2021年9月19日 主日朝礼拝説教「山の上でいけにえを献げ」

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創世記31:22~32:1

「もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです。」(創世記31:42) 

説教者 山本裕司 牧師

 今私たちが毎週読んでいる族長たちの物語は、聖書となる前、羊飼いたちが古楽器リュートの伴奏で歌ったり古老が物語ったりして聞かせる、口伝による物語であったと思います。先ほど私が長さを厭わず一気に読みましたのは、これを分けてしまうと「物語」としてのおもしろさが消えてしまうと思ったからです。これを昔聞いていた人々は、私たちが映画を鑑賞するのと同様に、時にはらならし、時にわくわくしながら娯楽としてこれを聞いたに違いありません。

 例えば、31:22「ヤコブが逃げたことがラバンに知れたのは、三日目であった」とあります。ヤコブだけでなく多くの家族や家畜が列をなして逃亡したのに、どうしてそれが分かるまで三日もかかったのでしょうか。それは31:19a「そのとき、ラバンは羊の毛を刈りに出かけていたので」とあるように、羊毛の刈り入れの季節で多忙であったとからです。それだけでもありません。ラバンは、30:36(旧50頁)で既に読んできたように、今後ヤコブの報酬となると約束された縞やぶちの家畜を、ヤコブから三日かかる遠方に移して一匹もヤコブに渡すまいとしたのです。だから逃亡の発覚が同じ「三日目」になってしまったのだと暗示されました。つまり逃亡を許したのは、貪欲にかられたラバンの自業自得なのだと、そのラバンの愚かさに聴衆は笑いを漏らしたことでしょう。
 
 あるいはこの逃亡劇のただ中でラケルが父ラバンの31:19「家の守り神の像」(原語テラフィム)を盗み出しました。七日間かけて追い付いたラバンは、31:30b「わたしの守り神」(テラフィム)を何故盗んだのかと迫ります。その時ラケルが盗んだとは知らないヤコブは答えました。31:32a「もし、あなたの守り神がだれかのところで見つかれば、その者を生かしてはおきません。」これを満天の星の下でたき火に当たりながら、長老の迫真の朗唱を聞く羊飼いや子どもたちは、どんなにはらならしたことでしょうか。ヤコブ自身がいつの間にか、最愛のラケルに事実上の死刑宣告を下しているからです。聴衆は、「ああヤコブ、あなたは何て馬鹿な約束をしているのか」と固唾を呑んで続きを待ったことでしょう。この「テラフィム」とは先週も言いましたが、それを所有することが、家の財産が本当にその人のものである、そのことを証明する役割を果たしたらしいのです。この時代の家父長制のもとでは、ヤコブは婿養子としてラバン家に入れてもらえただけでした。だからラバンは31:43でこう言うことが出来たのです。「この娘たちはわたしの娘だ。この孫たちもわたしの孫だ。この家畜の群れもわたしの群れ、いや、お前の目の前にあるものはみなわたしのものだ」と。しかしその権利の宗教的証明となるテラフィムを彼は紛失してしまった。そしてもしそれがヤコブの手に渡っていたら、彼らの信心からしたら、ヤコブが逃亡時に携えた家族も財産も、今度はヤコブのものと認めなくてはならない。だからラバンは像に拘りました。

 ところで、31:22によれば、彼は一人で来たのではありません。一族を率いてヤコブたちに追い付いたのです。注解によればこれは何かを奪って自国へと逃げる敵を追撃する軍隊をイメージするとありました。ところがここでテラフィム探索は何故か大将であるはずのラバン一人ですることになります。つまりそこでは物語は個人的なトラブルの話に変化しているのです。複数の伝承が複雑に重ね合わせられて聖書としてまとめられたからに違いありません。彼が誰の助けもないまま像を求めて天幕から天幕へとうろうろと捜し回る姿は滑稽ですが、しかし聴衆は未だ笑えません。ヤコブの無知によってもたらされた、ラケルの生命の危機(それは取りも直さずラケルを死ぬほど愛しているヤコブの絶体絶命の危機)、それを感じ緊張しているからです。しかしやがてラケル自身の大胆な行為によって、問題は緩められ笑いを隠すことは出来なくなっていく、そのような緩急自在に人々の心を引きつけつつこの名作は続きます。

