2021年5月9日 主日朝礼拝説教「主の山に、備えあり」

https://www.youtube.com/watch?v=FoGtNRISG2Y=1s

創世記22:1~19  ヘブライ11:17~19

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。(創世記22:14)

「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。」(ヘブライ11:19a)

説教者 山本裕司 牧師
 
 今朝、私たちは父アブラハムが息子イサクを献げる物語を読みました。創世記22:2「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」人身御供です。それはこの後イスラエルの律法において、異教の偶像崇拝として神御自身が厳禁されたことです。しかしここでは、神様は子を献げるように命じられました。それを現在も時々起こる事件、カルト的狂信による子殺しと解釈される可能性はゼロではありません。従ってこれは危険な物語です。しかし「危険」と「信仰」は表裏の関係にあるのではないでしょうか。そうであれば、この物語には、私たちの信仰のあり方に対する示唆が含まれているに違いありません。アブラハムにとって、何のための奉献かと言うと、それは礼拝をするためでありました。独り子イサクを神に献げることによって、礼拝をここモリヤの地に作り出すためでした。後にこのモリヤの山にイスラエルの礼拝の場・エルサレム神殿が建ったと聖書には書かれています(歴代誌下3:1)。この信仰の父アブラハムの奉献から私たちが教えられるのは、礼拝をする時、人間は犠牲を献げなければならないということです。私たちの礼拝順序の中に「献金」があります。これが既に犠牲です。私たちはお金が余っているから献金をするのではありません。欲しいものを犠牲にして、ある種の痛みを以て献金をするのです。私たちは暇だから礼拝に来るのでも、百%安全だから礼拝に来るのでもありません。今、コロナ禍にあって、私たち信仰者は益々、自分にとって礼拝とは何か、それが主日を迎える度に厳しく問われているのではないでしょうか。

 緊急事態宣言下にあっても、今朝もこの礼拝堂に黙々と入って来られる西片町教会の信仰者の姿を見る時、私は圧倒されるような気持ちになります。役員たちは、皆様のご協力を得ながら、感染リスクを少しでも減らそうと一年以上努力してきました。皆様も自分の健康を守るために細心の注意を払ってここに来ていると思います。そのような努力の故に、感染リスクは小さいと判断されて、今朝の礼拝も開かれているのです。しかしリスクは決してゼロにはなりません。危険は残ります。ですから会堂には来ない教会員も多くおられますし、それはむしろ当然のことだと思います。しかしではどうして、今朝、会堂におられる皆様は、病気のリスクがあることを承知の上で、ここに来られたのでしょうか。もしかしたらご家族から「今日も行くの」と咎められた方もこの中におられたのではないでしょうか。それを振り切るようにして、何故ここに来るのか。それはアブラハムが犠牲を携えてモリヤの地に、その礼拝の丘に登って行く、その信仰を受け継いだからとしか言えないと思います。

 この放送を聞くことを以て礼拝を献げている方々の心も同じです。自分だけの問題でなく、社会や家庭における感染拡大を防ぐために、ここにどんなに来たくても禁欲している方も多くおられます。私たち信仰者にとって、主日にこの会堂に集まることが出来ない、そのこと自体が激しい犠牲です。その痛みを奉献しつつの「YouTube」による礼拝であります。どのような形であれ、信仰者は、自分のやりたいことを犠牲にして、礼拝を献げる、それが主から求められています。実は世の中の貴いもので、犠牲なしに得られるものは、ただの一つもありません。私たちにとって礼拝ほど大切なものはありません。だからそれを献げる時、犠牲なしにということはあり得ない、それがアブラハムのこの巡礼の姿に現れているのです。

 それにしても最愛の子の命を奉献しなければ、礼拝は成り立たないのでしょうか。それは決してあってはならない奉献であるにもかかわらず、事実として、神様は人間にそれを求める時がある。そのことを私たちは忘れてはならないのです。先ほど併せて朗読した新約聖書、ヘブライ人への手紙は、11:17a(新415頁)「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。」そう今朝の物語を引用しながら、この手紙の教師は信仰者たちを励ましているのです。この手紙の宛先について学者は、使徒パウロも手紙を書き送ったローマ教会に宛てた可能性が高いと指摘しています。キリスト者はローマ帝国の迫害によって命の危険に晒されていました。その時父親であるローマ教会長老は、子に向かって私たちはもう危険だから、礼拝に通うのは止めようとはどうしても言えなかったと思う。まさにモリヤの山にイサクと共に登るアブラハムと一体となるような気持ちで、父子は主日になれば、教会にやはり向かったのではないでしょうか。

