2021年7月11日 主日朝礼拝説教「天よりとどくかけはし」
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創世記28:10~22 フィリピの信徒への手紙2:6~8
「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」 (創世記28:12)
説教者 山本裕司 牧師
族長イサクの双子の息子、その兄弟エサウとヤコブは小さな頃から張り合って育ちました。しかし弟ヤコブの不利は最初から明らかでした。家督権は長男に相続されるのがしきたりだったからです。しかしヤコブはそれに甘んじない野心家でした。彼は兄の食欲という弱みにつけ込んで、レンズ豆の煮物と長子の権利を交換することに成功します。しかもヤコブはそれだけでは飽き足りません。未だこの家には祖父アブラハム以来の「祝福」が残っていたのです。その祝福を父イサクから受け継げば、穀物や葡萄酒に富み、多くの国民が自分にひれ伏すと伝承されていました(創世記27:28~29)。つまりこの上なき栄達に上り詰めることが出来る。その「高所」を求めてヤコブは彼を溺愛する母リベカと共謀します。現在の「オレオレ詐欺」を思い出させるようなやり方で、老父イサクも兄エサウも騙し、祝福を奪い取りました。これで立身は約束されたと思いました。しかし人の良い兄エサウも今度ばかりは激怒して、父の喪の日に弟を殺すと誓う。それを知ったヤコブは遠路、母の故郷を目指して砂漠へと逃れるのです。それが今朝の創世記の物語です。
トーマス・マンはその長編『ヨセフとその兄弟』において、今朝の記事を作家の巨大なる想像の翼を広げて描き直しました。私も小さな想像の翼を広げてそれを少し変えて物語ることをお許し下さい。
ヤコブは計算高い男です。逃げるにしても抜かりなく、旅先や移住先で困らないように、駱駝の背にうずたかく食糧や金銀財宝を積んで旅立ちました。その上母リベカの配慮によって二人の奴隷も伴いました。ところがエサウの息子、ヘト人の母を持つ血気盛んな少年エリパスがその気配に気付きます。父を死ぬ程嘆かせた叔父への憤怒の中、失意落胆で無気力となった父エサウを説得して追跡の許しを得ます。
お喋りの奴隷たちとのんびり旅をしていたヤコブが振り向くと、地平線に砂埃が上っている。凄まじい勢いで追ってくるのは、駱駝に跨がるエサウの息子と五人の父腹心の狩人たちです。ヤコブは驚愕して逃げます。しかし荷物が重くて駱駝は思うように走りません。荷物を一つ捨て二つ捨て、さらにこれだけはと思う食糧が意に反して転がり落ちる。砂漠には落ちた荷が点々と列になって散らばっていきました。それでも狩猟用駱駝の速さに叶うわけもなく距離は詰まり、狩人の正確無比の投げ槍によって、奴隷は次々に負傷し競争から脱落します。悪あがきの末、ヤコブは捕らえられます。その時彼は、頭を砂に擦り付け恥も外聞も捨てます。言い訳と謝罪と一三歳の甥へのおべんちゃらを涙ながらにまくし立てる。「未だ駱駝にぶら下がっている財産も、砂漠に落としてきた金銀財宝も、全部お坊ちゃま、あなた様の物、後生ですから命だけはお助け下さい。」中年の叔父が中学一年生くらいの甥の前で見せる、あまりの惨めな姿です。実は演技半分なのですが。しかし父エサウに似てお人好しの少年エリパスは、急に怒りに代わって憐れみの心が溢れ出るのです。甥は「許す!」と宣告し、狩人たちはヤコブの身ぐるみを剥ぎ、その財産と傷ついた奴隷を乗せた駱駝全頭を連れて、ベエル・シェバに戻っていきました。
急に砂漠は静まり返る。今やヤコブただ一人が、広大な砂漠に取り残されている。あの愉快な奴隷もいない。夜の暖と枕も兼ねた愛駱駝もいない。何もない。これまで自分の才覚によって、どこまでも高く昇れると思っていたのです。しかし今や駱駝の背の高さも失われ裸で地面に這いつくばる、その時日が沈みました。
ここからは創世記に書いてあります。彼は石を取って枕として横たわった。自分を生かすと思っていた宝は全て失われた。少年の前で泣いた醜態は「いい大人」としては深い敗北感を残した。自分は昇っているように思っていたが、闇夜の砂漠で、その底の底にまで落ちたと思わざるを得ない。その時夢を見ます。
「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」(28:12)
この「階段」と訳された言葉は、以前の口語訳では「はしご」でした。新共同訳が「階段」と訳したのは、古代メソポタミアに建設されたジグラット(聖塔)がこの夢のモデルではないかと推定されるようになったからです。数年前、ブリューゲルの「バベルの塔」が東京都美術館で展示されましたが、それは創世記11章に記される物語を描いた大作です。それは人間が「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(11:4)と欲する巨大高層建築でした。それは人間の限りない上昇志向を象徴します。その塔の外側を巡る螺旋階段を回って人間が天に至るという意味は、人間の「自己神格化」、神にまで成り上がろうとする高慢の罪を表しています。事実、古代メソポタミア文明のジグラットは、皇帝が自らを天に連なる神として崇めさせるための舞台装置でした。祭儀において王が螺旋階段を上へ上へとどこまでも昇って行くパフォーマンスが挙行されたに違いありません。
