2021年9月26日 主日朝礼拝説教「なだめの贈り物を先に」
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創世記32:2~22 ルカ福音書19:28
「ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである。」(創世記32:21b)
「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。」(ルカ福音書19:28)
説教者 山本裕司 牧師
古代イスラエルの民はヨルダン川の支流に沿う「マハナイム」という土地の名の由来を問われた時、今朝私たちに巡って来た創世記32:2以下の物語を語ったことでしょう。そして「マハナイム」とは、32:3「二組の陣営」という意味だと説明したことでしょう。「陣営」とは大勢が野外に集まっている。キャンプをしている。あるいは「軍勢」と言うことも出来ます。そういう陣営が二つある場所ということですが、何を指して二組と言っているのかというとそれは複数の伝承がありました。
それは、地名の由来によく起こることです。私はかつて四国の伊予大洲で伝道をしていましたが、その町の中央を流れる大河「肱川」の名を聞いた時「何故この名がついたのですか」と旅人は尋ねます。その時大洲の人が用意した回答はやはり複数です。一つは南予を「肘」のように大きく屈曲して流れる川だからです、と。もう一つは殿様が大洲城を築く時、下手の石垣を何度積み直しても川が溢れて崩してしまう。そこで人柱を立てることになりますが、その人柱とは未婚の若い女性でなければならなかった。いろいろな意味でとんでもない話です。勿論進んで生き埋めになろうなどという娘はいません。そこでくじを引いた所、運悪く当たったのが「おひじ」という娘であった。おひじに「最後の望みはないか」と聞いたところ、「ほかに願いはありませんが、この川に私の名をつけて下さい。」と言って、白装束(しろしょうぞく)をまとって埋められた。不思議なことにその後石垣は崩れることはなく、立派なお城が出来上がった。「皆の衆は娘の霊を慰めるために願い通り城の下を流れる川を比地川と名付け、おひじの住んでいた所を比地町、お城を比地城と呼ぶようになった。」そう説明されるのです。
創世記の「マハナイム」も複数の伝承を持っていたました。それを一つの物語に巧みに構成し直したのが今朝の物語です。そこで先ずヤコブ自身がこう言いました。32:3「ここは神の陣営だ」、この川の畔に来た時、驚くべきことに神の御使いの大集団が目に飛び込んできたのです。それに対してヤコブもまた大所帯、陣営と呼べるような一群となって、今、故郷直前の国境まで帰って来たのです。マハナイムとは、この神の陣営とヤコブの陣営、この「二組」がこの所で向かい合ってしまったという意味かもしれません。さらにもう一組の陣営としては、32:7、接近してくる兄エサウの四百人の陣営が考えられます。このエサウの陣営とヤコブの陣営が相対してしまった。それを地名とした伝承もあったと思います。また、32:8、ヤコブはここで自分の財産を二組の陣営に分けました。これがもう一つのマハナイムという地名の伝承だと思います。二十年前、兄エサウの憎悪と殺意を逃れて彼は旅立った。今、32:6、多くを所有するようになった、ヤコブの帰郷の知らせを聞いた兄が四百人の供の者を従えてこちらに向かってくる。それはまさに軍勢かもしれない。その時32:8~9「ヤコブは非常に恐れ」ました。「思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのである」そうあります。そういう複数の「マハナイム」という名に対する「原因譚」的説明が、古くから存在していました。それらが混じり合って、ここで一つの含蓄豊かな物語となっています。
このマハナイムの物語の底流に流れているものは、ヤコブの「恐れ」です。彼は川を渡って故郷に入らなくてはならない。しかしそこに天使の陣営が控えている。しかも兄エサウの軍勢も近づいてくる。この時神様は自分の味方なのか敵なのか。御使いはヤコブを助け、エサウの手から救い出してくれるのか。それとも御使いの陣営とエサウの陣営が連合軍となって、自分の行く手を阻み、攻め立て川を渡らせまいとするのか。そういう不安な思いが、彼の32:10以下の切なる祈りに表れています。
32:11b~13「かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。/どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。/あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」
二十年前、ヤコブが単身一本の杖しか持たず、ヨルダン川を渡った理由は大きな罪を犯したからです。兄と父を欺き祝福を奪ったからです。ですからもし故郷に帰ることが出来るとしたら、それはその罪が赦されるということを意味しました。その自らの罪責が立ち塞がるようにして川を渡らせまいとしているのです。「罪責」こそがマハナイムで、ヤコブに対峙している妨げの陣営の正体なのです。その二十年たっても拭い難い強烈な罪意識が天使の陣営となって現れたり、エサウの軍勢に象徴されたりしているのではないでしょうか。この罪をどう越えるのか、それは誰にとっても人生最大の課題です。彼は祈りつつ煩悶しました。そこでヤコブは、32:17、自分の群れを幾組かに分けます。これもマナハイムの名を暗示しますが、それはともかく、彼は召し使いに言います。32:17b「群れと群れとの間に距離を置き、わたしの先に立って行きなさい」と。先頭の一群が兄に会ったら、32:19「『これは、あなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります』と言いなさい」そう命じました。そして、32:21b~22(旧56頁)「…ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである。/こうして、贈り物を先に行かせ、ヤコブ自身は、その夜、野営地にとどまった。」そうあります。
注解によるとこの32:21「なだめる」、この元の意味は「覆う」、あるいは「拭う」です。またここの原文では何度も「顔」(パニーム)という言葉が使われていると多く学者が指摘します。32:21b~22aの全体をそれで訳し直すとヤコブの思いはこうなるそうです。「私の顔の前に行く贈り物で、兄エサウの顔を覆い(彼の顔から怒りを拭い去り)、その後、私は、彼の顔を見よう。恐らく彼は私の顔を上げてくれるだろう。こうしてその贈り物がヤコブの顔の前を(先に)通って行ったのだ。」何故「顔」という言葉がここで頻出するかと言うと、次週読む、32:23以下に表れる、やはり川の畔の地名、32:31「ペヌエル(神の顔)」の伏線であると考えられているのです。
