2021年6月20日 主日朝礼拝説教「広い場所へ導かれ」

https://www.youtube.com/watch?v=S8V10hkv9Pw=1s

創世記26:15~33

 イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。(創世記26:22)

説教者 山本裕司 牧師

 今朝、朗読しました創世記26章には、イサクのゲラル滞在の物語がありました。それは飢饉のための寄留でした。彼は父アブラハムもそうであったように、移住先で妻を妹と偽って身の安全を図ります。それは難民として異国で暮らす境遇が、いかに危険であるかを表しています。しかし父アブラハムの祝福を受け継いでいるイサクは、結果としてその命の危険を逃れることが出来ました。またかつて父がゲラルに移住した時に掘った井戸を見付け、それを再利用して農業を始めたところ、26:12b~13a「その年のうちに百倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受けて、/豊かになり、ますます富み栄え」た、そうありました。ところがその成功は、ゲラル先住民ペリシテ人の妬みをと憎しみを呼び起こしたのです。その王アビメレクも、26:16「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい」と求める。その直前、既に、26:15、ペリシテ人たちは父アブラハムの果たした井戸をことごくふさぎ、土で埋めてしまったと記されてありました。それでは、これは果たして大昔だけの話でしょうか。

 アムネスティが2009年発行した『我田引水』という冊子があります。副題は「公平な水利を得られないパレスチナ人」です。紛争が激化したパレスチナで、イスラエルはパレスチナ人の給水設備の破壊を進めてきたと、その報告が詳細に記されてありました。今朝の聖書の舞台ゲラル近くに、前月も空爆によって多くのアラブ人が死傷したガザがあります。今から20年前、そのガザで百以上の井戸がイスラエルによって一気に破壊されました。この梅雨空の下の私たちには理解しにくい乾燥地帯では、旧約の時代も現在も、相手の水資源を奪うことこそ、敵に致命傷を与える攻撃であったのです。またイスラエル軍はパレスチナ人の多くの雨水貯水槽をブルドーザーで叩き壊し、砂利とセメントを流し込んで二度と使えないようにしてきました。南ヘブロンの村スシャに住む女性は証言しています。「イスラエル兵は家を破壊し、羊を殺し、木々を引き抜き、先祖代々用いてきた私たちの古い雨水貯水槽を破壊しました。水は命です。水がなければ生きていけません。人も動物も植物も死んでしまいます」、そう涙ながらに言います。その結果、パレスチナ村民の半分以上が故郷の土地を去らざるを得なくなりました。一方、イスラエル人が国際法を破ってそこに入植した地には、スイミングプールが作られ、スプリンクラーが回転し青々と茂った農園が広がった。それは直ぐ隣の乾ききった赤い砂漠、その上のパレスチナの村々と余りにも際立った色彩の対照を見せていると言われるのです。

 その女性の故郷スシャのあるヘブロンと言えば、アブラハムが三人の御使いを迎えて、イサクの誕生の約束を告げられた場所です。やがてヘブロンのマクペラの洞穴に、アブラハム夫妻が埋葬される。そのユダヤ人、アラブ人共通の父アブラハムに因む聖地周辺で、その同じ子孫の間で、このような目を背けたくなるほどの差別的分断が起こっているのです。これは私にエゼキエル書34章の預言を思い出させました。「肥えた羊が、牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回す、だからやせた羊は、踏み荒らされた草を食べ、足で汚された水を飲むほかはない、そうやって弱い羊は「外へ追い」(34:21)やられると書かれてあります。その通りイサクの場合も同じことが起きました。そこを去ったと創世記にもありました(26:17)。このような仕打ちにイサクはそれに耐えて荒れ野の旅を続けたのです。櫻井淳司牧師はイサクを「非暴力平和創造の先駆者」と呼んでおられます。先生によるとこの先住民ペリシテ人のしたことは、今日で言うテロであり先制攻撃です。もしこのようなテロを受けたら、米国や日本は報復攻撃に出ることでしょう。それは現在、イスラエルに向かってガザからロケット弾による報復攻撃を繰り返す、イスラム原理主義ハマスのあり方と同じです。しかしイサクはペリシテ人の暴力を受けても、抵抗をしませんでした。26:17「イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住んだ」とあるだけです。このあり方は、ハマスでなくても相手をつけあがらせるだけだと非難されそうです。しかしイサクは戦争を避けるようにして、黙ってゲラルの谷に移りました。26:18、そこも昔父が掘った井戸が幾つもありましたが、アブラハムの死後、ペリシテ人たちはみなふさいでしまったとあります。イサクは、それらを掘り直します。26:19「水が豊かに湧き出る井戸を見つけ」たとあります。父の井戸が生き返る、それはイサクにとって、どんなに嬉しかったことでしょうか。ところが、ゲラルの羊飼いが、26:20「この水は我々のものだ」と主張する。さすがにそこではイサクの羊飼いとの小競り合いが起きました。26:20b、だからイサクはその井戸をエセク(争い)と名付けたのです。そのためにまた別の井戸を掘り当てる他はなかったのですが、そこもまた争いとなり、イサクは新しい井戸もシトナ(敵意)と名付けて放棄する他はなかったのです。

