2021年7月4日 主日朝礼拝説教「祝福はたった一つか」

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創世記27:34~46 ヘブライ人への手紙11:20

「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん。」エサウは声をあげて泣いた。(創世記27:38)

説教者 山本裕司 牧師

 目がかすんでしまった父イサクは自らの死期が近いことを感じて、アブラハム以来の祝福を、長男エサウに継承しようとしました。しかし弟ヤコブは、彼を偏愛する母リベカの入れ知恵によって、毛深い兄の仮装をして、肉料理を携え、父を騙し祝福を奪い取りました。その直後、ようやく獲物を調理したエサウが父のもとに来た時、全ては終わっていたのです。その時、エサウは叫びました。創世記27:36b「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」手遅れだと聞いて、エサウは泣きながら問いました。27:38「祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん。」この「祝福はたった一つですか」、このエサウの問いを今朝の説教題としました。

 このアブラハム以来の神の祝福とはどのようなものかを、ここで改めて考えたいと思います。私たちはここまで、祝福を自分のものにしようと夢中になった家族の姿を学んできました。確かに皆、祝福には値打ちがあるということを知っています。しかしそれが本当にはどのような意味で値高いものであるのか、どのような力があるのか、実は誰にも分かっていないのではないでしょうか。確かにイサクは、27:28「どうか、神が/天の露と地の産み出す豊かなもの/穀物とぶどう酒を/お前に与えてくださるように」(旧43頁)。そう兄に仮装しヤコブを祝福しました。また、27:37a「既にわたしは、彼をお前の主人とし、親族をすべて彼の僕とし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった。」とあり、祝福は人を支配者、富ませる、そう思われています。だからこそ、長子の特権を既にヤコブに与えてしまったエサウは、どうしても祝福だけは手に入れたいと願ったに違いありません。祝福さえ得れば、その分を取り戻せると思っていたのです。ヤコブもリベカも祝福に対する理解は御利益的で大同小異だったのではなないでしょうか。次男ヤコブは長子の特権も祝福もダブルで獲得したのです。これで栄達は手に入れたも同然と思った。しかしそうはいきませんでした。27:41「エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」この兄の激しい殺意を避けて、ヤコブは祝福どころから呪われたようになって、故郷も財産も親族への支配権も、穀物もぶどう酒も捨て、無一文の逃亡者となっただけなのです。

 リベカは家長となった最愛のヤコブの傍らで満ち足りた余生を過ごす、そのような母の期待も全て水疱に帰しました。それ以後、彼女の側にいる息子は毛むくじゃらのエサウだけとなりました。しかも、27:46にあるように、リベカのエサウへの嫌悪感というのは、異邦人ヘト人の娘たちをめとったことにもありました。先週も言いましたように、メソポタミアの大都会ハランから、唯一の主への信仰のために、遙々イサクに嫁いだリベカにとって、このヘトの嫁たちの粗野と偶像礼拝は耐え難いものでした。だからリベカはカナンから逃亡させたヤコブが、せめても自分に似たメソポタミアの親族から嫁を得て早く帰って来ることに深い期待を寄せたのです(28:2)。しかし二十年後、ヤコブがその母の願い通り、母の親族の妻たちと共にカナンに帰って来た時、母リベカは既にイサクと共にマクペラの墓の中でした。彼らが考えていた祝福の果実は、それを得たと思った瞬間、どこかへみな逃げていってしまったのです。

 つまりここで明らかになるのは、神の祝福とは、受け取った人の自由になるようなものではないということです。あるいは、良いも悪いも、予想もしていないような働きを始めるのです。松本敏之牧師は、ここでサムエル記上4章の物語に出て来る「神の箱」と「祝福」は似ていると指摘しています。神の箱とは十戒の石版が収められている祭具です。これをイスラエルの至上の宝である、それを知ったペリシテ軍は、それが欲しくなりヤコブのように奪い取ります。ところが、彼らが神の箱を自分たちのダゴン神殿に運び込むと、直ぐこの神像が倒れたり、頭と両手が切断されてしまったりと災難続きです。ペリシテ人は恐れて、結局賠償金を払ってまで、神の箱をイスラエルに返す他なかったのです。神の箱は人間の予想したような御利益を与えるものではなかったのです。祝福も似ているのです。

 そのような祝福の性質を覚えながら、ここで改めて、創世記27:38「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。」このエサウの問いに対する、答えを模索したいと思います。次週読む、28:14bにこういう逃亡者ヤコブへの神の言葉があります。「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」これは、アブラハムへの神の祝福の言葉と同じです(12:3b)。そこで分かるのは、確かに祝福を受けるのは、アブラハムであり、ヤコブです。確かにたった一つの祝福が、ただ一人に受け継がれていきます。しかしこの族長が、祝福の器とされるのは、それによって、地上の全ての氏族が祝福を受けるためであると言われているのです。そうであれば、祝福は一つどころか無限にあるということです。しかしその祝福が全世界の人々に広がるためにこそ、たった一人が選ばれて「祝福の源」とされると言われるのです。やがてヤコブは波瀾万丈の人生の末、その死の直前、エジプトで計十二人の息子と孫を祝福します。ここからはもう一人ではありません。その息子と孫の名一人一人が、やがて、イスラエル十二部族の名となり、全体でイスラエルという神の民の国を作ります。つまりアブラハムの信仰を受け継ぎ、神の祝福を全ての民に証しする、選民イスラエルとなるのです。そうやって祝福は広がっていくのです。イスラエルの民だけでない、やがてイエス・キリストが現れ、その祝福の志を受け継いでパウロが登場する、彼は異邦人の使徒と呼ばれるのです。もはや祝福はイスラエルの民の枠を超えて、全世界に、つまりリベカがあれ程嫌った異邦人にまで広がっていくのです。