 今、鹿児島で伝道している松本敏之牧師は、この箇所の説教の中で印象深いエピソードを紹介しています。ある人が、マーティン・ルーサー・キング牧師が殺された後、キング牧師の父親を訪問し、彼と共にキング牧師の墓に出かけました。キングの父親は突然、その人に尋ねました。「あなたはいったい、私の名前を知っていますか?」その人は、「ええ、勿論ですとも。あなたは、あのマーティン・ルーサー・キングのお父上です!」キングの父親はさらに続けて尋ねます。「あなたはいったい、殺されてこの墓の中に横たわっている者の名前を知っていますか?」彼はそれに答えて言いました。「勿論です。この人は人種差別の不正に対して立ち上がり、黒人の法と正義のために非暴力で闘い、この非暴力の抵抗の故に殺された、我々の愛するマーティン・ルーサー・キングです。」「ちがいます!」と父親は答えた。「私はアブラハムです。そして、ここに横たわっているのは私のイサクなのです! 私は人種差別に対するこの非暴力の抵抗と自由の闘いのために、わが息子を犠牲として献げなければならなかったのです。私は彼を殺されずにおくことは出来なかったのです。私はわが息子を犠牲にしなければならなかったのです!」

 創世記22:1~2「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、/神は命じられた。あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 この記事について注解者たちは等しく、これはアブラハム物語の頂点であると指摘しています。私たちもこれまで数ヶ月に亘って、彼の物語をここで読んできました。22:1「これらのことの後で」の「これらのこと」とは、そのアブラハムのこれまでの経験のことです。彼は神様の声に聞き従わないで、人間の言葉に聞き従ったために、何度も間違いを犯してきました。どうしても神様が約束して下さったはずの跡継ぎが生まれないので、奴隷ハガルを代理母として長子イシュマエルを得ました。しかしそれは祝福されなかったのです。正妻サラがイサクを溺愛する余り、ハガル母子は砂漠へ追放された。もし神様がこの灼熱の下の母子の泣き声を聞いて下さらなかったら、アブラハムの家は、今頃、祝福どころかこの上なく呪われた家になったに違いありません。

 「これらのことの後」であります。アブラハムは手痛い経験によって、それからは自分の思いに従うのではない。未だ先が見えなくても、神の言葉に聞き従う、その信仰こそ、祝福への唯一の道であることを、長い試練の旅の末に、ついに学んだのです。神様御自身が、22:17~18、あなたがわたしの声に聞き従ったから、あなたも地上の諸国民も祝福を得る、そう言われた通りです。その信仰がこのベエル・シェバから約80㎞ある、後の名シオンの丘へ向かう巡礼となりました。22:6b「二人は一緒に歩いて行った。」

 その「沈黙」が支配する途上で、イサクは初めて口を開きます。わたしのお父さんと。22:7b「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」この問いに、アブラハムは、これまで学んできた、自らの信仰の全てを注ぎ出すようにして答えたのです。22:8「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」イサク、お前の誕生もそうだったのだ、そう言いたいのではないでしょうか。我々両親は、あの時も、この先に何が起こるから何も見えていなかった。しかし、今お前の命がここにあるではないか、それは神がお前を先に備えて下さっていたからだ。それと同じことが、モリヤの丘でもこれから起こるだろう、確かにこの先に何があるのか我々には何も見えてない、しかし神は備えて下さっているはずだ、だから安心して一緒に歩いて行こうではないか。そのようなアブラハムの命懸けと言っても良いギリギリの信仰の表出がここにあります。そして聖書はもう一度、22:8b「二人は一緒に歩いて行った」と繰り返します。注解者はこの文学的構造を「沈黙から対話へ、そしてまた沈黙へと、心理的緊張感がいっそう高められていく」と解説しています。礼拝とは、私たちが語り続けるのではない。神の言葉に聞き従う場です。そこで私たちの方で、いくらでも言いたいことがあっても、その人間の言葉も犠牲にする、奉献する。そうやって御前に全地が沈黙する時、神殿礼拝が始まる、そう預言者ハバクク(2:20)が言った通りのことが起こるのです。礼拝はそうしなければ生まれません。