 しかし柔和なイサクは、それでも報復するのではなく、次の場所に移動して井戸を掘りました。その時、26:22b「もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、『今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった』と言った」のです。自由と平和が実現したと高らかに宣言しているのです。私たちはここで、主イエスの山上の説教の一節「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)と口ずさみたくなるのではないでしょうか。そうであれば、この物語を学ぶ時、私たちは戦争放棄、戦力不保持の憲法九条を、改めて守ろうと心に誓う者となるのではないでしょうか。

 櫻井先生は、この聖書の物語がいかに現在の問題に暗示的であるかを解き明かすのです。イサクは争いを避けて命の源である井戸を各地で掘り続けた。そのことによって、結果として、多くの井戸を残すことになった。それはペリシテ人を含む多くの人々の命を救うことになるだろう。それは「非暴力的な生き方」であると先生は言われるのです。一方ペリシテ人は命の源を埋め、奪うという暴力的な生き方をしたことによって、この世を砂漠化していったと、それはやがて自分たちが飲む水も失う滅びへの道だと、先生は言う。確かに今はイスラエル人入植地で水は文字通り湯水のように消費されています。しかしそういう「我田引水」の収奪がいつまで続けられるでしょうか。あるいは、そのペリシテ人の攻撃は、現在においては、核攻撃を思い出させます。核攻撃によって死ぬのは敵国民だけで済みません。自らの播いた放射能は自らが刈り取ることになるに違いありません。従って我田引水や核戦略の行き着く地球は、広い場所(レホボト)ではない。争い(エセク)と敵意(シトナ)と呼ぶ他はない。火星のような赤くて狭い場所となってしまうに違いないのです。

 しかし柔和を貫くことは容易なことではありません。イサクたちにとっても水を求めて荒れ野を旅することは命懸けのことだったと思います。現在の南ヘブロンに戻ると、村に住む五人の子を持つ母はこう語ります。「飲料水、調理用、衛生、洗濯や掃除、また山羊のために水が必要です。だから私たちは一滴、その一滴を節約するのです。毎日が水との戦いです。それなのにイスラエル人入植者は一つだけ残るアラブ人のため池に、廃棄物を投げ込むのです」と。イサクも同様の経験をしましたが、報復しなかったのです。そうであれば、彼はそれにどうして耐えることが出来たのでしょうか。

 26:23、イサクは追われ追われて、ベエル・シェバに上りました。そこは未だイサクが子どもだった頃、ハガルと兄イシュマエルが家を追われて、さ迷った荒野です〈21:14b)。砂漠をさ迷ううちに母子の革袋の水は尽きました。しかしその時「神は子供の泣き声を聞かれ」、ハガルの目を開いて井戸を見せて下さいました。母子の渇きは癒やされました。そこが聖地ベエル・シェバとなるのです。そこにイサクは、26:23「上った」のです。この「上る」という言葉は、谷から平地に「上る」の意味もありますが、聖所への巡礼の旅を表す言葉でもあります。つまりその「上がる」には、礼拝がここで始まることが暗示されているのです。その夜この場に昔ハガルに現れて下さった神は、再びイサクの前にも姿を現しこう言われました。26:24a「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。」この御言葉は、あの時この所でハガルに約束された言葉との類似が感じられます(21:18)。「わたしはあなたと共にいる。」だから「恐れてはならない」(21:17,26:74)。その御声が響き渡る聖地での礼拝によって励まされて、ここでもイサクは、井戸を掘るのです。それも既にふさがれたハガルの井戸だったのかもしれません。イサクはハガルの信仰をここでもう一度発掘する意味も込めて井戸を掘ったのではないでしょうか。どれ程、争いと敵意に囲まれ、井戸を埋められても恐れてはならない、神が共にいて下さる。祝福して下さると。しかし、井戸を破壊されたら、米国やハマス同様、反撃しなければ我々は滅びると誰もが思います。核保有をしなければ、相手の核攻撃の抑止力にならないと思います。暴力には暴力を、それ以外に自分を救う道はないと。しかし不思議なことに聖書は違うのです。イサクは、一度ではない、何度井戸を埋められても、非暴力で、次の井戸を探して荒れ野を進みました。その生き方は、敵対国の王アビメレクに何かしら畏怖を与えたのです。王は参謀と軍隊の長と共に、ベエル・シェバのイサクを表敬訪問するのです。イサクは、何故自分を「憎んで追い出した」(26:27)のにと問います。その時、アビメルクたちは26:28「主があなたと共におられることがよく分かったからです」そう答えた。そして、平和条約締結を求めてきたのです。井戸を全て奪った勝者が、無抵抗で奪われる敗者を敬い、謙って和平交渉をしてきたのです。何と不思議な情景でしょうか。神の祝福を持つ者のオーラに、彼らは打たれたのです。イサクは彼らの願い、26:29「我々にいかなる害も与えないでください」を受け入れ誓いました。26:30、そして祝宴が始まったのです。

