2021年8月8日 主日朝礼拝説教「神こそ未来を切り開く」

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創世記30:1~24

しかし、神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれたので、/ラケルは身ごもって男の子を産んだ。そのときラケルは、「神がわたしの恥をすすいでくださった」と言った。 (創世記30:22~23 )

説教者 山本裕司 牧師

 伯父ラバンの策略によってヤコブは心ならずもラバンの二人の娘を妻としてしまいました。姉レアの方は子どもを次々に産みました。レアは三男の名付けの時こう言いました。「これからはきっと、夫はわたしに結び付いてくれるだろう。夫のために三人も男の子を産んだのだから」(創世記29:34)。そして六男の時も「今度こそ、夫はわたしを尊敬してくれるでしょう。夫のために六人も男の子を産んだのだから」(30:20)と期待しました。しかしその願いは叶うことはありませんでした。トーマス・マンに言わせれば、ヤコブは「近眼でいつも潤んでいる夜のように黒い瞳」を持つ妹ラケルしか愛することは出来なかったからです。一方、ラケルには何故か子どもは出来ません。だから彼女は「姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、『わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます』」(30:1)とまで言ったのでした。ヤコブはこの訴えに対して「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ」(30:2)と、生涯でただ一度であった思う、ラケルを厳しく叱りました。彼は何年も何年も羊の番をしながら、昼はメソポタミアの大草原に座り彼方の雲の流れを眺め、夜は降るような満天の星を仰ぎ、荒れ野で梯子を伝わって降りて来て下さった唯一の神・創造主についての瞑想にふけってきたのです。この伯父の奴隷のような日々の中にあって、むしろ彼の信仰は飛躍的に成長していきました。

 思い返すと最初の人間アダムとエバは禁断の木の実を食べました。その原罪のもとにある人間はやがてシンアルの地に「バベルの塔」を建てました。これらは人間の自己神格化を表す神話です。人間はこうやって繰り返し「神に代わる」ことを目指してきたのです。しかしヤコブは大草原での思索の末、神だけが私たちの生死の支配者であることを洞察した。「人間が神に代われると言うのか。」それは信仰告白そのものです。しかしこの信仰をラケルは受け入れることは出来ません。ラケルは尊敬してやまないヤコブに感化されて、唯一の神への信仰を持ち始めていました。しかし姉を「ねたんだ」(30:1)とあるように、理屈を超えた感情の虜の彼女は、とうてい夫の信仰の達観正論を受け入れることは出来ません。「男のあなたに私の気持ちは分からない、あなたには結局よそ事なのよ」そう思ったのではないでしょうか。これは信仰の筋道で正論を忠告された時、私たちにも思い当たる心の反発なのではないでしょうか。ラケルはその正しさを跳ね返すように夫に迫りました。「わたしの召し使いのビルハがいます。彼女のところに入ってください。彼女が子供を産み、わたしがその子を膝の上に迎えれば、彼女によってわたしも子供を持つことができます」(30:3)と。当時、召し使いが代理母となって産んだ子を正妻が膝の上で受け止めれば、それは法的に夫妻の子と認められたからです。

 ラケルはビルハが子を産んだ時、「神は正しくお裁きになり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」(30:6)と言いました。

 しかしこの物語を記す創世記記者は、このラケルの言葉を額面通り受け入れてはいないような気がします。何故ならこれはあくまでラケル自身の言葉として記しているからです。「神は願いを聞き入れられた」と言っても、これはラケル、人間の解釈だと記者は注意深く書いているのです。この子は神の御業であると言うラケルの判断に、聖書の方は、そこに留保というか、疑問符を付与しているのです。つまりラケルよと、代理母によって子を得たあなたには、命のことでも、どこか「神に代われる」との高慢があったのではないですか、それで本当にいいのですか、との神の問いが感じられるのです。