ヤコブの見た階段はそれをモデルにしていると言いました。しかしそれでいて、ヤコブの階段は、バベルの塔と話は全く逆です。「御使いたちがそれを上ったり下ったり」(28:12b)している塔を呆然と仰いだ時、地の彼の傍らに「見よ、主が…立って言われた」(28:13)とある。この階段は上を向いているのではありません。「地に向かって」(28:12)と翻訳されたように、天の神がへりくだって地に降るための階段であったのです。
ところが口語訳で言えば、このヤコブの「梯子」を、下から上へ伸びると覚えた信仰者たちは昔から多かったのです。そのため時に梯子を「道徳」と理解して、善行を積み重ねて天に至ることが、ヤコブの梯子を昇ることだという誤解を生みました。美術作品でもその梯子が描かれる時その横木が十五本だったそうです。これは当時の「十五の徳目」を意味し、人が第一の徳、第二の徳と、一段一段昇り、だんだん天の神に近づいて行く様を表します。それは確かにヤコブの野心や、帝国王の権力欲とは一見異なる良きことのための上昇のように見えます。しかしそれもまた人間の原罪である上昇志向には変わりはない、そう洞察した人こそ使徒パウロです。彼にとっての「梯子」とは「律法主義」です。律法遵守の梯子を昇ることによって、人間が自力で天の神の「傍ら」(28:13)にまで至ることが出来る。それがユダヤ人の「義」である、そうファリサイ派サウロは確信していたからです。
ところが主イエスに出会ったパウロは、人は「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(ローマ3:24)との福音を知ります。つまり律法の梯子を一段も昇らなくても、昇れなくても、救われる、地の底の罪人のままで救われる、どうしてそんなことが可能となったのかと問われた時、先ほどもう一箇所朗読しましたが、使徒パウロはフィリピの信徒への手紙で言いました。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、/…人間の姿で現れ、/へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(2:6~8)
今やどん底のヤコブです。その転落を認めざるを得ない「オレオレ詐欺男」の傍らに、神の方がへりくだって降りて来て下さる。その罪人に優しく御声をかけて下さる。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り…決して見捨てない」(創世記28:15)と。その瞬間朝が来るのです。この朝の光にヤコブが照らされるためには、彼は一度持ち物を全部捨てなくてはならなかった。転落しなくてはならなかった。砂漠をさ迷わなければならなかったのです。元々罪の中に転落していたのです。それを自覚させられなければならなかったのです。その自らの罪の貧しさを認めなければならなかったのです。そして自分の知恵と富によって生きるという高慢を、砂漠に点々と捨てて来なければならなかったのであります。
ヤコブは祝福を立身出世の道具と覚えた。しかし祝福とはそのようなものではなかったのです。主イエスは平地の説教で言われた。「貧しい人々は、幸いである、/…今飢えている人々は、幸いである、…今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」(ルカ6:20~21)
「幸い」とは祝福のことです。祝福の本当の意味を知っていたのは、実は全人類の中でイエス・キリストのみだと先週も語りました。これは私たちやヤコブが夢想していた祝福と全く異質なものでした。貧しい人、飢えている人、泣いている人が祝福される。その悲しみの夜を知る時、その闇の地に梯子を伝わり降りて来て下さる、インマヌエルの主を見る。それこそが私たちの人生の目的であり、それ以上の幸い祝福は、実は私たちにはどこにもありはしないのです。
「ヤコブは眠りから覚めて言った。『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。』」(創世記28:16)、もうここには神はいないと思われる陰府の貧しさ、その底の底に、むしろ神がおられることを発見しました。だから「貧しい人々は幸いである。」そう主イエスは祝福の意味を教えて下さったのです。真の祝福とは、石を枕にして寝ていても「天よりとどくかけはし」(「讃美歌21」434、3節)が上から降って来る、そこで生まれる平安を知ることです。その朝ヤコブは枕としていた石を立てました(28:18)。彼が「先端が地に向かって伸びる」垂直の世界を、そこを主なる神が降って来られる、そのことを発見した祈念碑とするために、石を立てるのです。