 この聖地での物語の終わりは余りにも美しい。26:31~33「次の朝早く、互いに誓いを交わした後、イサクは彼らを送り出し、彼らは安らかに去って行った。/その日に、井戸を掘っていたイサクの僕たちが帰って来て、「水が出ました」と報告した。/そこで、イサクはその井戸をシブア(誓い)と名付けた。そこで、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバ(誓いの井戸)といわれている。」

 軍備拡張し核兵器を持って相手を脅さなくても良い、神が共にいて下さる、たとい井戸を奪われても、荒れ野をさ迷うことがあっても、ハガルとイシュマエルに神様はそうしてくださったように、神様は渇く者を、泉の畔に導いて下さるであろう。イサクにとって、このハガルのベエル・シェバでの渇きが癒やされるその経験は、いつも離れがたくあって、彼の信仰の中核を作っていたのではないでしょうか。それが、彼が非暴力を貫くことが出来た一つの理由だと思います。

 〈もう一つの理由を、櫻井淳司牧師は指摘しています。それはイサクが少年の時、父アブラハムによって、神への献げ物として殺される寸前までいく経験です。それはイサクにとって、決して忘れることが出来ない衝撃的な出来事であったに違いありません。これまで深く信頼していた父が、この時何故かイサクの命を奪おうとしたのです。しかしこれは、イサクにとってトラウマ(否定的心的外傷)にはならなかった、むしろ逆に彼を生涯支える力となったと櫻井先生は指摘するのです。それは、薪(たきぎ)の上に置かれ、父は剣を振り上げ、もはやこれまでと思った瞬間、「その子に手をくださしてならない」という神の声が聞こえたのです。そして、イサクの代わりに、雄羊一匹を既に備えられていた。「主の山に備えあり」(イエラエ)、それをイサクは身をもって経験したのです。イサクは今回の試練においても、この確信をもって凌ぐのです。前途に望みがないように見えても、主の山に備えありと信じて、暴力をもって、奪い返しにいかなくても良いではないか。神が必ず新しい井戸を備えて下さるだろう、この世界は人間だけがいるのではない。神が支配しておられる。あなたの敵を愛しなさい、と教えてくださった柔和な王イエスが支配しておられる。〉
 
 私たちもまたこの信仰の故に、憲法九条を誓う者となれるのではないでしょうか。

 「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)こう主イエスは教えられただけではなく、主御自身がこの御言葉の通りに生きて見せて下さった、それを私たちは知っています。主イエスこそは非暴力と無抵抗のまま十字架につけられた時、こう言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と。それから主はゴルゴタの灼熱の大地に焼かれて「渇く」(ヨハネ19:28)と言われました。しかしそれで終わりではない。「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(19:34)と続くのです。渇きに耐える、その柔和によって、御自身だけが広い場所(レホボト)を得られたのではない、自らの罪によって、大地を砂漠化した私たち、だからいつも渇きに呻く私たち、その私たちを主は顧みて下さる。そして、その十字架の死の柔和さによって、報復に生きる私たちの罪を贖い、決して渇かない命の水を、井戸のように御体から注ぎ出して私たちに与えて下さったのです。イサクはこの主イエスの十字架の贖いを、自分でも知らない内に、指し示す旅を続け、ついに平和の水が溢れ出る広い場所、ベエル・シェバに導かれたに違いありません。何と幸いなことでしょう。私たちもイサクの後に続きたいと願う。

 祈りましょう。 主イエス・キリストの父なる神様、どんなに天下国家を論じても、自分がその自分自身の語る言葉に耐えることが出来ない渇ける私たちを顧みて下さい。怒りを抑えることが出来ず、報復の思いから解放されることなき、砂漠のような心をどうか憐れみ、御子の十字架から流れ出る命の水によって、潤わせて下さい。その恵みを受けた者として、塞がれてしまった井戸を一つ、また一つと掘り直す、あなたの使命に生きる者に私たちを変えて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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