 しかし、繰り返します。そのために、先ずただ一人が祝福の器として選ばれなければならないのです。祝福を得るとは、神の祝福を「独り占めする」ためではなく、祝福を「運ぶ」ために選ばれるのだと思います。私たちがキリスト者になったのも、イサクのように自分が26:12b「富み栄える」ために選ばれたのではないのです。祝福の源となり、祝福を運ぶために派遣されるためです。ですから、礼拝の終わりに「祝祷」があります。そこで私たちは、神の祝福を受けます。しかし「祝祷」とは同時に「派遣」を意味します。祝福は派遣と一つなのです。そのために祝福を得るとは、あの契約の箱を奪取したペリシテ人がこんなものはご免だと放棄したくなるような、苦痛を伴うことも起こるのではないでしょうか。

 作家遠藤周作さんは、1996年9月に73歳で死去されました。今年の9月で没後25年を迎えるそうです。それで思い出すのは、彼の「『深い河』創作日記」の言葉です。「何という苦しい作業だろう。小説を完成させることは、広大な、余りにも広大な石だらけの土地を堀り、耕し、耕作地にする努力。主よ、私は疲れました。もう七十歳に近いのです。七十歳の身にはこんな小説は余りにも辛い労働です。しかし完成させねばならぬ。マザー・テレサが私に書いてくれた。「God bless you through your writing」(神はあなたの執筆の故にあなたを祝福します。)

 遠藤さんの作品を通して、私たちはどれ程多くの神の祝福を感じることが出来たでしょうか。あの晩年の作品『深い河』は、彼の神に関する代表的作品がそこに改めて凝縮されている、彼の作品群の集大成、あるいは「エピローグ」(終章)だと思いました。それを読んだ時も神の祝福を感じました。その点で、遠藤もまたアブラハム、イサク、ヤコブ同様「祝福の源」としての使命を神から与えられた作家でした。彼だからこそ神はその器として選んだのは間違いありません。何故ならあのような作品を書ける人は二人といないからです。まさにただ一人の祝福の器なのです。しかしそれは直ちに彼を幸福にはしませんでした。それは他者のための祝福でした。「『深い河』創作ノート」に表れる彼の呻きは尋常のものではありません。「小説的エネルギーがない。これでは飽きられる。」「砂漠を歩く如く、小説を歩く。目的地まであとどのくらいか、ほとんどわからない。」「暗中模索…」「言葉がきたない『沈黙』の時のリズムがない。」「『沈黙』の踏絵を踏む場面のようにいかぬものか。」「荒削りのまま初稿を終えたが老齢の身で純文学の長編は正直へとへととなった。…『沈黙』のように酔わせない。『侍』のように重厚になっていない。」そう書けない、書けないと嘆くのです。

 一つの物語を生み出すというのは、これはいくら神から特別の賜物が与えられていようとも、人間業を超えた、無から有を呼び起こすような、骨身を削る業だと思います。私は小説を書いたことはありませんが、それでもこのように皆様を前にして、毎週説教を語る、その苦労を少しは知っているだけに、遠藤さんのこの創作の苦痛の描写は身につまされます。その「創作ノート」に表れる心とは、とうてい祝福を受けた人とは思えない、むしろ「書くこと」(writing
)の「呪い」と呼ぶべき作家の激しい呻きです。しかしそこからしか、読者へ神の祝福、神の愛と光を伝えることは出来ないのです。マザー・テレサは、あなたは「書くこと」を通して祝福を受けると約束した。彼はそれを支えに死に至るまで書き続けたのです。

 使徒パウロも同じです。未だサウロと名乗っていた彼を異邦人の使徒として選んだ時、神は言われました。使徒言行録9:15~16(新230頁)「すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。/わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」

 アブラハムの祝福はやがて主イエス・キリストに引き継がれます。主イエスこそ、ただ一人の祝福の器です。誰も変わることは出来ません。祝福とは何かをこの上なく理解し、またその祝福の内を御自身で生き抜かれたのは、古今東西の全人類の中で主イエスのみです。山上の説教でお語りなられた祝福の言葉とはこうでした。マタイ5:3 「心の貧しい人々は、幸いである」、5:4「悲しむ人々は、幸いである」、それは私たち人間が全く知らなかった祝福(幸い)の世界だったのです。主イエスご自身は、祝福されるどころか、十字架につけられるという最も呪われた人生を送られたのです。しかしそのことを通して、全ての人に祝福が与えられたのです。
 最後、父イサクは、エサウが余りにも憐れなので、エサウを何とか祝福しようとしました。しかし老いたイサクも遠藤に似て力を使い果たして、その口から出て来る言葉は、もはやヤコブに授けたものとは似て非なるもの、祝福とは呼べないような力無きものとなりました。しかし父は、最後の力を振り絞ってこれを長子に授けることが出来たのです。創世記27:40b「いつの日にかお前は反抗を企て/自分の首から軛を振り落とす」と。やがて、エサウとその子孫(エドム)にも神の祝福が及ぶことがここに暗示されているのではないでしょうか。異邦人に向かっても、神の祝福は海のように満ちてくると。その壮大な救済の第一歩を、ヤコブもここから困難な旅に踏み出そうとしているのです。私たちもこの礼拝の終わりに祝福を受けるのであれば、それは同時に派遣であって、その祝福を分け与えるための旅に出ていくことが求められているのです。

祈りましょう。主なる神様、御子の命と引き換えに与えられた、祝福をどうかこの上なき宝として重んじて生きる私たちとならせて下さい。また同時に召されて祝福の器とされた私たちが、自らの苦しみを通して、祝福を隣人のもとに持ち運ぶ使命に生きることが出来ますように。そうやって、この地球を祝福が覆い尽くす、終わりの日を待ち望む者とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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