子どもの頃からの私の関心事「宇宙エレベーター」のことを思い出しました。それはロケットを使わないで宇宙と地上を垂直に繋ぐエレベーターです。それはバベルの塔のように地に土台を据えるものではありません。話は逆で、宇宙を回る静止衛星から「地に向かって」(創世記28:12)ワイヤーを垂らし、そこに昇降機を取り付けます。乗客は、それこそ天使のようにそこを「上ったり下ったり」(28:12b)するのが宇宙エレベーターです。これは地でなく天に支点を持っている機械です。それだけに確かなのではないでしょうか。地上に支点を築くと塔は自重によって嵐や地震の影響を強く受けることでしょう。しかし、不動の天に、その根拠があれば、私たちは揺らぐことはないのです(詩編46:3~4)。
この後皆で、『讃美歌21』434「主よ、みもとに」を心の中で歌います。この讃美歌の3節の歌詞は、以前私たちが用いてきました『54年讃美歌』ではこうでした。「主のつかいは み空に かよう梯(はし)の上より、招きぬれば、いざ登りて、主よ、みもとに近づかん」、私たちがこの梯子を「登る」ことが強調されている歌です。しかし『讃美歌21』においては同じ3節がこう歌われています。「天よりとどく架け橋、我を招く御使い。恵み受けて、恵み受けて、主よ、みもとに近づかん」。ここでは先程来私が強調してきたように、ヤコブの梯子を福音的に再解釈したのでしょう、人が「登る」という言葉は消えています。そして架け橋が、宇宙エレベーターのように天から「とどく」と歌われています。そして「恵み受けて」、「恵み受けて」と繰り返され、私たちが主とお近づきになれるのは、ただ恩寵によってのみと歌われているのです。つまり自分たちが律法という梯子を汗水垂らして登る時、神に至る、というのではありません。つまり罪人が恵みによって救われるという歌詞に代わりました。
確かにそのような改訂はあっても、一方『54年讃美歌』から受け継いだ歌詞も残されています。「主よ、みもとに近づかん。十字架の道 行くとも」(『讃美歌21』434-1節)とあります。私たちが砂漠にいつまでも寝っ転がっていればいいと言うのではなく、やはり「行く」、はっきり言えば「登る」と言って良いと思います。しかしその時、このヤコブの梯子は、十五の道徳でも律法でもなく「十字架」です。その『54年讃美歌』から受け継がれた心を思い出さねばなりません。私たちは罪人であるにもかかわらず、主の贖罪によって、十字架という「ヤコブの梯子」を昇って天に至ることが出来ると歌われるのです。上るにしてもその梯子とは十字架だと歌われており、やはり福音がここに示されています。
主イエスは言われました。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(ヨハネ福音書1:51)。福音書においては、主イエス御自身がヤコブの梯子なのです。そこで私たちが、地から天に昇るということは、もう決してバベルの塔の再建を意味するのではありません。むしろ一方的な恵みの主イエスに抱かれるようにして、私たちは天に至ることが出来るだろう、そう讃美されているのです。ですからこのヤコブの梯子を私たちも昇って天に至る、永遠の命の救いに至る、その「上る」という表現もまた否定する必要はありません。
それは先のエレベーターの例で言えば、これまでは全人類の中で選抜された者の内、さらに厳しい訓練を経た超エリートのみがロケットに乗ってようやく宇宙へ飛び立ちました。ところが宇宙エレベーターが実現すれば、電車同様、子どもも年寄りも宇宙に上がることが出来るようになることでしょう。ロケットは夥しい環境汚染ガスを出しますが、宇宙エレベーターなら宇宙太陽光発電を使用するのでクリーンです。ロケットが人間一人運ぶのに一億円以上です。しかし宇宙エレベーターが大衆化されればその乗車券は新幹線代なみに下がるかもしれません。つまり私たちが大富豪やエリートでなくても、貧しくても罪人でも、主イエスという十字架という、宇宙エレベーターの如き「梯子」を昇れば、私たちは誰もが天に至ることが出来るのです。
「天翔(あまが)けゆく つばさを 与えらるる その時 われら歌わん「主よ、みもとに近づかん」」(『讃美歌21』434-5節)
もはやこの歌詞では、上るための道具は「梯子」でもありません。私たちは一人一人の背に、はしごをも超える、十字架という「翼」が与えられいると言うのです。その十字架の翼を羽ばたかせ、天へと、私たちはイエス・キリストを信じる信仰のみによって、飛翔するであろう、その救いの確かさが高らかに歌い上げられるのです、これは何という祝福、何という喜びでしょう。
祈りましょう。 主なる父なる神様、あなたが天と地を結ぶ梯子を、翼を、御子によって私たちに与えて下さった恵みに心から感謝します。私たちが自らの貧しさ罪を知った、その時こそ見えて来る、天からの地に伸びる架け橋を仰いで、祝福に与る者とならせて下さい。西片町教会という「天の門」より十字架の御子に贖われ抱かれ、天のみもとに近づく私たちとならせて下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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