2021年6月13日 主日朝礼拝説教「長子の特権」

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創世記25:19~34 ローマの信徒への手紙9:10~18

 エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。(創世記25:30)

説教者 山本裕司 牧師

 今、毎週読み続けている、創世記の族長物語は「選び」の物語でもあります。私たちもこれまで何度かの選抜を経て、ここまで人生を歩んできました。そう聞くと、私たちは入学試験や就職試験の合否を思い出すかもしれません。しかし実はそんな選抜は矮小なことです。そもそも、私たちがこうして生まれたことに大いなる「選び」がありました。たった一ずつの生殖細胞の出会いという、天文学的確率による生物学的な選抜ことだけではありません。それ以上に不思議な神様の自由な選びに私たちはあずかって命を得たのです。先ほど読みました、新約聖書、ローマ9:12で使徒パウロは言いました。「それは、自由な選びによる神の計画」ですと。9:16「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」そう続けられます。またこれまで読んできました、創世記のアブラハム物語には、夫妻が、跡継ぎが生まれないことに悩み抜く姿が描かれていました。次世代イサクの家にも二十年間、赤ちゃんが生まれることはなかったと、書かれています。ようやく生まれた双子がエサウとヤコブですが、その次男ヤコブも似た経験をします。最愛の妻ラケルには子がなかなか生まれませんでした。これら一連の不妊の物語は、生命の選択が人間の力によるのではなく、神の自由な御手の内にある、その神の選びの信仰を言い表しているからに違いありません。

 創世記25:21「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。」

 荒井英子先生は、家系のためでもない、体面のためでもない、ただ妻の慰めを求めてこう祈る夫イサクの優しさ、それを高く評価します。妻のためにこういう祈りをする夫が今、どれだけいるだろうかと、先生は問うておられます。24:67「イサクは、リベカを愛した」という言葉がこの右頁上段(旧38頁)に輝けるような言葉として印字されています。またこの後、26章(旧40頁)に「イサクのゲラル滞在」という物語があります。これはアブラハム物語に既に二度(12:10~20、20:1~18)出て来きた物語のさらなるリメイクです。やはり、イサクも外国で身の安全を図って妻を妹と偽る。ところが、先のアブラハム物語と異なり、イサクの場合は、26:8(旧40頁)「…ペリシテ人の王アビメレクが窓から下を眺めると、イサクが妻のリベカと戯れていた」という、独特なエピソードが含まれています。この「戯れていた」、この言葉が「イサク」の名の意味「笑う」と語呂合わせになっていて、注解者(中村信博先生)は、日本語では「イサクはいちゃつく」とでも訳したらどうかと言っています。王宮の直ぐ下で抱き合っていて、よりによって王様自身に目撃されてしまう。抑えることが出来ない二人の愛情の深さがここにも感じられるのではないでしょうか。愛し合うことこそ、神に選ばれた信仰の家、共同体にふさわしいのです。

 そうやってイサクの祈りを主が聞き入れて下さったことによって、結婚二十年後に授かった双子たちは、ところが胎内で、25:22「押し合う」のです。母リベカが困惑して、御心を尋ねたところ、こういうお返事がありました。25:23a「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。」王宮の下でも身の危険も忘れていちゃいちゃしてしまう夫妻、それはやはり蜜月の時だけだったのでしょうか、この家にも、双子が生まれることによって、隙間風が吹き込んでくる。信仰の家にも競争と排除が起こる。これが私たちの家の宿命であるかのように、創世記は、血を分けた兄弟の葛藤を執拗に描きます。最初の兄弟カインとアベルから始まって、イサクとイシュマエル、そして今回のエサウとヤコブ、やがてそのヤコブの妻レアとラケル姉妹の戦いがあり、終わりに、ヤコブの子、ヨセフと十人の兄たちとの争いの物語へと続いていきます。人は確かに一人では生きられません。しかし集まれば何故か傷付け合う、その「ハリネズミのジレンマ」が起こる。それは神の民の家も同じだと聖書は書くのです。イサクが愛した妻リベカも、創世記27章まで話が進むと、その夫を欺き裏切ります。何故かと言ったら夫以上に、25:28b、次男ヤコブを愛したからです。そうであれば家庭の愛とは何でしょうか。一人では寂しすぎると、抱き締め合って始まる私たちの家、しかしそれが赤の他人であれば、そこまでしないと思われるような、もっと寂しい家となる。教会がまたその歴史の中で、どれほど争ってきたか、教会を愛する余り、私たちは何故か、その教会を破壊するほど、25:22「押し合う」双子たちなのではないでしょうか。