 創世記22:9~10「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。/そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」父は先の子の問いに「献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答えた、その時、これから先の未来を知りません。この22:14「主は備えてくださる」(ヤーウェ・イルエ)、後にこの丘の名となった言葉「主の山に備えあり」とは、「神様が先を見ている」という意味である、そう注解にありました。私たちはこれからどうなるのだろうかと、先の見えない闇の中にいます。でも、神様にはこの先がみな見えている。だからこの言葉は「摂理」という言葉にもなったとありました。先に我々の必要を満たす備えを神様はちゃんと用意していて下さっている。繰り返せば、それが我々には今、未だ見えていないけれども、そのことを信じるのが信仰なのだ、そうアブラハムは身を以てここで示している、そう思います。

 創世記のこの物語の中で忘れがたいのは、アブラハムがイサクを連れて、モリヤの山へ登ろうとした時、そこまで供をして来た、二人の若者をその場に残して、こう言ったことです。22:5「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」私と息子は戻ってくると言ったのです。これは、傍らにイサクがいるのですから、私だけが戻る、などとは言えなかったと、取れなくもありません。しかし、ここを昔から信仰者たちはそうは理解しなかったのです。アブラハムは、イサクを焼き尽くす献げ物とする、その決断をしながら、しかし一方、それでもイサクは私のもとに戻って来る、その信じるのです。だからこそ彼は、この試練の巡礼に耐えることが出来たのです。イサクを奉献しても、イサクの命を既に備えておられるに違いない。先に見ておられる。我々にはそれが未だ見えない。しかし、ヘブライ11:1「まだ見ていない事実を確認すること」(口語訳)それが信仰なのです。そして結局、その通りになった。そう喜びに溢れるように書いたのがヘブライ人への手紙の著者です。11:19(新415頁)「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」
 
 アブラハムはモリヤの丘の祭壇で、愛する独り子イサクの首に、刃物を振り上げた、その瞬間、御使いに止められます。創世記22:12「その子に手を下すな。あなたが神を畏れる者でることが、今、わかったからだ」と。主の山に、備えありと言われた。その備えとは、イサクに代わる木の茂みに角をとられている一匹の雄羊でした。しかし父なる神は、その遙か先も予め見ておられたのです。その先に備えていた命とは、神の愛する独り子イエスでありました。元々、「焼き尽くす献げ物による礼拝」とは、罪の贖いを目的とする礼拝であったと言われています。罪とは神に聞き従わないことです。自分がしゃべり続けることです。沈黙しないことです。つまり礼拝をしないことです。その罪のために、直ぐ世に呪いを満たしてしまう私たちです。そうであれば、罪の贖罪のためには、罪を犯した張本人である私たち自身が焼き尽くされ、死ななければならなかったはずです。使徒パウロは罪の支払う報酬は死だと言いました。しかしそうやって、私たちがゴルゴタの丘に登った時、そこで私たちが見たのは、贖罪の小羊イエスが、既に十字架の木にとらえられ、備えられている、そのお姿です。アブラハムから二千年後のモリヤ、つまりエルサレム城外の丘ゴルゴタで、父なる神はその奉献の寸前、イサクの場合のように自らの振り上げた刃物を持つ腕を止めはしなかった。独り子を生け贄の小羊として、私たちに代わって、終わりまで献げ尽くして下さったのです。ですから、本当に、22:12b「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」これは、実はアブラハムに対する言葉である前に、父なる神自身への言葉なのです。そうやって三位一体の神は、私たちを罪に縛り上げる悪魔の呪いを、祝福に変えて下さったのです。この世で貴いもので、犠牲によらないものはない。父なる神は最も大切な独り子を犠牲として献げて下さる。そうやって私たちは救われたのです。その福音を感謝せざるを得ません。

 本当を言うと、実は、私たちの献身、それはいつも欠けています。そのしみも傷もある献身で礼拝を作ることは出来ないのです。ただ独り子イエスの犠牲、そのしみも傷もない完全な生け贄、その献身の故に、その罪の赦しによってのみ、私たちにも礼拝をする可能性が開けたのです。その神の奉献に少しでも応えるために、私たちも小さな犠牲を携えて週毎に現在のモリヤ、向丘、その丘を登ってここに来るのです。そうやって西片町教会はアブラハムの祝福を受け継ぐ、献身する礼拝共同体として立ち続けるのです。

 祈りましょう。 主なる父なる神様、あなたが最愛の御独り子のお命も御体も御血潮も私たちのために奉献して下さった、その余りももったいない恵みの故に、恐れつつ感謝を致します。しかしそのあなたと御子の私たち罪人へのご献身なしに、罪の呪いは今も世を破壊し続けていたに違いありません。私たちは、アブラハムの信仰を受け継ぎ、あなたの御献身に報いる献身の道を、一歩でも二歩でも前へ進むことが出来ますように、聖霊を注いで下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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