 私たちは子どもがいなくても夫妻は完全であるという、結婚観を持っています。結婚の目的は、一人の人と一人の人がこの上なく「共に生きる」ことにあるからです。確かに主なる神は祖父アブラハムに満天の星を見せて、あなたの子孫はあのようになると約束された(22:17)。しかしその真意は、アブラハムの信仰を受け継いだ子孫を数え切れないようにする、その信仰の話であったのです。全人類がアダムとエバの原罪の血を受け継ぎ、人は神に代われると高ぶる中で、アブラハムだけはバベルの塔の建つウルを去り、砂漠の主ヤハウエを求めて旅立ちました。この唯一の神を信じることによって与えられる祝福を、一人でも多くの人に広めていく、その使命のために彼は選ばれたのです。そのために神は先ず、アブラハムの血族に祝福を継承させ、その血の流れの中で神の民イスラエルを生み出そうとされました。そしてその信仰を偶像崇拝に陥っている全人類の中に保持する、その器としようとされた、そのような救済計画をたてられた。そうやって蛇の誘惑によって蝮の子に転落した人類を、我が胸の内の神の子へと取り戻そうとされているのです。それがこの創世記において、アブラハム、イサク、ヤコブにそれぞれ二度ずつ繰り返される、子孫繁栄の約束の意味です。つまり主の目的とは、一つの血族を繁栄させることではありません。自分たちは神に代われるという高慢の故に、滅亡に瀕している人類、その未来を生み出すための「信仰の器として」選ばれたのが、ヤコブの「家」なのです。

 しかし近視のラケルにはその数千年の救済史を見据えている遠視の如き神の宣教計画、それをとうてい見ることは出来ません。その神の壮大な計画を知らないまま、ただ子孫繁栄が要求される時、そこに起こるのは、やれ家の血筋を絶やすなとか、民族主義による国力増進ということになってしまう。その出産圧力に女性はさらされ続けている。ラケルもその外圧を受けていたでしょうが、むろん女性の心はそれだけではありません。彼女は本当に自然な心、愛するヤコブのために可愛い赤ちゃんを産みたい、母となりたいという愛の衝動にさいなまれていたことも確かです。その点では不妊治療によって子を得ようとする夫妻の気持ちに私は深く共感します。そして今の医学の力によって新しい命が与えられるようになった、それは希望の光そのものです。しかし光が強ければ強いほど影もまた濃くなるのです。

 物語はさらに続きますが、レアは四人の子をもうけた後、子を産まなくなりました。そんな時、長男ルベンは野原でこの上なく貴重な「恋なすび」を見付けて母レアのところに持って来たのです(30:14)。恋なすびには受胎力増進の効能がありました。しかしラケルがその発見を目ざとく見付けて姉と交渉します。殆ど毎晩寝室に来るヤコブを、その日の晩は姉さんの所に行くように言ってあげる、その代わりに「恋なすび」を頂戴と取り引きをした。夫から疎んじられている姉レアの喜びは深く直ぐ応じました。恋なすびとは今で言えば「高度不妊治療」を連想させるのではないでしょうか。ラケルの前に光明が表れます。しかしその晩、子を宿したのは神の皮肉でしょうか、レアの方であったのです。一方ラケルに恋なすびの効果はありませんでした。一時の光を見ただけにラケルの失望の闇は深かった。最初から光などなかった方が未だ良かったのではないか、そう思うほどに。ラケルが可愛そうでなりません。

 このような女性の悩みに応えようとする「コウノトリこころの相談室」を主宰する池田麻里奈さんの経験が女性雑誌(「VERY」2018年10月号)に掲載されています。28歳で結婚した彼女は2年を経ても妊娠しなかったので不妊専門クリニックを訪れました。医師から人工授精を提案され2回目で妊娠した時は嬉しさでいっぱいでした。しかし自然流産したのです。6回の人工授精を経てすがりつくように体外受精をしたのは34歳の時でした。「早く子どもを産んで、友人たちのようにママになりたい」という一心で、彼女は会社も辞めました。でも再び流産した。夫は仕事が充実して活き活きとしていて気持ちも離れてしまいそうでした。不妊治療は二人の問題なのに私はいつも孤独でした。周囲の心ない言葉に苦しんだ末、私は「結婚したら子どもを産んで当たり前」、そういう価値観の虜なのは自分自身であったことに気付き、目の前が少しずつ開けていきました。ところがその頃、人工授精で3度目の妊娠をしたのです。胎盤を安定させるための注射を日に2回もお腹に打つのですが、赤ちゃんのためなら平気でした。お腹の赤ちゃんは順調に成長して7ヶ月になりました。そう喜んだ矢先に赤ちゃんはお腹の中で死んでしまったのです。それから数日は時間が切断されたようでした。陣痛を起こして亡くなった我が子を産まなくてはならない悲しさ、切なさ、再び襲う自責の念…。産まれた子はとても可愛いきれいな女の子でした。夫があんなに泣く姿を初めて見ました。それまでは不妊治療がうまくいかない時、いつも慰めくれた夫ですが、あの日は言葉もなくし二人で一緒に涙を流し続けました。私にはそれが初めて夫婦が同じ温度で悲しみに向き合い、寄り添っているように感じられ、何よりの慰めでした。

