2021年6月6日 主日朝礼拝説教「アブラハムは満ち足りて」

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創世記25:1~18

「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。/息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。…そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた。」 (創世記28:8~10)

説教者 山本裕司 牧師

 神様が、アブラハムとその子孫に与えると約束された地カナン、つまりパレスチナで先月、再び衝突が起きました。元々イスラエルは聖地エルサレムの支配を強化し、占領した土地に自国民を入植させてきました。この春もイスラエルは、東エルサレムに住むアラブ人(パレスチナ人)を強制的に立ち退かせ、ユダヤ人の住居地にしようとしたのです。東エルサレム周辺は国連決議によってアラブ人のものと定められていますが、今回もそれは無視されました。両者が対立する中で双方の宗教的祭日が重り、アラブ人の抗議活動は激化しました。今回、イスラエル警察が踏み込んだ、アル・アクサー・モスクに隣接する丘こそ、ユダヤ神殿跡地です。今はイスラム教徒が管理する、エルサレムを代表する「岩のドーム」が建っています。こここそ、アブラハムがイサクを奉献しようとした聖地、モリヤの山だと言われています(歴代誌下3:1a)。その「岩のドーム」の中には、まさに、イサクが身を横たえたと言われる「岩盤」が保存されているのです。アラブ人イスラムは、イスラエルがエルサレムを掌握した時、この聖地中の聖地にユダヤ神殿を再建するのではないかと疑心暗鬼になっているとも言われます。そのような長年の疑いと憎悪があって、先月再びパレスチナ人・アラブ人の怒りは沸騰し、イスラム過激派ハマスはガザからの攻撃を決行しました。放たれた数千とも言われるロケット弾は、イスラエルの防空システム「アイアンドーム」によって90%迎撃されました。しかしそれに対する報復としてイスラエルはガザを空爆し、5月21日の停戦となるまでに、一千数百名の負傷者、二百三十名以上が死んだのです。その半数が子どもと女性でした。ガザの病院は、既に15年間に亘る封鎖とコロナ禍によって、ただでさえ医療が逼迫していたのです。そこに夥しい負傷者が運び込まれ、修羅場と化しました。一方、イスラエル側にも十二名の死者が出ました。その中にはやはり何の罪もない子どもたち数名が含まれていたのです。何という約束の地でしょうか。

 このように繰り返されるパレスチナの慟哭の中で、今朝、巡って来たアブラハム物語の終わりを、私たちはどう読むのでしょうか。創世記25:1「アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった。」これを順番通り正妻サラの死とイサクの結婚後とするなら、アブラハムはもう百四十歳以上という高齢で、六人の子をもうけたことになってしまうのです。しかしこの創世記の物語は、一人の作家の作品ではありません。元々、カナンとその周辺に住む古代人が語り伝えてきた先祖の物語が複数あったのです。それら多様な伝承が編集されて現在の創世記となりました。聖書の本流は確かに、アブラハム、イサク、ヤコブと続くイスラエルの伝承です。それに対して、別の伝承に属すると思われる、今朝の25:1~6、12~18は、イサク以外のアブラハムの子孫たちの系図です。こちらは聖書では支流として位置づけられると思います。しかし支流と言っても、大切な意味が込められている伝承です。
 
