2021年9月5日 主日朝礼拝説教「およそ鍛錬というものは」
https://www.youtube.com/watch?v=923i_p3_14Q=1s
創世記30:25~43 ヘブライ人への手紙12:11
「今日、わたしはあなたの群れを全部見回って、その中から、ぶちとまだらの羊をすべてと羊の中で黒みがかったものをすべて、それからまだらとぶちの山羊を取り出しておきますから、それをわたしの報酬にしてください。」(創世記30:32)
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブライ人への手紙12:11)
説教者 山本裕司 牧師
ヤコブは故郷ベエル・シェバでは、家族を愛することを知らないエゴイストでした。また彼は祖父アブラハムから父が受け継いだ、神の祝福をこの世の富と成功を約束するものとしか理解していませんでした。次男でありながら既に長子の特権を兄エサウからまんまとせしめています。もうそれだけで十分ではないかと思いますが、富や力とは不思議なものです。私たちから見れば大変な金持ちや権力者が、未だ足りないと真顔で言うのです。ヤコブもその貪欲「もっと欲しいと思う心」にかられて、ハラン出身の母と共謀して父と兄から祝福を奪い取りました。これで成功間違いなしと思ったその時、兄エサウの激しい殺意に晒され、彼は命からがら砂漠へと逃れる他なくなるのです。トーマス・マンによればエサウの息子が憤怒をたぎらせ叔父を追う。逃亡者に富は余りにも重く、彼は駱駝の背にせめてもと積んだ食糧と宝物を、結局全て砂漠の上に撒き散らし、身一つで逃れるほかなくなります。後の新約の時代、地上のイエスが私たちに教えて下さった御言葉を、その時天から御子はヤコブに語りかけて下さったのではないでしょうか。ルカ福音書12:15「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」この御言葉をヤコブもまた荒れ野で聞いたのではないでしょうか。富よりもっと大切なものがある、それは命である。従って実は神の祝福とは富ではなく命である、その孤独の旅の中で、ヤコブはこれら天来の御言葉を聞き続けることによって、これまでの自分の愚かさに気付いていくのです。このように変えられていく、これこそが神の祝福を受けた神の子の人生なのです。ヘブライ人への手紙は、信仰者を「地上ではよそ者であり、仮住まいの者である」と語ってこう続けます。ヘブライ12:5b~6「主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。/あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」
そういう旅を経てハランの伯父ラバンのもとで文字通り仮住まいの者となった時、ヤコブはかつての自分自身の姿を伯父の中に発見することになるのです。そしてエゴイズムと貪欲がどれ程、相手を傷付けるのか、それを身をもって知りました。これもまた、祝福受領者ヤコブに相応しく、彼を鍛錬しようとする神の導きだったのです。ヤコブが砂漠を越えてハランに到着した時、伯父ラバンは言いました。29:14(旧47頁)「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ」と。しかしこの一見好意溢れる挨拶は、ベエル・シェバでヤコブ自身が毛皮をまとって父の寝室に行った、それ同様の偽装的態度だったのではないでしょうか。実際ラバンの妹リベカを母とするヤコブと、この伯父の「骨肉の繋がり」は極めて強いのは当然です。ヤコブは自分の姿を鏡に映して見ているような気がしたと思います。そして自らにも流れるこの貪欲の血を覚え、深く悩んだことでしょう。
そういうことであれば私たちにとっても、教会に来て祝福を受け継ぐとはどんなに大変なことでしょうか。一生無反省にエゴイストのまま生きた方が私たちにとって楽しかったのではないでしょうか。しかし勿論そうではありません。その行き着く所は破滅です。その奈落への道をひた走る原罪のもとにある人間の歴史に、歯止めをかけるために、神は祝福の源としてのアブラハム、イサク、ヤコブの神となって下さったのです。