 31:33以下のトーマス・マンの語り直しでは、父が捜し始めたという知らせがラケルに伝えられると彼女は大急ぎで布に包んであったテラフィムを、天幕前のらくだが横たわる藁敷きの下に隠し、その上に腰をおろした。そこにラバンが汗を滴らせながらやって来る。ラケルの天幕の中を空しく捜した後、出て来た父にラケルは「盗まれたものは、ありませんの?」と尋ねると、彼は首を振るのが精一杯です。「それじゃどこか他の所ですね」と彼女は言って続けました。「私がお父様をお迎えしても無作法にも立ち上がらないのを許して下さいね、気分が悪いものですから」と。聖書ではこうです。31:35「お父さん、どうか悪く思わないでください。わたしは今、月のものがあるので立てません。」聖書では藁の中でなく、像を、31:34a「らくだの鞍の下に入れ、その上に座っていた」とありますが、どちらにしても、今、サスペンスドラマで何かの調査が入った時、だいたい女性が座っているその下が一番怪しいというのが、お決まりになっています。しかしそれらの物語のオリジナルこそこのラケルの物語であるのなら、ラバンは勿論何のドラマも見ていませんので、その盲点を見事に突かれて、目の前にまで迫りながら発見出来ません。かくして全世界で初めてのこの絶妙な「隠し所」を見出したラケルの機転と度胸によってこの危機を自らの力ですり抜けたと物語られ、聴衆たちはほっと胸をなでおろしたことでしょう。

 ラバンは夕方になってヤコブの所にくたくたの姿で帰ってきた。そして攻守所を変えての反撃を受けます。31:36b~37a、ヤコブは「わたしに何の背反、何の罪があって、わたしの後を追って来られたのですか。/あなたはわたしの物を一つ残らず調べられましたが、あなたの家の物が一つでも見つかりましたか。」そうヤコブの勝利宣言です。しかしそれはヤコブの力だけによるのではありません。彼はこう続けたのです。31:42a「もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう」と。「神がわたしの味方だった」だから私はあなたに勝ったのですと、その信仰を彼は告白しました。私が偉いのではないのですと。この物語は羊飼いや子どもの娯楽であったと言いました。しかしそのように物語が楽しく語られる中で、教会学校の説教に似て、若者たち子どもたちへの信仰教育がいつの間にかなされていく、そのようにこの物語は編纂されているのです。
 
 31:23に戻れば、ヤコブを追跡するラバンの一族とは軍隊であった、そのような伝承もあったと先に指摘しました。これは私たちが覚えるようなヤコブ家とラバン家のプライベートな争いとしての物語となる前、その大本は民族間の領土紛争だったのではないかと言われています。そもそもこのラバンが追い付いたこの所は、31:23「ギレアドの山地」とありますが、ここはヨルダン川東岸、約束の地カナンの入り口です。そうであればこれは元々ラバンが代表する東のアラム部族と、西のイスラエル人の境界線に関する非常に古い取り決めを描いた物語であったのではないか、そう学者は指摘します。未だ境界が曖昧だった時、東方の土地に侵入してきたイスラエル人をアラム軍が追跡する、あるいはその逆のようなことが起こっていた。その伝承の残滓が、31:26b「娘たちを戦争の捕虜のように駆り立てて行くとは」というラバンの抗議の言葉から感じられてくるのです。

 しかしそうであれば、ここで民族間の不可侵協定、平和条約を締結することが出来た、それが大本の伝承だったのです。ヨルダン川東岸のギレアド山地、そこを国境線として、32:45以下、石を立て、石塚を盛り上げた。その「証拠の石塚」を、アラム人ラバンはアラム語で、31:47「エガル・サハドタ」と呼び、イスラエルはヘブライ語で、31:47、48「ガルエド」と呼んだ、そういう歴史があったらしいのです。ここが国境だからこの場所は、異国の動向を監視する、31:49「ミツパ(見張り所)とも呼ばれた」そうあるわけです。31:52「この石塚は証拠であり、記念碑は証人だ。敵意をもって、わたしがこの石塚を越えてお前の方に侵入したり、お前がこの石塚とこの記念碑を越えてわたしの方に侵入したりすることがないようにしよう。」この言葉はそのような古い伝承を示していると理解されるのです。