 そもそもアブラハムに対する神の約束は、その子孫が空の星のように、大地の砂のように地に満ちるというものでした。その神の祝福が現実となりつつある姿を描こうとするのが、今朝の系図、民族表だと思います。アブラハムの子孫はこうして御心の通り、世界中に広まったと言われているのです。そこで、25:1、アブラハムの再婚相手、あるいは側女となるのはケトラですが、注解によると、この名は「香料」という意味を持つそうです。その香料、特に乳香の産地として有名なのがアラビアなのです。例えば彼女の息子に25:2「ミディアン」、また孫に26:3「シェバ、デダン」などとありますが、それらの名は、アラビア砂漠の地名やそこを縄張りとする部族名と重なります。つまり現在のアラブ人の先祖がここに登場しているのです。この創世記25章が語ろうとしていることは、はっきり彼らもアブラハムの子なのだということです。また25:12以下に、イサクの母違いの兄イシュマエルの名があり、彼の十二人の息子たちの名が記されています。思い出せば、21:9以下(旧29頁)ですが、イサクを溺愛する正妻サラから追放された母ハガルとイシュマエルは、灼熱の砂漠で死を待つだけとなった、その時、神様は井戸の存在に目を開かせて下さり母子を救う。そして21:18b「わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と約束して下さいました。そのイシュマエルに対する神の約束が実現したことが、ここで言われているのです。25:16b「彼らはそれぞれの部族の十二人の首長であった。」これはイシュマエル十二部族のことで、彼らはアラビアをテリトリーとしたのです。やはりイシュマエルもアラブ人の太祖と言われているのです。一方、本流、イサクの子ヤコブを経てイスラエル十二部族が現れます。その十二部族が約束の地カナンを分割統治するという歴史となりました。それに匹敵するアラビアのイシュマエル十二部族の存在がここで明らかにされ、彼らもアブラハムの偉大な子孫であることが強調されているのです。「十二」とは聖書の言う完全数です。また25:18で、そのイシュマエルの子孫が「エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営」したとありますが、この伝承に関しては、南パレスチナやアラビア半島、メソポタミアの全域を表し、全世界と言うべき広大な地域が示されていると注解されています。アブラハムの子孫は増え広がり、今や全世界に散らばっていると指摘されるのです。ところがその子孫は一緒には暮らさない、そういう話になります。何故かと言うと、近くにいると直ぐ喧嘩になるからです。25:5~6「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。/側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた。」一緒に暮らせない。また、25:18、イシュマエルの子孫たちもまた、「互いに敵対しつつ生活した」とあります。アブラハムの夥しい子孫たち、神様の約束の通り、空の星、大地の砂のように増えたのに、互いに反目し続けている、その、ここは御心に反する厳しい現実が、この口伝伝承の時代も、それをまとめて一巻とした創世記記者の時代も繰り返し起こっていたのです。先祖は皆、アブラハムの血を分けた兄弟です。しかしそれでいて距離をとらないと大変ことになるほど争った。「どうしてこうなっちゃうの」と問わずにおれないような呻きの中で、この民族表が綴られていったのではないでしょうか。

 この大昔の現実が、この2021年春のパレスチナ問題にまで延々と続いているのです。聖地エルサレムを巡る再度の中東全面戦争を避けるためには、25:6b、アブラハムの知恵のように、互いに遙か東西に分かれて暮らす他はないように私たちには思われるのです。

 25:9「マクペラの洞穴」とあります。このヘブロンの墓に既にアブラハムの妻サラが埋葬されています。そして今回アブラハムが葬られ、この後イサク夫妻、ヤコブ夫妻と、信仰と民族の父母六名が埋葬されます。これもこの上ない聖地「信仰の太祖の墓」です。しかし今から27年前、1994年2月25日「プリム祭」の日に、今はパレスチナ自治区に属するヘブロン、そのマクペラの洞穴で大虐殺事件が起きました。ユダヤ人入植者ゴールドシュテインが銃を乱射し、礼拝に来ていた29名のアラブ人イスラム教徒を殺害しました。事件後、中東各地で暴力的な抗議活動が発生し、ユダヤ人、アラブ人双方に多数の死者が出ました。この事件後、ユダヤ教徒とイスラム教徒とはマクペラでの礼拝所を分割して用いる他はなくなりました。まさにマクペラの意味「二重」が預言のようになって、墓が二分されてしまったかのようです。もう一度読みます。25:6b「東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた。」そして25:18b「互いに敵対しつつ生活していた。」これで良いのかということです。私たちはここでどうしても、招詞で朗読した詩編、あの美しい歌を思い出さざるを得ないのではないでしょうか。133:1~3「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。/かぐわしい油が頭に注がれ、…/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。」アブラハムの子孫が、本流も支流ももうない、皆、シオンの山、エルサレムで合流するという平和がここに感じられます。もう「マクペラ」二重ではない、一つになって兄弟が共に座っている、それこそが、神がアブラハムに与え、代々子孫に受け継げと命じられた祝福そのものであり、とこしえの命なのであります。その恵みを神が宣言するために、シオン、エルサレムは存在するのです。

