罪の償いが、今こそ求められている、その気配がひしひしと感じられたのです。それで自らの嫉妬心に勝ってラケルのもう一人の子を大切に扱うことこそ、自分たちの新しい兄弟のあり方だと、彼らは確信し始めていたのです。その意味で、彼らもまた父に続いたのです。兄たちもヤボクの渡しでの戦い、その嫉妬心との格闘の末勝利したイスラエル、その名を与えられるにふさわしい神の民へと成長しつつあるのです。マンによれば、兄たちはベニヤミンにエジプト高官の前に立たせるに相応しい装い、上等で華美な色彩の服を着せました。それはあの兄たちが激しい憎悪の対象としていた、17歳のヨセフが着ていた、そしてドタンで自分たちが剥ぎ取った晴れ着に似ていた。その剥ぎ取った罪の赦しを求めて、ラケルのもう一人の子に、兄たちは晴れ着をまとわせたのです。

 戻れば1回目のエジプト訪問の時、牢獄に入れられた兄たちはこう気付きました。42:21「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」この2回目の訪問の時の兄たちのラケルの子に対する暖かさは、この罪の自覚の延長線上で起こったことでした。神は、罰としか思われないエジプトの暗い牢獄という否定的な経験の下に、イスラエルの和解の兆しという明るい肯定的なものを隠しておられたのです。穀物袋の中に銀が隠されていたように。イスラエル父子に臨んだヤボクの渡しの格闘とは、ルターの言う、隠されたる神を信じるための戦いであったのです。

 今回の訪問において、兄たちは執事に言いました。43:21「ところが、帰りに宿で袋を開けてみると、一人一人の袋の口のところにそれぞれ自分の銀が入っておりました。しかも、銀の重さは元のままでした。それで、それをお返ししなければ、と持って参りました。」その時、ヨセフの執事は言うのです。43:23「御安心なさい。心配することはありません。きっと、あなたたちの神、あなたたちの父の神が、その宝を袋に入れてくださったのでしょう。…」と答え、シメオンを兄弟たちのところへ連れて来た。」私たちがここまで創世記を通して延々と読んできた物語、イスラエルの家のこれまでの試練、時に余りにも辛い葛藤の下にも、いつも神の「摂理」その見えざる導きという宝が隠されていたのです。そのことを通して全能の神は、イエスラエルが名実ともに、全世界の祝福の源としての使命を果たすに足る神の民に育てようとされてきたのです。

 主イエスはこう譬えられました。マタイ福音書13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」私たちもイスラエルの息子たち、父ヤコブ、時に自ら蒔いた種でどん底に落とされるヨハネと同じです。時に苦難の人生の底にも宝が何故か隠されています。球根の中には花が秘められているように、寒い冬の中に春の兆しが感じられるように、深い闇の中に夜明けが待っているように(『讃美歌21』575より)。だから時に私たちの人生も表面的にどんなに苦しくても、挫折し「七年の凶作」に襲われても、その人生の否定的な経験の下に、神様が宝を隠して下さっておられるのです。だからこそ、主が言われたように、私たちの人生は、持ち物をすっかり売り払っても手に入れるべき、値高き畑なのです。掛け替えのない人生なのです。こんなものただの「不毛不作の畑」だと言って、簡単に人を傷つけ死刑になってやると、そんなふうに投げ捨てるのは余りにももったいなく早すぎるのです。繰り返すと、一見惨めな自分、そこにも神の祝福が隠されています。絶望の下に希望が。ただ主イエス・キリストの恩寵のみによって。その隠された宝を発見するために、私たちは毎週教会に来て祈り聖書を読むことが求められているのです。

祈りましょう。 主なる神様、時に私たちの人生にも世界にも、良きものは何もないと虚無的になる私たちですが、しかしあなたはその中にも光と祝福を隠していて下さると御言葉から示されました。そのあなたの宝がたとえ肉眼では未だ見えなくても、その宝の存在を信じる信仰の眼差しは大きく開くことが出来るように聖霊を与えて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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