 やがてこの夫妻には念願の子どもが与えられます。それは特別養子縁組で息子を迎えたからです。「血縁のない子どもを実子同様に愛せるのか?」と問われますが、でも息子は紛れもなく私たちの子ども。生後5日のこの子と出会った瞬間、私の中のすべての細胞が「愛おしい!」と感じたのです。「この子を守らなければ」と親本能のスイッチが入った。それから今日まで、血が繋がっているとかいないとか意識する時間は少しもありませんでした。夫も直ぐパパそのものになりました。長い寄り道の末に「子どもを育てたい」という夢がやっと叶いました。実母さんの決断、7ヶ月で死産した娘、そして協力してくれた全ての人たちの想いが一つになって、私たちにこの命が託されたのです。今、改めて思うのは「子どもって素晴らしい!可愛い!生きるって尊い!」そう叫ぶように彼女は書くのです。

 やがてラケルは赤ちゃんを産みました。マンはこう書きます。「この嬰児の周りにあるのは、他のどの子どもたちにも感じられることはなかった愛くるしさがあり、神の愛が光り輝いている感じであった。ヤコブはその手を男の児の頭上に当てて万感の思いを込めて『わが息子』と言った。」創世記も言います。「しかし神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれたので、/ラケルは身ごもって男の子を産んだ」(30:22~23a)。ここにはラケルの願いを「神が聞いてくださった」から男の子は産まれたと、召し使いによってでも、恋なすびによってでもない、ラケルの解釈でもない、事実として、この命の創造は神の御業であったと創世記記者ははっきり書いたのです。麻里奈さんは、この心に似た歓喜の中で続けます。「またご縁があれば、二人目を迎えたいね、と夫と話しています。」私はこれを読んでまさにここに現在のラケルがいる、そう思いました。ラケルも赤ちゃんをついに抱き締めた時こう続けたのですから。「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださいますように(ヨセフ)」と願っていたので、その子をヨセフと名付けた」(30:24)。

 最後に改めて問われなければならないのは、「女性は結婚して子どもを産むのが幸せ」なのかということです。荒井英子先生は「ジェンダーの視点」からこのラケルとレアの物語を講解したその終わりに、イエス・キリストのことを語られます。イエスがもたらした福音とは、血族の多さを求めることではありません。イエス自身子どもをもうけませんでした。イエスは女性を「子宮と乳房」として見ていません、そう言ってこう引用されるのです。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」 /しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(ルカ福音書11:27~28)。私たち人間の幸い、つまり祝福とは、自らが神に代わることではありません。願えば命すら生み出すことが出来るという現在の「恋なすび」を発見することでもありません。「結婚して子どもを産むのが幸せ」ではなく、「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」血族の神の民イスラエルは、この主イエスの言葉によって終わりを告げます。もはや血の流れに依存しない新しいイスラエル・教会へと、その選びは更新されました。私たち教会員も殆ど互いに血は繋がっていません。しかし私たちは、神の言葉を聞き守る、その祝福の中を生きる家族とされています。麻里奈さんも血に拘ることを捨てました。そして自らの苦しい経験をもとに、命のことで悩む夫妻に良き言葉、福音を伝えるための、不妊カウンセラーとして活躍されています。私たちもまた祝福の源として、アブラハム以来の真の幸いを、その福音を一人でも多くの人に宣べ伝える伝道の業をする、そのために、教会の民として、ここに私たちも産み出されたのです。何と光栄なことでしょう。

祈りましょう。 主なる神様、教会もまた新しい命を産み出すために孤軍奮闘の様相を呈していますが、しかし受洗者も私たちの工夫や努力によるのではなく、ただあなたが私たちの祈りを聞いて下さる時与えられる、そのことを信じて御言葉を聞き守る、祝福の道を旅する私たち西片町教会とならせて下さい。



・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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