2021年7月18日 主日朝礼拝説教「主は愛する者を鍛え」

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創世記29:1~30 ヘブライ人への手紙12:5~6

「ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。/ヤコブはやがて、ラケルに、自分が彼女の父の甥に当たり、リベカの息子であることを打ち明けた。ラケルは走って行って、父に知らせた。」(創世記29:11~12)

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。/なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」(ヘブライ人への手紙12:5~6)

説教者 山本裕司 牧師

 ヤコブは弟であるにもかかわらず、父イサクの盲目の闇に付け入り、自分を長子エサウと欺きアブラハム以来の祝福を奪い取りました。その「詐欺」はヤコブを溺愛する母リベカの入れ知恵によったのですが、ヤコブは兄エサウの激しい殺意にさらされました。そのため逃亡の旅に出る他はありません。しかしそれは人間の罪さえも用いながら御業を進められる神のご計画でした。聖書を読むと「旅」が人間にどんなに大きな影響を及ぼすかが書いてあります。人は荒れ野の旅において、荒れ野におられる神と出会うからに違いありません。最初の兄弟喧嘩によって弟を殺したカインもまた、地上の放浪者となりました。しかしカインは寄る辺なき彼の命を、それでも守ると約束して下さる恩寵の神と、そこで出会うのです。誰よりもヤコブの祖父アブラハムこそ壮大な旅の中で、唯一の神への信仰を深めた歴史上最初の人間です。その「旅人の信仰」は、モリヤの山への道行きや、ペリシテ人から井戸を塞がれる度に、新しい井戸を求めてさ迷った父イサクに受け継がれました。この祖父や父の命懸けの旅を知らないまま、ベエル・シェバでの定住生活という豊かさの中で育った三代目こそ、エサウとヤコブなのです。兄エサウはカナン原住民の中から妻を娶りました。それは多神教的偶像崇拝への道であり、唯一神への信仰、その祝福を受け継ぐ者でないことを、自らの結婚で表してしまうのです。そして弟ヤコブも「祝福」を単に富み栄えるという御利益的なものに矮小化して捉えていました。祖父や父の旅人の信仰が「暖衣飽食」の中で冷却してしまったのです。まさに「三代目は身上を潰す」の諺通りのことがこの信仰の家にも起ころうとしていました。この信仰継承の危機に際して神が与える、新たなる「熱」は旅です。そのやり方で主は、三代目の魂に熱き息(霊)を吹き込もうとされるのです。そうやって、アブラハムの神、イサクの神、で終わらせず、続いてヤコブの神と、世代を超えて呼ばれることを荒れ野の主は求められました。

 ヤコブの旅の目的地は母リベカの故郷メソポタミアのハランです。死海西岸のベエル・シェバからの距離は八百㎞に及びます。祖父アブラハムが辿った同じ過酷な道を、しかし信仰の道を、逆向きに単身、ヤコブは辿らなくてはなりません。信仰の旅を強調する新約、ヘブライ人への手紙にはこう記されてあります。

 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。/なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである」(12:5~6)。

 不信仰者ヤコブは荒れ野でさ迷いました。しかしそこでこそ荒れ野の主は彼に出会って下さり、約束して下さった。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り…決して見捨てない」(28:15)。その瞬間、祖父アブラハムと父イサクの信仰が、生まれて初めてヤコブの魂に命の水のように注ぎ込まれていったのです。
 
 その「旅人の主」に導かれて、彼は東方に辿り着き井戸の傍らに立ちました。旅人が井戸端で、愛する人と出会うという物語が聖書には幾つかあります。既に読んだイサクの嫁選びの話も彼の僕が井戸端でハランの娘リベカと出会うという物語です。また出エジプト記ですが、モーセがやはりミディアンの地へ逃れた時、その井戸の傍らで妻となるツィポラと出会います。その時は特に水汲みに来た娘たちが、男たちの嫌がらせに合っていて、それをモーセが追い払い娘たちを救った、そうありますが、逆に言えば娘たちにとって、村の境界にある井戸の彼方から、エトランゼ(見知らぬ)青年がやって来る、その予感に震える、そういう乙女の憧れが娘たちにはあったと思います。その輝ける瞬間はいつも井戸端で起こる。それは砂漠の井戸が「命そのもの」だからではないでしょうか。愛する人との出会い、それは私たちの命に関わることです。そこで「井戸」と「出会い」と「命」が重なり合う。新約の時代、サマリアのそれこそ「ヤコブの井戸」と名付けられた炎天下の井戸、そこに水汲みにきた心が渇ききっていた女の前に、まさにエトランゼ、この世の人でない主イエスが現れて言われるのです。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(ヨハネ福音書4:14)と。この井戸端での命の水イエスとの出会い、その先取りとして、旧約において井戸端での出会いの物語が多く語られているのです。

