2021年6月27日 主日朝礼拝説教「人の計らい、神の計らい」

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創世記27:1~33

 イサクは激しく体を震わせて言った。「では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福されたものになっている。」(創世記27:33)

説教者 山本裕司 牧師

 今朝の物語は族長イサクが年をとり、目が霞み見えなくなってきてたという老いの指摘から始まります。老イサクの具体的な遺産、長子の特権は、その名の通り、世の定めの通り長子エサウが相続するはずでした。しかしその長子の権利を既に、エサウは弟ヤコブのレンズ豆の煮物と交換してしまっていたのです(創世記25:27~34)。残されたのは遺産よりも重大な、アブラハム以来の「祝福」でした。26:12~13(旧40頁)には、「主の祝福を受けた」イサクが寄留地でさえ百倍もの収穫を得て富み栄えたとあります。しかし神の祝福とはより霊的なことであり、必ずしも地上の御利益と一致するわけではありません。しかしそのことは未だ、このエサウ、ヤコブ兄弟はここでは双子らしくどちらも分かっていなかったのです。ですから御利益があると思って祝福を取り合ったに違いありません。しかし思い起こせば、私たちも祝福と等価と言うべき「洗礼」を受ける時、どれ程その真の値打ちが分かっていたでしょうか。青年会にステキな子がいたので、洗礼を受けたという大先輩の牧師の話を聞いたことがあります。しかし先生はあっという間にその子に振られて、気の迷いから牧師になった。しかしそれはこの世の祝福とはほど遠い生活で、教会のために死ぬ程苦しんだと証ししておられました。しかし最後にはやはりこの道は呪いではなく、この上無き祝福であった、それが今ごろになって分かってきた、そういう証しでした。今朝からヤコブ物語を読んでいきますが、この神の祝福を無理矢理手に入れるヤコブの人生も、その先輩牧師に似て、その祝福の故に、むしろ呪われていると見られても仕方がないような旅をすることになる。

 一方、老イサクにとって、長子エサウが家督を継ぐことほど自然なことはありませんでした。だから老イサクは改めて誰を跡継ぎに選ぶべきか、祈って尋ねた形跡は一つもありません。妻リベカにも相談しないまま、エサウにこう求めました。27:4「わたしの好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい。」祭儀には祝宴が伴うのです。また食事は祝福授受の儀式に耐える体力を老人に与えました。しかしそれだけでなく、ここで「わたしの好きなおいしい料理を作り」とエサウに求めた時、私たちはこの言葉を思い出すのです。25:28「イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。」私たちもおいしい食事を作ってくれる人を好きになります。しかし料理のうまさだけで、祝福の継承者にふさわしいことにはなりません。これらの態度に表れてくるのは、イサクの思いばかりです。だからこそ、イサクは、次男ヤコブを溺愛している妻リベカに何か言われる前に、さっさとエサウに祝福を与えてしまいたいと思ったに違いありません。彼の27:1「目がかすんで見えなくなってきた」とは、その信仰の眼差しをもまた曇った、そのことをも暗示しているのではないでしょうか。

 ルカ福音書冒頭にある、主イエスの先駆者、ヨハネの誕生物語を思い出すのです。洗礼者ヨハネは祭司一族の子として生まれるのですが、祭司たちは、やはりその習慣に習って、父の名ザカリアと名付けようとしました。ところが、その前に天使ガブリエルは「その子をヨハネと名付けなさい」(ルカ1:13)と命じていたのです。しかし祭司の親類の中にそのような名の付いた人は誰もいないと言われて父は躊躇した。その時、母エリサベトが「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言ったのです。その名は、この子が祭司ではなくキリストを指し示す預言者としての召命を受けていることの表れでした。それに似て、やはり母リベカの方が神の選びの御心を知っていたと言えると思います。それは身籠もった時、双子が胎内で押し合った、その時主は母に言われたのです。創世記25:23b「兄が弟に仕えるようになる」と。彼女は折に触れてその懐妊中の御言葉を、夫イサクにも伝えたことでしょう。だからこそイサクは妻に隠して、エサウへの祝福授受を強行しなければならなかったのではないでしょうか。