砂漠に宝物を捨ててきたために結納を用意出来ないヤコブは、ラバンの娘、最愛のラケルと結婚するための7年間の労働服務を負いました。しかしそれは、29:20「ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた」のです。7年が過ぎ、ようやくラケルとの結婚式の夜、闇の中で同衾したのは姉のレアの方であった。それを知った早朝、ヤコブは父が盲目であることを良いことに、自らを兄だと偽装した、その時の父の激痛を初めて感じることが出来たのです。そうやって結局、レアとラケルの二人を妻としてしまったヤコブはもう7年、強欲なラバンのもと、無報酬で働く他なかったのです。その後半の7年については、聖書は、29:20「ほんの数日のように思われた」とは、もはや書くことは決してありませんでした。その長き隷属の14年目、今朝朗読した物語において、ヤコブは生まれ故郷に帰ることを伯父に願い出るのです。30:25b~26「わたしを独り立ちさせて、生まれ故郷へ帰らせてください。/わたしは今まで、妻を得るためにあなたのところで働いてきたのですから、妻子と共に帰らせてください。あなたのために、わたしがどんなに尽くしてきたか、よくご存じのはずです。」この訴えに彼の悔しさがにじみ出ています。ラバンはそれに対して、30:27、ヤコブのお陰で「主から祝福をいただいた」と言っています。しかしそれは祈りによって神様から示されたことではありません。「占い」という聖書が退ける方法で得た理解です。この意味は、ラバンは神の祝福をかつてのヤコブ同様に物質的なものとしか理解していない、そのことがここで暗示されているのです。神の祝福を得ているヤコブ、それをただ金儲けに長ける甥という意味でしか理解出来ないのです。そしてもっと自分の家が富み栄えるために、祝福を受けた甥を骨までしゃぶろうとしているのです。無一文では妻たちの競争によって12人の子を得てしまったヤコブはとうてい故郷に帰ることは出来ません。ラバンの狡猾さを知っているヤコブは、このままでは、一生ハランで奴隷として生きる他はないと判断した時、彼は初めて持ち前の賢さを表そうとするのです。しかしそれは以前のように、人を騙すための知恵ではありません。正当なやり方で報酬を得る方法を彼は思いつきました。
30:32ですが、ヤコブは、もし私がなおここであなたの羊を養うのなら、この報酬の条件だけは認めて下さいと伯父に求めます。あなたの家畜の中から、ぶちとまだらと黒みがかった羊と、まだらとぶちの山羊だけは私の報酬にさせて下さい。後は何もいりませんからと提案したのです。羊の家畜化が始まったのは、まさにこのラバンが暮らす古代メソポタミアであったと言われています。学者によると紀元前七千年に羊の家畜化が始まりました。創世記の族長たちの時代は紀元前二千年くらいです。従ってメソポタミアで羊の家畜化が成功してから、既に五千年の歳月が過ぎていました。その間、飼育者たちは家畜の品種改良を重ねてきたのです。元々、野生タイプの羊の毛は黒色、褐色でしたが改良によって白色ウールのみをまとう羊を作り出しました。白色が染色に都合が良かったからです。ですからこの時代既に、ヤコブが報酬として要求した30:32「ぶちとまだら」、「黒みがかった」毛を持つ羊は本の少数になっていました。山羊の毛はテントなどに使用するので染色は必要なく全身が黒いものが大多数を占めていました。その中で、白と黒がまざったぶちやまだらの山羊もまた少数でした。つまりヤコブは極めて少数の家畜をあえて報酬として要求したのです。その要求を聞いたラバンは、しめたと思いました。ところが何も小細工をしなくても得をすると知っていながら、ラバンの貪欲は限りがありません。30:35~36、直ぐ自分の息子たちに、白いものが混じっているもの全部、それに黒みがかった羊、それらぶちの羊や山羊だけを集めさせ、ヤコブから三日間かかるほどの距離に離してしまいます。もはやそこにヤコブの報酬となる家畜はいません。それだけでなく、今後も、多数派の単色の白い羊や黒い山羊が、縞やまだらのものと交配してしまい、混血によって、ぶちやまだらの家畜が増えることをラバンは防ごうとしたのです。つまり今もこの先も、ただの一匹もヤコブに渡さないようにしたのです。しかしそのラバンの悪知恵に勝る知恵を、祝福を受けたヤコブに主は与えて下さっていました。
ヤコブは工夫します。30:37以下ですが、彼はポプラ、アーモンド、プラタナスの木の若枝の皮を剥いで、枝に縞模様を浮かび上がらせました。それを家畜の水飲み場の水槽の中に沈めました。牧場に残っていた真っ白の羊、真っ黒の山羊たちがそこで水を飲む度に、その木の皮のまだら模様、縞模様がどうしても目に入ります。その結果「胎教」ということでしょうか、単色だったはずの家畜たちが、そこで子どもを産んだ時、みなぶちやまだらの子ばかりだったのです。また、30:41以下ですが、丈夫な羊には、先程の枝を水槽の中に入れて交尾させました。すると強いまだらやぶちの家畜が生まれました。弱い羊の時は、枝を入れなかったので、単色で産まれ、弱い遺伝子を受け継いだ子どもはラバンの物となりました。そして、30:43「こうして、ヤコブはますます豊かに」なったと記されています。