 胎の中で押し合った末、長子権を勝ち得たのは、25:25「赤くて、全身が毛皮の衣のよう」なエサウでした。25:27、彼は巧みな狩人、野の人となります。遅れを取ったヤコブは、25:27「穏やかな人」とあります。兄とは対照的に冷静な人だったのでしょう。27:11「肌は滑らか」でした。しかしその一見、文化人のヤコブこそが、25:26「その手がエサウのかかと(アケブ)を(つまりその滑らかな手で)つかんでいたので、ヤコブと名付け」られた、そう言われます。彼はエサウ以上の野蛮を心に秘める野心家だったのです。その知的な弟とそれを溺愛する母に手を組まれた時、腕力だけの素朴な兄エサウの長子権も祝福も、もはや風前の灯火でした。 

 25:29「ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。」手ぶらです。狩猟にはどこか博打的な要素があります。今回だけでなく、後に「祝福」を弟ヤコブに奪われ時も、狩猟の弱点が表れます。27章ですが、年老いたイサクは祝福の継承のための力を得ようと、長子エサウに、獲物を取ってきて調理するように命じました。しかしエサウが野を駆けずり回って獲物を追っている内に、ヤコブは母の言うがままに、さっさと家畜を屠り、27:14、調理するのです。先に25:27「ヤコブは穏やかな人」とありました。この意味は実は彼の性格と言うより、25:27「天幕の周りで働く」とあるように定住農業や牧畜という新しい文明、それによって人類が得た「規則的生活」、時間管理、そのような「近代性」を含蓄していると注解にはありました。このヤコブの勝利は、あてどなくさ迷う不規則な狩猟を時代遅れとする文化的な意味もあったのです。

 25章に戻りますと、ヤコブは夕食のために今日も畑で、規則的に手に入る、25:30「赤いもの」つまり、25:34「レンズ豆」を収穫してきました。飢え渇くエサウは、赤いスープに魅了されます。実はこれも全て計算尽くで、兄が空しく帰って来る頃に、その時間にスープの良い匂いが充満するようにしていたのかもしれません。賢いヤコブはそのチャンスを逃しません。25:31「まず、お兄さんの長子の権利を譲って下さい」と迫る。エサウは、25:32「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい。」それに対して、ヤコブはすかさず「誓い」を求めます。いつも気分で生きているようなエサウです。腹が満ちたら直ぐ気が変わる兄の移り気を見越した、文明人ヤコブの「法の精神」が表れてくるのです。誓って下さいと、決まり、法は社会の秩序と安定を守ります。一方、人間の心の機微や感情を無視する冷酷さがあります。強者が作った法に縛られて行き場を失った怒りはやがて大爆発を起こすのが常です。つまりその法こそが、秩序どころではない、社会を崩壊させる元凶とさえなる。ヤコブの家もそうでした。

 この物語から、人類文明の新旧交代を読み解く試みがあったと既に指摘しました。いわば兄である狩猟民、旧人に対して、後発の弟、新人は「家の周り」で定住農業や牧畜を始める。その規則的食糧安定供給は、人口を著しく増加させます。その人口を養うために、新人はさらに牧草地と畑を広げます。それが既に旧人たちの生きる術の環境を犯しているのですが、旧人はそれに無頓着です。エサウは、25:27「巧みな狩人」であったとありますが、その先祖から受け継いだ技術に自信を持っていたからに違いありません。ところが、何故か獲物が捕れなくなる。飢えた旧人は、新人から食糧を分けてもらいますが、同時に馴染みがなかった取り引きを求められる、森を分け与えよと。旧人の弱みにつけ込んだ新人は、契約を結ぶと直ぐに大木を切り倒し、そこを畑や牧場にする。そうやって、獲物が一匹もいなくなった森を、旧人が返してくれと要求した時、これが見えないかと契約書を突き付けられる、そうやって旧人の前には、もはや先祖から受け継いできた最も大切な命の森は、後から来た弟に奪われ、そこを去る他はなくなった、そう推測されるのです。これはネアンデルタール人のことだけでなく、近代の植民地で現実に起こったことです。