 福嶋裕子先生は、『ヒロインたちの聖書ものがたり』の中でこう書いておられます。「母リベカは次男ヤコブこそ、その権利に値すると心中で決めていた。「兄が弟に仕える」という神託を、ヤコブが家督を相続するという意味にリベカは理解したのだ。だが古代社会では家長の意見が最優先され、また弟が兄より優位に立つことはあり得ない。しかしリベカはそのような既成の秩序よりも神の言葉の方が重要ではないかと自問していた」(49頁)そう言われるのです。

 神の祝福を受け継がせる者、それは、この世の習わしや、もっと言えば食欲のようなもので決めることではなかったのです。私たちはこれから創世記に記されるヤコブの一生を学ぶ時感じられてくることでしょう。彼が次男であっても、またその名「ヤコブ」の通り27:36「足を引っ張り(アーカブ)欺く」者であっても、彼こそ唯一の祝福の担い手となるべく生まれてきたと族長であると。トーマス・マンは大長編『ヨセフとその兄弟たち』の中で、ヤコブがどれ程、真の神を究めようとして生涯苦闘したかを描きます。一方、長兄エサウについては、26:34「四十歳のときヘト人ベエリの娘ユディトとヘト人エロンの娘バセマトを妻として迎えた。/彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった」そうありました。トーマス・マンはエサウの方はこう描写するのです。「エサウは、早熟で、少年の時代から何度も結婚をした。その女たちは、カナンの地の娘たちであって…、その女たちに沢山の子どもを生ませ、自分もアブラハムからの高貴な遺産を理解する力がなく、南部のセイル地方の住民たちと狩猟や信仰のうえで友好関係を結んでおり、そこの住民たちの神であるクザサを拝み、自分の子どもたちには、女たちが幼少から礼拝してきた自然神の偶像を礼拝させていた」(Ⅰ181頁)、そうあるのです。アブラハムが主と最初に出会ったメソポタミアを故郷とする、彼の親族リベカはアブラハムと同じ道を辿って、カナンまで旅をしてきた女性でした。イサクと結婚してこのアブラハム以来の唯一の神への信仰を守るためです。そのリベカにとって、カナンの嫁たちの偶像礼拝は我慢がなりませんでした。エサウにはこのように信仰の家を作る気はなかったのです。だから弟に祝福を横取りされた時も、エサウが27:34「悲痛な叫びをあげ」たのは、先に言いました、祝福によってもたらされると思った、地上的御利益を失ったからだけなのではないでしょうか。

 話を戻すと、リベカは、27:5で、イサクがエサウに祝福のことを相談しているのを盗み聞きします。ずっと前からこの日を待って、計略を練っていたに違いない彼女は、夫イサクを騙して愛するヤコブに祝福を継承させようとしました。しかしこの点では、先のクリスマスの物語のヨハネの母エリサベトとは異なります。エリサベトは男たちにはっきりと御心はここにあると、正しく意見出来る女性だったのです。それと異なるリベカの策略には、やはりただ純粋に神の御心を果たそうとするというだけでなく、むしろその動機は、ヤコブへの偏愛の方が大きかったのではないでしょうか。真に神の計らいを信じる母なら、エリサベトのように毅然と振る舞えばよかった。祝福詐欺の首謀者という罪を犯す必要はなかったと思います。しかしそのように筋を通せなかったほど、イサクの家はそれぞれ人間の思惑、複雑な計らいの故にバラバラで、話し合うことも出来なかったのだと、このリベカに同情出来るかもしれません。

 27:12、ヤコブは、お父さんを欺したら、祝福どころか反対に呪いを受けますと恐れます。しかしリベカは自分が「その呪いを引き受けます」(27:13)と言って、息子を従わせます。実際、ヤコブが祝福を受けたことによって、この愛し合う母子は、引き裂かれ、呪われたように今生の別れを経験する他なくなるのです。

 ついにヤコブは、母の作った料理を手にし、母に言われるまま、エサウの服をまとい、毛深いエサウに化けるために毛皮で変装して父のもとに行きます。イサクは27:18「誰だ、お前は」と問う。ヤコブは27:19「長男エサウです」と欺きました。イサクが、27:20「どうしてまた、こんなに(獲物を)早くしとめられたのか」と訝った時、ヤコブは思わず言うのです。「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです」と。