今朝のこの記事は人類が取り組んだ動物の品種改良の長い歴史を彷彿とさせて、その意味からも興味深いと思います。「蛙の子は蛙」と言われます。遺伝こそ、血こそ、家畜だけではなくて、私たち人間の宿命である、そう人類は長く思わせられてきました。しかしこの物語からは、遺伝は絶対的なものではないという希望の光がほの見えるのではないでしょうか。先に申しました。ヤコブに初めて会った時、伯父ラバンは言いました。29:14「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ」と。この伯父の遺伝をヤコブは受け継いだと指摘しました。その遺伝とはエゴイズムと貪欲という原罪であります。その遺伝こそ家族から祝福を奪い、呪いの中に投げ込む元凶でした。しかしヤコブは、羊や山羊たちに、縞模様の木の枝を見せることによって、その動かないと思われた遺伝も変わることを、神様から示されたのです。そうであれば、その変化は自分にも及ぶと思ったのではないでしょうか。何かをじっと見詰めれば、遺伝的宿命もまた変わるのではないかと。
洗礼者ヨハネは、ヨハネ1:29、自分の方へイエスが来られるのを見て指差しました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。主イエスは、人間マリアの子であり同時に神の子でした。信仰告白では「真の神であり真の人」と言われます。それは人間と神が入り混じったような御存在ではないでしょうか。それは単色ではなく、縞模様であり、まだらの神の子ではないでしょうか。栄光の王の王であられながら貧しき馬槽の中に産声をあげられた、そうやって力と弱さを同時に主イエスは持たれた、そのような「ぶち」のお姿をもって神の小羊が私たちの所に来て下さった時、私たちはこう讃美歌でも命じられたのです。「この人を見よ」と。何故見なければならないのかというと、私たちに流れる原罪の血もそこで変わり始めるからに違いありません。宿命と遺伝、その変わらないと思っていたものが、まだら模様の神の子を見る時、変わり始める。ヨハネが「蝮の子」と呼んだ私たちであるにもかかわらず、もはやそこで蛇の血統だけではない。神の子の毛並みが現れ始めるであろう。そこで私たちもイエス・キリストに似て、まだら模様となる。改革者ルターは、キリスト者とは「義人であり同時に罪人」と「自由人であり同時に奴隷」と言いました。そういう不思議なまだら人間に私たちは生まれ変わることが出来るのではないでしょうか。呪われたラバンの骨肉でありながら、祝福の担い手となったヤコブのように、その遺伝を変えることが出来るのであります。神の鍛錬ともう一つ、ただ主イエスをじっと見詰めることによって。
三浦綾子さんの作品『氷点』を思い出します。陽子という太陽のように明るい無垢と思われた少女こそが、自殺という罪を最後に犯します。陽子は殺人犯の父の血が自分に流れている、そのことを知った時自殺するのです。自分は正しい、周りがどんなに醜くても自分だけは美しくあれば良い、そう思ってひたむきに生きた、それが実は少女陽子の高慢です。その正しさが打ち崩された時、もう自分を支える何物も残っていなかったという物語です。禁断の木の実を食べた最初の人間の原罪の血、それが受け継がれて今も私たちの血管に充満している。それを否定することは出来ません。だからそこからあらゆる呪いが噴出しているのです。それに歯止めをかけるために、私たちが出来ることは、もはや自分の儚い美しさ、正しさに頼るのではありません。ただ神であり人であるまだら模様の「この人を見る」他はない。陽子が「遺書」の中で求めた「ゆるし」を与えて下さる権威・主イエスを凝視し、その御血潮に与る時、そこで初めて、私たちの原罪の血も清い血と混じり合うであろう。そこで「罪人であり同時に義人」とさえ呼んで頂けるようになる。これは何と素晴らしい祝福、何と言う救いでしょう。
祈りましょう。 主なる父なる神様、あなたは私たちが宿命と覚える原罪の血を贖って下さるために、御子をここに派遣して下さった、その恵みと愛に感謝します。どうか私たちが、地上の宝に目を奪われることがないように、あなたが私たちを鍛え直して下さり、ただ御子のみを見詰め、そこに私たちの人生における唯一の祝福を見出す者となれますように、この秋、聖霊を溢れるほどに注いで下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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