 トーマス・マンは『ヨセフとその兄弟』において、創世記29章に記されるヤコブとラケルの物語を百頁に及ぶ大きな物語に膨らませました。未だ太陽が照りつける午後、旅人ヤコブは前日から水を一滴も口にしていませんでした。その時野原に羊が群がっている場所が見え、そこに井戸があることが分かりました。そこに駆け寄り羊飼いに尋ねると、まさにここがハランの草原だと知らされる、しかも彼らはヤコブの母リベカの兄ラバンを知っていると答えるのです。ついに砂漠の渇きが癒やされる目的地に到着したとヤコブは思いますが、井戸の口は未だ大きな石で塞がっています。何故ですかと問うと、それが習わしで、羊がみなここに揃うのを待っていると答える。暫くして一人が指差しました。「ほら来たぞ」と。ヤコブがその方角を向いた時、彼はまさに「牝羊」を意味する名を持つ少女ラケルが、羊たちの中心となって近付いてくるのを見ます。羊飼いたちのマドンナ、12歳の娘ラケルは、その時井戸の周りの男たちを見渡し、一人の見知らぬエトランゼの存在に気付きます。彼女はよく見ようとする時の常で目を細め、おかしそうに言いました。「おや、知らない人ね!」、そう旅やつれし裂けた服をつけ黒く日焼けした若者を見詰めました。ラケルは茶目っ気があって、しかも穏やかな愛らしさをたたえていた。後に明らかになる彼女の賢さと勇気が、その美しさの源泉でした。夜のように黒い瞳が近眼によって清められ甘い潤いをおびている、そのじっと見詰める眼差しほどこの世に美しいものはなかった。「どこからいらしたの。」ヤコブは西を指して「ベエル・シェバ」とかすれた声で答えます。ラケルは驚き、もうヤコブが愛し始めているその唇が「イサク」と呟いたのを聞いた瞬間、未だ水を一滴も飲んでいないのに、ヤコブの心の中に、もう透明な水が川のように流れ込んで来るのが感じられた。何もかも失った孤独な旅が今終わり、彼は自分の父の名を知る親族の娘を見出したのです。ヤコブはラケルに向かってぶるぶる震える両腕を伸ばして「接吻してもいいですか」と頼んだ。「いいわけないでしょう」とラケルは笑って後ろへ退いた。ヤコブは自分の胸を指して、「わたしです。イサクの息子、リベカの息子、あなたの父の妹の子…」と。そう聞いた時、ラケルも自分の人生に何が起こり始めているか直感しました。二人はそれから何度も「ラバン、リベカ」「テラ、ナホルの息子ベトエル、アブラハム、サラ、イサク、私たちの祖先」と共通の親族の名を次々にあげて泣きながらうなずき合った。ラケルはヤコブに頬にふれることを許し、ヤコブはラケルに接吻をした。それを見あげていた三匹の犬たちは興奮して二人の間を飛び跳ね、羊飼いたちは両手を打ちながら、歌うように歓声をあげました。「ル、ル、ル!」と。

 井戸の重石は羊飼いたちが数人がかりで動かすことになっていました。しかしヤコブはモーセのように奮い立ち、あるいはイースターの朝の天使のように、それを一人でころがし落としてしまった。羊の群れが我先にそこに押し寄せ水を飲み、ヤコブも一昼夜振りに飲んだ時、その干からびた肉体に水が染み渡っていく幸福に浸ったその瞬間、何故だろう、水を差すように、どこからか「この水を飲む者はだれもまた渇く」との言葉が聞こえてきたような気がしたのです。それは砂漠を越えるその試練、その渇きだけでは、ヤコブには未だ足りないことを暗示させる言葉でした。ヤコブはこの大河ユーフラテスの畔ハランでこそ、また渇く水に苦しまねばならなくなる。繰り返します。「なぜなら、主は愛する者を鍛える」(ヘブライ人12:6)お方だからでありました。

 ヤコブはその名の通りベエル・シェバでは「足を引っ張り(アーカブ)欺く者」(創世記27:36)でした。しかしハランでは伯父ラバンから欺かれる経験をしなければならないのです。ヤコブがラケルに恋をしていることを知った父ラバンは、神の祝福を受けた有能な親戚を利用し尽くそうとします。労働の報酬に関する交渉の中で、ヤコブは、「ラケルを愛していたので、『下の娘のラケルをくださるなら、わたしは七年間あなたの所で働きます』と言った」(創世記29:18)、そうありますが、ラケルというヤコブ最大の弱みに付け込まれて、いわば「七年間」という長期間を、言わされたというのが本当でしょう。同じハランで母リベカを得る時、その派遣されたイサクの僕は、「らくだや高価な贈り物」(24:10)を持参していたので、それを兄ラバンに与えています。その時もラバンは、何とか妹リベカをぎりぎりまで手放すまいとしますが(24:55)、そこに既にラバンの狡猾さが垣間見えます。しかし結局、宝物がものをいってリベカは直ぐに旅立つことが許されました。しかしヤコブの場合は身一つの無一文でハランに到着したのです。

