2021年7月25日 主日朝礼拝説教「人が神に代われるか」

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創世記29:31~30:2

ヤコブは激しく怒って、言った。「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」(創世記30:2)

説教者 山本裕司 牧師

 父と兄を欺し祝福を奪い取った弟ヤコブは、兄の殺意から逃れて母リベカの故郷であるハランへと旅立ちました。その孤独の旅の途上、彼は初めて荒れ野の主と出会うのです。むろんヤコブは信仰の家に生まれたのですから、父から神が祖父アブラハム、父イサクを祝福して下さったという、その家族の歴史を何度も聞いて育ったことでしょう。しかしヤコブはベエル・シェバの暖衣飽食の中で、神のことをいわば本気にしてこなかったのです。しかし、天涯孤独の砂漠の夜、神が傍らに梯子を伝わり降りて来て下さり「私はあなたを決して見捨てない」(28:15)と約束して下さった時、彼は生まれて初めてアブラハムの神、イサクの神と出会います。その神がいまやヤコブの神にもなって下さったことを知りました。その時初めて、ヤコブは自分が受け継いだ祝福の意味を分かり始めるのです。神は疎んじられる者、悲しむ者と共にいて、祝福して下さる神であるという真実をです。

 その祝福に守られてヤコブはハランに着きました。しかしヤコブもその性格を遺伝的に受け継いだのか、今度は逆に伯父ラバンに欺される経験をしたのです。ラバンには二人の娘がいましたが、ヤコブは妹ラケルの方を愛しました。結婚のための7年間の服務の末、許された結婚式の夜、ヤコブはラバンの策略に嵌まります。姉レアとも結婚させられた上、もう7年間、ラバンの家で労働を強いられることになりました。策略に加担したレアは、結婚さえしてしまえば、自分のこともヤコブは愛してくれると思ったのです。しかしヤコブはラケルしか愛することが出来ません。創世記29:31「レアが疎んじられている」とあります。ヤコブは愛において一途な人です。だからこそ、彼は他の神々を疎んじ、唯一の神のみを愛するという、私たち信仰者の規範となりました。しかし全てのことには光と影があります。その一途さが人間に及ぶ時、それは時に「偏愛」となってしまうのです。確かに唯一の神を愛し、唯一の人を愛する、この聖書で重んじられる「愛の排他性」が、後に「一夫一婦制」という私たちの結婚の秩序となりました。しかし一夫多妻が許されていた古代社会においては、妻を複数もったのであれば、夫は彼女たちを公平に扱わなければならないはずです。しかしヤコブにはそれが出来ない。やがて、ヤコブは自らの12人の息子の内、ただ一人、ラケルの子しか愛さない父親になるのです。そこで起こる家庭崩壊の悲劇を私たちは、いずれここで読むことになるでしょう。

 レアは何故妹ばかりなのと何度も涙を流したことでしょう。長男が産まれた時、彼女はルベンと名付けました。それは、29:32「主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない」と言ったからである。」そうあります。彼女は子ども自身が与えられたことを喜ぶよりも、男の子を産んだ手柄によって、ヤコブが自分を愛してくれることを期待したのです。三男の誕生の時の名付けで言えば、29:34「これからはきっと、夫はわたしに結び付いて(ラベ)くれるだろう。夫のために三人も男の子を産んだのだから」と言った。そこで、その子をレビと名付けた。」愛を求めてやまないレアの切ない気持ちがその名付けに込められています。このように、ヤコブが偏愛するラケルの方ではなく、レアの方に子どもが次々に与えられる理由を、創世記はこう記しました。29:31「主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。」この主の御心を感じたレアは、戻れば次男の名前をこう付けています。29:33「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ(シャマ)、またこの子をも授けてくださった」と言って、シメオンと名付けた。」

 神様は夫の愛を得られないレアを、このように子を授けることによって励まして下さると言うのです。それは山田貞夫さんが翻訳された朴炯圭牧師の『路上の信仰』の一節と関係があるのではないでしょうか。これは宇都宮健児弁護士のエッセーの中で引用されたことによって、私にとっても忘れられない言葉となりました。「教会はいつも、疎外された階層に関心を持つだけでなく彼らの味方でなければならないと思うのです。それは、新・旧約聖書を貫いて教会はいつも貧しい者、抑圧された者、疎外された者の側にあり、神ご自身、何か偏愛とでも言えるほどいつも彼らに味方されるのが明らかであるからです。」
 この神の偏愛はレアにも当てはまるのです。主イエスは平地の説教で祝福と呪いをこう告げられました。「今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」(ルカ6:21)、「今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。」(ルカ6:25)と。つまり神の偏愛とは、私たち人間が自らの覚える価値高きものに向かう偏愛には与せず、むしろその偏りを是正しようとする動きをなさるのです。レアはその神の偏愛によってたて続けに四人の男の子をもうけます。一方、創世記30:1にありますが、子どもが出来ないラケルの方はまさに、これまでの妻としての優越の座から引き降ろされる経験をします。夫に愛されないレアの妊娠、夫に愛されているラケルの不妊、これをある注解者は神の平等性と呼んだのです。