 エサウもそれに似て、一番大切な長子の特権を僅かな食べ物と引き換えにしてしまうのです。25:28、父がエサウを愛した理由になった程のジビエ料理に比べたら、25:34「パンとレンズ豆の煮物」がどれ程のものでしょうか。栄養価も低いのではないでしょうか。ある学者は、氷河期の終わり近く、まだ狩猟採集生活をしていた頃のギリシアとトルコの人口を調べたところ、男性の身長は、平均178㎝、女性も168㎝でした。ところが農業を始めるとともに、身長は低くなり、紀元前四千年頃には、男が160㎝に、女性は155㎝にまで小さくなってしまったのです。以後、少しずつ伸びてきましたが、現代のギリシア人とトルコ人でさえ、そのはるかなる狩猟民の先祖の身長にまで達していないと言われるのです。そのようなレンズ豆と、エサウは「長子の権利」を交換してしまった。それを聖書は、はっきり、25:34「エサウは、長子の権利を軽んじた。」と言う他はありませんでした。新約ヘブライ12:16「だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、…俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。」そう戒めています。問題はヤコブの貪欲だけでなく、エサウの俗悪さにもあるのです。「この世」への執着という点で、まさに彼らは双子でした。

 エサウは兄として生まれた。その理由を先に彼の腕力のように言いましたが、それだけではありません。先にも触れましたように、使徒パウロは、神の「自由な選び」と「神の計画」は「人の行いにはよらず」と言うのです。神様から命を与えられたエサウは、やはり神に選ばれた長子だったに違いありません。しかしこの神の選びを人は時に軽んじると、この物語は暗示しているのです。ある説教者は、選ばれたことに喜んで応えようとする、難病に苦しむ男の子の歌を引用されました。「ぼくがこんなに苦しむのは、神様がぼくなら耐えられると思ったからだ。ぼくは神様に選ばれたんだ。」病気になった。しかしその子は、そこにこそ、神様の自分に対する選びがあったと、他の健康な友達ではなく、僕だけに、そこで耐えるという仕事が与えられたと、それは偶然でも悪い星の下に生まれたからでもない、そう明るく歌ったのです。私たちは問われています。神の自分に対する選びを選ぶのか、つまり受け入れるのか、あるいは神の選びを選ばないのか、つまり拒絶するのかが私たちに問われているのです。

 エサウにとって、長子の特権という神の選びより、もっと大事なものがあったのです。それが25:30a「赤いもの(アドム)」であったと言うのです。続いて、25:30b「彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。」と語呂合わせがせれ、エサウは遠い南方を領土としたエドム人の先祖となることを示しています。やがて26:34、エサウは異郷から妻を娶って、アブラハム、イサクの霊的遺産である信仰を軽んじる国の太祖となったと言われるのです。そうやって、一時の飢えを満たす煮物と、永遠なるものとを交換してしまうのです。神に選ばれたことを選ばない人、その人のことを「選ばれなかった人間」と呼ぶ他はないと、創世記も使徒パウロも語っている、そう思います。本当は全ての人が神に選ばれて人生を出発したにもかかわらずです。

 弟子ユダは、主イエスを銀貨三十枚で売りました。この銀貨三十枚とは、現在の値打ちに換算すると、計算方の違いで、実に、7,260円から1,080,000円の幅が出てしまうのです。しかしその最高値を取っても、当然、主イエスの値高さには及びません。ここでも永遠なるものを、直ぐ渇く水のような、束の間のものに交換したのです。先の子どもはそうではなかった。神の選び、それが難病であっても、それを僕も選ぶ、と歌った。実際、長子権と神の祝福をまんまと奪取したヤコブが、それを受けたために、どれ程苦しむか、その物語がこれから始まります。しかしその苦しみを通して、ヤコブは神の祝福とは何かといういうことを、その人生を賭して学んでいくのです。祝福を受けるとは、ただ得したなどということではないのです。むしろそれを失ったエサウの方が、楽しい人生を送ったことが暗示されます。ヤコブは神の選びを生きたために、生涯苦しみました。しかしそのことによって、神の祝福がイスラエルに、教会に受け継がれました。私たちもまた選ばれた者です。そのために辛い目にあても、それに耐えられると思ったから、神様は私たちを、選ばれたのです。やがてその祝福がどれ程の恵みであるか、知ることになる。そして私たちは等しく、終わりの日に、やっぱり選ばれて良かった、この私を教会の民に選んで下さって、神様ありがとうと喜びの叫び声を上げて、地上を去ることでしょう。

祈りましょう。 主よ、あなたがわたしたちを選んで下さったのにもかかわらず、信仰者の旅路が少々険しくなると、直ぐ頑なになり、呟き始める弱い私たちを、どうか見棄てないで下さい。どうか聖霊によって悔い改めさせ、あなたの選びを選び直して、神の国を目指して旅する私たち西片町教会一同とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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