 ラバンはヤコブが一月ほど滞在した頃に「身内の者だからといって、ただで働くことはない」(29:15)と言いますが、この一見慇懃な言葉に既にヤコブの血にも流れ込んでいる「欺く」心が隠されています。当時、娘はその父の財産の一つでした。だから無一文の青年であれば、その娘と結婚するためには、義父に労働によってその代価を支払うことが求められます。「ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた」(29:20)、そう肯定的に記されています。ヤコブは羊飼いとして働きますが、マンに言わせても、その七年間の生活は決して無駄でなく、瞑想にふける時間に恵まれていたからです。昼は羊が草を食むその大草原を見ながら、夜は羊の番をしながら満天の星の回転を仰ぎながら、ヤコブは思い巡らします。その内容は、ただ二つ、ラケルのことであり、神のことでした。それによって彼のある高貴な「精神」が育まれていったのです。

 そうやってついに七年の服務が終わります。ラケルとの結婚式は夏至の夜と決まりました。ラバンたちが祝宴の酒に酔ったヤコブを案内した母屋は、灯火一つ用意されていない真っ暗闇でした。そこに花嫁のベールを被った姉レアの方が送り込まれます。創世記において、このラバンの策略とリベカの策略は「対」で描かれているように感じられます。母リベカは溺愛する弟ヤコブに祝福を与えるために、目の見えない父イサクの所に、エサウの毛皮をまとわせてヤコブを送り込みました。ヤコブは父を騙すことを恐れましたが、リベカは励ましてその悪事をさせてしまいます。それと余りにも似たことがこのラバンの家で起こっているのです。父イサクと同様に、ヤコブも、この闇夜の母屋でいわば盲目とされ、人違いをさせられ、祝福ならぬ、自らのたった一つの愛を奪われてしまうのです。確かに姉レアもヤコブを慕い求めていたことは確かです。「レアは優しい目をしていた」(29:17)とあります。しかし夜のように黒い瞳をもつラケルしか、ヤコブは愛することは出来ません。何故なら彼は、七年間の瞑想によって育まれたその気高い精神において、唯一の神と唯一の女しか愛せない男となっていたからです。ヤコブの心は神とラケルの虜でした。

 レアもベエル・シェバのヤコブ同様、家族を欺くことを恐れたに違いありませんが、しかしまさにリベカの兄ラバンです、その父に説き伏せられ、レアは真っ暗な一室に入っていきました。朝の光の中でそこに寝ているのはラケルではないことにヤコブは気付きます。驚愕した彼は「どうしてこんなことをなさったのですか」(29:25a)とラバンに抗議をした時、しかしヤコブは使徒パウロと同じことを思ったに違いありません。「神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」(ガラテヤ6:7b)。そのことを痛い程知った。自分が全く同じことを、ベエル・シェバでしたのだと。ひるんだヤコブに、すかさずラバンは言う。「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ」(創世記29:26)。これはヤコブに対する余りに鋭い皮肉です。ヤコブは弟でありながら、長子の特権と祝福を先んじてしまったのですから。ラバンは、ヤコブよと、お前は、あちらでは出来たかもしれないが、しかし「我々の所では」それは許されないのだ。だからお前は姉と先に結婚して、妹は次にしなければならないのだ。ラケルが欲しいなら、もう七年間、働いてもらわねばならない、そうラバンは平然と言った(29:27)。この企みの背後には、ヤコブがそのように、欺される者の痛みを知り、真に悔い改め、自らが罪人であることを認めることを求める、神の鍛錬がある。

 欺すこと、欺されること、それがどれ程人の心を干からびさせるか、それを彼は知らねばならないのです。しかしそれはその渇ける罪人の所に、梯子をつたわり降りて来て下さるお方をヤコブが知るための神の企みでした。そして決して渇かない水を罪人に与えようとされる、荒れ野の主ヤハウエの憐れみをこそ、ヤコブがもっと知るためであったのです。その神の一方的な恩寵に打たれる。それを知ることこそが祝福であったのです。こうやってアブラハムの祝福を受け継ぐ者に、ヤコブを鍛え上げるための神の愛の鞭が振るわれているのです。つまり唯一の神を愛することの祝福を、この唯一の女しか愛せない男に担わせるために、神はその教育の業をハランで続けておられるのです。そうやって、信仰が、祝福が、永遠に人類の中で受け継がれていくようにしておられる。何と神の知恵は深いことでしょう。

祈りましょう。 主なる神様、あなたは私たちをも時に、荒れ野の旅へと送り出され、祝福を持ち運ぶ者にふさわしい人間に変えようとして下さっておられる、そのことを覚え、このあなたの鍛錬を畏れつつ感謝を以て受け入れる者として下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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