 しかし現在、この古代社会の価値観をもって、この平等性を語るために、妊娠、不妊の喩えを今ここで使うことは決して許されないことでしょう。ですから別の喩えで言うなら、例えば、金持ちが益々金持ちになるという、そういう貧富格差が今増大しています。そのような現代社会に対して、神様は歯止めをかけようとしておられるというような意味でこの平等性を理解することが出来ると思います。そのために主は貧しい者を偏愛されるのです。そうやって凸凹の世界を水平にする働きをする主の御心に従うことが、教会に求められている、そう朴炯圭牧師は教えて下さったのです。私たちはここで、御子イエスの受胎に際して、母マリアが歌った「マニフィカト」を思い出すのではないでしょうか。

  ルカ福音書1:51~53「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、/権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、/飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。」マリアは祝福の御子を宿したことによって、水平の世界の到来の幻を見ているのです。

 ヤコブに愛されているラケルは子どもが出来ません。この形勢逆転によってラケルの方が30:1「姉を妬むようになり」ました。彼女は夫に言いました。「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます。」ラケルの悲しみの深さが表れる激しい言葉です。しかしこの時ばかりはヤコブも、最初で最後だったと思いますが、最愛の妻に対して、30:2「激しく怒って」言いました。「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」私たちはヤコブの信仰的成長に目を見張るのではないでしょうか。これこそ、ベエル・シェバからハランまで、長い砂漠を超える旅によって学んだ信仰だと思います。人は神になれない、という信仰です。この信仰の故に、祖父アブラハムも、人間の自己神格化を表すバベルの塔の建つ、大都市メソポタミアのウルを去って荒れ野の旅人となったのです。ヤコブはそのアブラハムの信仰を受け継ぐ者に今変えられようとしているのです。
 
 人間の歴史において、いつもと言ってよいでしょう。男の子を多く産むということが、家や社会における女性の地位、さらに値打ちをさえ与えることになってきました。私たちの国も戦争中「産めよ殖やせよ国のため」と出産を強制したのです。現在も少子化によって、国力が落ちることを心配する政治家によって、唖然とするような女性蔑視発言が繰り返し出されています。そうやって国や家が、女性に出産圧力をかけることはあってはなりません。産む産まないは個人の自由ですが、しかし結婚した夫妻が、可愛い赤ちゃんが欲しいという気持ち持つことも、これはとても自然なことです。その点では不妊治療の発達は、一時代前であれば赤ちゃんが出来なかった夫妻にとってこの上ない「福音」そのものです。しかしそこにも光と影があります。ある牧師は、このヤコブの妻への叱責、30:2「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」これを私たち現代人こそが深く受け止めなければならないと説教しています。人間が努力すれば赤ちゃんが出来るという、その可能性は、その厳しい治療などによって女性をひどく苦しめ、その影の部分が色濃く表れてくるのです。ラケルはまるで現代人のように、最後まで諦めることを知らなかったために、結局、二人目の赤ちゃんを得ることと引き換えに、自分の命を投げ捨ててしまう、そこまでいくのです。創世記はそうではなく、創造主なる主が、文字通り私たちの生命の主人である、その信仰を忘れることは出来ません。どれ程、科学が進歩しても、生命のことに関して人間の出来ることは少ない、その被造物としての謙遜を私たち信仰者は忘れてはならないのです。

 しかし神様はここで、ヤコブのように、ただラケルに対して激しく怒ることはなさいません。レアが疎んじられている時、顧みられたように、見捨てられたかのような気持ちでいるラケルをも、30:22「神は…御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれた」、そうあります。朴炯圭牧師は続けて言われました。「イエスの言葉や譬えを聖書に見れば、若干偏重気味なくらい、貧しい人や収税人、娼婦などいわゆる見捨てられた階層を愛する神、いささか偏愛する神として描写されています。」ラケルもまたその苦しみの中で、神の偏愛を受ける資格を受けたのでしょう。

 つまり主なる神は、地の底で混乱する私たちの愚かさを天から冷笑したり怒ったりしているだけではありません。どうしても優越感と劣等感の凸凹の狭間で罪を犯す私たちの所に、天の高みから梯子を伝わり降りて来て下さる、そうやって私たちを「平ら」にしようとして下さるのです。最も低い所を目指す神の偏愛の故にであります。欺く者ヤコブもそれを荒れ野で経験しました。この姉妹もこの荒れ野のような家の中で、徐々にその神の愛を信じる者に変えられていくのです。その偏愛とさえ呼ばれる、神の愛、それこそが、ヤコブの家が担い、人々に分け与えるべき使命を帯びている「祝福」そのものなのであります。この祝福によって、預言者イザヤが幻の内に聞いた「平らになれ」との御言葉が、私たちの小さな心の内でも、この広い現実世界においても実現していく、そのことが教会の働きとして、求められているのです。

 イザヤ40:3~4「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。/谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」
 
祈りましょう。 主なる神様、私たちは人より自分が勝ることを求め競争に生きること度々でありますが、あなたはそのような罪人である私たちを憐れんで下さることを知り、心から感謝します。あなたが共にいて下さることによって生まれる、水平平等の世界、そこに生きる祝福を、一人でも多くの隣人に宣べ伝え、皆で平安を取り戻すことが出来ますように導いて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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