ヤコブは罪を犯した兄エサウに「合わせる顔」はありません。その時、面接することが可能だとしたら、ヤコブが先に行かせた贈り物が、エサウの怒りの顔を覆ってしまう、拭ってしまう、そうすれば、ヤコブの顔をエサウは上げることを許してくれるかもしれない。その時、合わせる顔がやっと与えられるのです。この赦しを呼び起こす、前に行く贈り物、その先陣なしに、後陣のヤコブは進むことが出来ないと言うのです。そうするとマハナイムのさらなる意味とは、ヤコブのみならず人間とは誰もが、もう一つの陣営、前を行く陣営なしに顔を上げることの出来ない存在である、という含蓄が表れてきます。つまり私たち罪人の前を、先に行ってくれるものなしに、人は神とも兄弟とも「合わせる顔」は実は元々ないのだと、この物語は暗示しているのではないでしょうか。
そこで思い出すのは、主イエスが私たちの先を行かれて、神の怒りをなだめて下さったという福音であります。先ほどもう一箇所福音書を朗読したように、主は受難週初日、弟子たちの「先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」(ルカ19:28)、そうあります。そこに十字架が立つのです。あるいは復活された後、主は弟子たちより「先にガリラヤに行かれる」(マルコ福音書16:7) と天使は告げました。やはり「先」です。あるいは使徒パウロは言います。「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(コリント一15:20)と。初穂とはそれ一本だけが実るのではない。初穂が実るとは、それが先触れとなって、その後に夥しい麦が続くだろう。主イエスが私たちに初穂として先立って下さる、その時後塵を拝する私たちも続くことが出来る。主が御自身の十字架と復活によって、私たちの行く手を阻む妨げの露払いをみなして下さる。罪と死の呪いの障壁を打ち壊して下さる。そして祝福と命の大道を開いて下さる。だから私たちも前に進むことが出来るのです。
かくしてヤコブの「なだめの贈り物」とは、私たちにとって、主イエス・キリストのことであります。ヨハネの手紙一2:1~2(新441頁)、「わたしの子たちよ、…たとえ罪を犯しても、御父のもとに…イエス・キリストがおられます。/この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(新441頁)。この翻訳「罪を償ういけにえ」は、最新の「共同訳」では「宥めの献げ物」と訳されました。
ヤコブの「なだめの贈り物」、それは創世記32:15~16にある莫大な家畜の贈り物「雌山羊二百匹、雄山羊二十匹、雌羊二百匹、雄羊二十匹…」などなどです。しかしそれがどんなに多くても、それと比較にならない献げ物、ただお一人の「神の小羊」の故に、私たちは神の「御顔」を見ることが許されるようになる。神の御使い、その陣営もまた、御子イエス・キリストの故に、私たちの味方になって下さる。そうやって道を開いて下さる。そして、他の陣営、エサウのような敵であった者とも和解することが出来る。だから私たちは深い川を渡って真の故郷である神の国に帰ることが出来る、そういう祝福に満ちた含蓄が、この「マハナイム」という地名から浮かび上がってくるのです。
先に大洲城を築く時、石垣が何度積み直しても崩れてしまったという昔話を紹介しました。私たちの人生も、毎日コツコツと石垣を積み上げるようにして生きてきました。しかしここまで来て今思うのは、この人生は主が言われたように「砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7:26)、そういうことです。自分の罪が、一所懸命何十年もかけて建てたはずの自分の家を下から崩してしてきたのではないだろうか。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタイ7:27)。その時、その自分の罪によって引き起こされた、神と隣人の陣営、その怒りの暴風をどう宥めたら良いのかと途方に暮れる。その時、大洲の人たちは、人柱しかないと思った。それは未婚の若い女性でなければならなかった。それは罪を知らない無垢の人でなければならないという意味でしょう。これはジェンダーの問題などいろいろな意味でとんでもない話だと先に言いました。ところがそれ以上のとんでもないことが、昔話ではなく二千年前、パレスチナで現実のこととしてこの世で起こったと福音書は語っているのです。私たちの人生の石垣を守るために、罪無き神の小羊が先立って進んで下さったと、そして「宥めの献げ物」となって下さったと。そこで顔を突き合わせるとろくな事が無かったバラバラの陣営が、その「贖罪」の故に、顔と顔を合わせ頷き合うことが出来るようなった、つまり交わりを回復する。ついに私たちは神とも隣人とも十字架の犠牲の故に「一つの陣営」となるのであります。
使徒パウロは言います。エフェソの信徒への手紙2:14~22「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し(てくださる。)…/キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、/十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。/従って、あなたがたは…神の家族であり、/使徒や預言者という土台の上に建てられています。その(家の)かなめ石はキリスト・イエス御自身で」(ある)と。
「宥めの献げ物」というこの「要石」の故に、私たちの家は建つと。どんな洪水からも、罪の大嵐からも守られるであろう。そうであれば、大洲の民がおひじに抱いた以上の愛と感謝を、私たちは御子イエス・キリストに献げなければならない、そう思う。
祈りましょう。 主なる父なる神様、罪深く顔を御前に上げることが出来ない私たちですが、あなたは、御子がなし遂げて下さった贖いによって、私たちでも、御前に顔を上げることを可能として下さった、そうやって、今朝も、救いの道が開かれたことを喜び、顔と顔を合わせてあなたに対して、一つとされたきょうだいたちと共に、礼拝を献げることが許された、その大きな今朝の主日の恵みを心から感謝をいたします。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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