 私は今朝の説教題を「人の計らい、神の計らい」としました。それはこのヤコブの言葉から取ったのです。リベカもヤコブも、そしてイサクでさえ、自分の計らいのまま行動しました。そうであれば、神の計らいは無視されると思われた、その時、あに図らんや、ヤコブが思わず言ったように「あなたの神、主がわたしのために計らってくださった」、それは真実であって、神様はこの人間の計らいを用いて御自身の計らいを実現させて行かれるのです。その御手に導かれるように、イサクはヤコブを祝福します。それは神様がアブラハムに与えた祝福とほぼ同じ言葉です。27:29「多くの民がお前に仕え/多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり/母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ/お前を祝福する者は/祝福されるように。」かくして、神の計らい通り、アブラハムの祝福、つまり唯一の神への信仰は、ヤコブに受け継がれ、やがて、主の約束通り、多くの国民が「ヤコブの信仰の前に」ひれ伏したのです。私たちもその一人です。

 戻ると、ようやく獲物を仕留め調理してきたエサウがイサクの天幕に来ます。遅れてきた息子こそ、長子エサウの方だと知った時、27:33「イサクは激しく体を震わせた」とあります。これはただ祝福を誤って行ってしまったという恐れだけではないと思います。自分が御心をよく尋ねもせず、エサウと決めて、それが全部うまくいったと思った、その人間の計らいを、神は易々と打ち砕かれる。そして、永遠の昔に決めておられた「選び」を、ここで実現される。その人間のはかりごとを圧倒する、神のはかりごとに、打ちのめされる。

 箴言19:21「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」

 これが本当だったとイサクは知った、その時の震えなのではないでしょうか。つまり神は生きて働いておられるという事実を目の当たりにした時の、まさに「かすんでいた目」が開かれる経験をした時の「おそれとおののき」なのではないでしょうか。その生ける神が、ある瞬間、私たちの人生に介入してこられるのです。その時に、私たち人間は初めて自分のはかりごとが成るのではなく、人の罪や愚かささえも用いられながら、神の計りごとのみが進んでいく、そのことを知る時に、益々震えざるを得ないのです。つまりこの世界には人間だけが存在するのではい。神がおられる、しかもそれは観念としての「哲学者の神」ではなく、生きて働かれる「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」が存在しておられる、そのお方が私たち一人一人の人生と世界史を密かに導いておられる、それを目の当たりに突き付けられる、その瞬間が私たちにもやってくるのです。旧約学者フォン・ラートは「この老人(イサク)の驚愕の場面において、語り手は、創世記の他の物語には見出すことが出来ない程の最上級の言葉を用いている」と注解しました。やがて新約の世界において、その旧約の最上級の震えをも上回る、震撼を人類は経験することになります。わたしたち人間は、その計略によって、神の独り子イエスを十字架につけて殺したのです。そうやって人が、自分たちの計らい通りにことが進んだと喜んだ瞬間、その十字架こそ、神の究極のご計画であり神の勝利であった、その十字架によってむしろ人間は敗北した、それが明らかになった、この神の計らいの恐るべきことに、私たち人間は誰しも肝を潰さざるを得なかったはずです。母リベカは言いました。この策略の故に私が、27:13「呪いを引き受けます」と。しかし本当に呪いを引き受けて下さったのは誰か。使徒パウロは言いました。キリストは十字架にかけられることによって、私たちの「呪い」を引き受けて下さり、ガラテヤ3:13「わたしたちを…呪いから贖い出してくださいました」と。この十字架によって、私たちは罪人であるにもかかわらず、呪われることなく、祝福されたのです。ヤコブの祝福を、その主の十字架の呪いの故に、受け継ぐことが出来たのです。これを知った時、私たちは震える、その震えを先取るするようにして、イサクは震える。リベカもヤコブもこの神のご計画を知った時、心底震えたに違いありません。神はこうやって、私たちの罪も呪いも贖って下さるのかと。そうやって祝福を全世界に充たして行かれるのかと、震える。私たちも同じです。

祈りましょう。 主なる神様、私たちは時に高ぶり、自分の計らいで、事は進むと思いますが、しかしあなたの御業だけが進むことを示され、畏れおののく者です。しかしどうかそこで、私たちに、自分の計らいより、神の計らいがなった方が良いのだという信仰をお与え下さい。そうやって与えられた私たちの家の祝福を、信仰を、私たちの子どもたちに孫たちに継承していくことが出来ますように、全ての家に聖霊を豊かに注いで下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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