 一方、私たちが読んだように、ヤコブとラバンの個人的な争いと和解という娯楽的な伝承のバリエーションも表れました。その和解の契約において、ラバンは先の家父長の権利を捨てて、31:43「もはや、(ヤコブの家族と家畜の)手出しをしようとは思わない」と言い、また31:50、自分の娘たちの末永い幸福をヤコブに求めた、そのような約束になっています。個人間、民族間のどちらにしても、私たち人間にはいつの時代も激しい反目と憎悪、妬みと葛藤がある。それが私たちの人生を苦しめているのです。しかしここで人と人が和解することが出来るであろう。どうしてこんな奇跡的なことが起きたのか。それは人間の力ではなく神様のおかげだ、そういう信仰教育がこれを聞く者たちになされていくのです。

 31:42のヤコブの言葉をもう一度読みます。「もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです。」この二つの家に平和の主のご介入がなかったら、もしかしたらこの二つの家とも殺し合いの末滅亡したかもしれないのです。古代から近代に至るまで、無数の民族や家がその末路を辿ったように。その神の諭しは、31:24bにあります。「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい。」そう怒り狂うラバンの心を神様は宥めて下さったのです。それがラバンの戦闘モードを鎮め、いきなり暴力に訴えるのではなくて、31:29「わたしはお前たちをひどい目に遭わせることもできるが」それは諭しがあったのでやめとくという「対話」をとにかく始めることが出来たのです。

 この物語から浮かび上がる問いは、私たちの守護神は誰かということでもあります。テラフィムは本当にラバンが信じていたいような「家の守り神」になれるのかということです。テラフィムはラケルによって盗み出され、31:34a「らくだの鞍の下に」、ラケルの尻に敷かれるような無力なものでしかない。それに対して、ヤコブが知った神は、生きておられるのです。それはヤコブを導いただけでなく、敵対者ラバンにも働きかけ「ヤコブを非難しないでおくれ」と執り成して下さるお方なのです。テラフィムは、ラバンが近くに来た時さえも、鞍の下から「俺はここにいる」と声を発することも出来ない「死せる神」です。それに対して、ヤコブの神は、荒れ野のベテルの夜、石を枕にしている時、天から梯子を降ろして「わたしはあなたと共にいる」と御声をかけて下さる、生ける神なのです。偶像は家を守ることはない。生ける神だけが和解の主として家を救うのです。そのことがこの物語を楽しんで聞いている内に、聴衆はしみじみと感じられてくるのです。そして唯一の神を信じることの祝福その喜びが、この物語の終わりに豊かに心を充たすのです。ラバンは最初、31:28「孫や娘たちに別れの口づけもさせない」とヤコブに抗議しました。しかし終わりの別れの朝、ラバンの願いは全て叶い、32:1「次の朝早く、ラバンは孫や娘たちに口づけして祝福を与え、そこを去って自分の家へ帰って行った。」これを聞いた者は皆、ああ良かったと、殺し合いにならなくてと、胸をなでおろし、そして、こういうことだったのかと、そうであれば自分たちも偶像ではなく、この生ける神を信じて生きていこうと、そこに家の、民族の、国家の平和と祝福があると、そのような信仰が与えられるのです。私たちも同じです。

 祈りましょう。 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、そして私たちの神となって下さった、生ける主であられる御神、私たちもまた信仰の先達たちに続いて、貴い御名をお持ちのあなたと出会えた祝福を覚え心から感謝します。時に荒れ野のような人生を歩く私たちの罪を赦し、この労苦と悩みの日に目を留めて下さり、何よりも味方になって下さるあなたを信じ、その愛に促されて隣人とも和解し、平和の内に旅を続ける私たち西片町教会とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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