 その和解の祝福が、アブラハムの埋葬において始まっている、そう創世記は暗示していると思います。25:9a「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼(父)を葬った」と。また、25:11b「イサクは、ベエル・ラハイ・ロイの近くに住んだ。」とあります。この地にイサクは、花嫁リベカとの新しい天幕を広げたのです。そこにはどういう思いがあったのか、先週も説教で想像の翼を広げました。正妻サラに追放された母ハガルとイシュマエルは、もはや砂漠で干からびる他ないと思われた時、神様は井戸端で母子を顧みて下さった。だからそこは「ベエル・ラハイ・ロイ」(わたしを顧みて下さった方の井戸)と呼ばれる聖地となるのです。そして現在でもサウジアラビアのメッカにある「ザムザムの泉」へのイスラムの大巡礼は、このハガルとイシュマエルの旅を追体験するものだと言われます。イサクは、その兄の命を救った記念の井戸の「近く」に住む(25:11b)、そう書いてあります。もう遠くではない、それは兄との和解への思いではないでしょうか。父の家を追われたイシュマエルは、遙かに遠く、21:21「パランの荒れ野」(シナイ半島)に去りましたが、アブラハムの訃報を、イサクから聞いたのでしょうか、ここでカナンに近付いて来たのです。ここには二度と会うことはないと思われた、分かたれた兄弟が、父の死を通して近付く、兄弟が共に座っている、その祝福が現実のこととなっているのです。イシュマエルはこの墓を前にした時、イサクの母サラの自分への憎悪を思い出さざるを得なかったに違いありません。しかし彼はこのマクペラでその怨みを超えて、1994年の虐殺事件と反対のことをすることが出来たのです。
 イサクの子孫と言って良い、ユダヤ教徒ゴールドシュテインはこの創世記25:9a「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。」この神の言葉を一度でも読んだことがあれば、その洞穴でイシュマエルの子孫を虐殺することなど決して出来なかったに違いない、そう思います。

 25:8「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」ここに兄弟がともに座っている、何という恵み、何という喜び、その平和の中で、私たちも憧れて止まない、アブラハムの満ち足りた死が表れるのです。そこに祝福ととこしえの命が漲る。では、どうしたら、私たちの小さな家にも、こじれにこじれたパレスチナにも、どうやったらこの満ち足りた平和が来るのでしょうか。

 平和の主イエス・キリストに近付いて来て頂く他はない、そう思います。預言者イザヤは夢見るように言いました。イザヤ書60:6(旧1160頁)「らくだの大群/ミディアン(創世記25:2、ケトラの子)とエファ(25:4、ミディアンの子孫)の若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバ(25:3、ケトラの孫)の人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。」さらに、60:7「ケダル(創世記25:13)の羊の群れはすべて集められ/ネバヨト(25:13)の雄羊もあなたに用いられ/わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる。わたしはわが家の輝きに、輝きを加える。」ケダルとネバヨトは、イシュマエルの次男と長男です。これはクリスマスによって現実のこととなりました。このイザヤの預言では、遠い国から救い主を求めて旅して来る者は、私たちが知っている、東方の三人の学者たちではありません。明らかにイシュマエルの子孫、ケトラの子孫であるアラブ人を表しているのです。彼らはベツレヘムに向かって、ケトラ(香料)との名を持つ母の子、アラブ人であるからこそ、アラビアを産地とする乳香を携えて、それをクリスマスプレゼントとするために、旅して来るのです。そして馬小屋の飼い葉の前で、もうユダヤもアラブもない、共に座って、乳香を献げて平和の御子を礼拝すると、イザヤは幻の内に私たちの将来を見詰めていたのです。

 使徒パウロも言いました。キリストの御前に、ユダヤ人も異邦人もないと、イサクもイシュマエルもない。パウロは言う、人は皆罪人だと。だから争いが絶えない。距離を取ることが唯一の平和の道しか思えない私たちです。どんなに同じアブラハムの血によってであっても義とはされない。主イエスの十字架の血によってのみ義とさると。それは祝福されるという意味です。真の本流とは実はイエス・キリストだったのです。そこに私たちの小さな人生の流れを委ねる時、全ての兄弟たちと共に、手を取りあうような思いの中で、神の救いの大河に合流していく時、私たちでも、このアブラハムの平安が与えられるのではないでしょうか。創世記25:8「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」このような満ち足りた人生を、和解の主イエスが私たちに与えて下さることを、心から感謝しましょう。

祈りましょう。 主なる神様、時に共に座るどころか、遠く離れようとする私たちをどうか憐れみのうちに覚えて下さい。しかし、その反目のただ中のエルサレムで御子は既に十字架について下さり、私たちの罪を贖って下さいました。どうかその犠牲を覚えて、私たちも互いに譲り合って生きる、そうやって、満ち足りることが出来ますように、どうか聖霊によって、私たちの人生と世界を祝福ととこしえの命溢れる本流へと導いて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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