2021年5月30日 主日朝礼拝説教 「人は神によって結ばれ」

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創世記24:48~67  マタイ福音書19:3~6

「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。」 (創世記24:67)

「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」 (マタイ福音書19:5)

説教者 山本裕司 牧師

 この箇所を読む多くの人が、何と美しい男と女の出会いの情景だろうと、ため息をつくような創世記24章の物語の結末の部分を今朝は朗読しました。24:63a「夕方暗くなるころ」のことです。イサクはこの夕、ベエル・ラハイ・ロイからネゲブ地方のヘブロンの天幕に帰って来た所でした。どうしてこの日、彼はベエル・ラハイ・ロイに行ったのでしょうか。それは、父アブラハムの僕が花嫁を伴って帰ってきた時の準備のためだったのではないでしょうか。新妻との天幕をその付近に張り、そこで新しい自分の家庭を作ろうと、その下見のために行って来たのではないでしょうか。僕はいつ帰ってくるか分かりません。片道一月はかかるアラム・ナハライム(24:10)、つまりハランへの旅に出ていたのです。父アブラハムが故郷メソポタミアの自分の一族の中から息子イサクの嫁を連れて来るようにと、老僕に求めたからです。彼が結納の宝物を携えて、東方へ旅立ってから既に二ヶ月が過ぎようとしていました。

 イサクが後に実際に住んだ、ベエル・ラハイ・ロイ(25:11b)とは、創世記16:14(旧21頁)に出て来る井戸の名です。その物語を思い出して頂くと、アブラハムの妻サラに子どもが与えられなかった時、彼女は若い奴隷ハガルに主人の子を産むことを求めました。そうやって身籠もった時、奴隷ハガルは人間としての自信に目覚めたのです。それが彼女をこれまで見下げていた、正妻サラの劣等感を激しく刺激しました。そのためサラはハガルを虐め、身重のハガルは女主人のもとから逃れる他はありませんでした。しかし彼女に行く所はない。死海西南をさ迷う。見棄てられた彼女は荒れ野の泉のほとりにくずおれた、しかしその時、耳に御使いの声が聞こえてくる。あなたは見棄てられていないと。ハガルはその時、主の御名を呼んで「あなたこそエル・ロイ(私を顧みられる神)です」と感謝しました。その泉は、ベエル・ラハイ・ロイ「私を顧みられる神の井戸」と呼ばれるようになったのです。

 その近くを新居としたイサクの思いとは、どのようなものだったのでしょうか。もしかしたら、母サラからこう打ち明けられた「過去」と関係があるのではないでしょうか。あなたの母はどうしても我慢出来ず、二度までもハガルとその子を砂漠へと追放したのよと、しかし可哀想な母子を神様は顧みて下さった。その都度、命の水で二人を生かして下さった。もし二人が砂漠で干からびて死んでいたら、私たちの家族は祝福の源どころか、呪いの源となっていたことでしょう。しかし、神様はハガルだけじゃない、私たちの家をも顧みて下さった、それによって、私たちを憎悪の破滅から守って下さった、そう涙ながらに語る母の証しが、「ベエル・ラハイ・ロイ」、その名前と一つになって、イサクの信仰を形作っていったのではないでしょうか。

 若いイサクですが、家族とは何と難しいものだろうと感じてきたのではないでしょうか。家とは愛憎の修羅場になる。愛が深ければ深いほど憎しみも深くなる。自分が今、新しく作ろうとしている家にも、何が起こるか分からない。子を愛する余り、やはり母サラと似て、これから自分の妻となる人も罪を犯すかもしれない。家庭崩壊の悲劇がイサクの天幕でも起こるかもしれない。実際その通りになります。今、このネゲブに向かっている花嫁リベカも、やがて自分の次男ヤコブを溺愛して、彼に父祖の祝福を譲るための陰謀を巡らす。その相続争いに敗れた兄エサウは激怒し、ヤコブはその殺意を避けて砂漠に逃亡した。そうやって家が罪の砂漠の下、干からびようとする時、なおベエル・ラハイ・ロイからの命の水によって、この家もまた渇きが癒やされるであろう。神がそれでも顧みて下さるから。そのハガルの信仰だけは忘れない家でありたい、その願いが、ベエル・ラハイ・ロイという彼にとっての「聖地」に住みたいとの願いとなった、そう想像出来るのではないでしょうか。

 次々に去来する「過去」、既に地上を去った母のことを思いながら、罪を犯す程に自分を激しく愛してくれた母が、もういない。その孤独を痛感しながら、その夕暮れ、イサクは母の墓のあるヘブロン、その24:63「野原を散策していた」のです。ところがその瞑想が突然断ち切られました。彼の前に、もはや過去ではない、未来の扉が開く、その瞬間を、彼は迎えたからです。イサクが、ふと目を上げると、大草原の向こうにらくだがやって来るのが見えます。そこに暫く振りの忠実な老僕の姿と、もう一人、らくだに乗る若い女性の姿が見えました。イサクはそちらに向かって歩き始めました。リベカも遠くからこちらに向かってくる男に気がついて、らくだを降りて僕に尋ねます。24:65「野原を歩いて、わたしたちを迎えに来るあの人は誰ですか。」僕は「あの方がわたしの主人です」と答えるのです。その時、リベカはベールをとって顔を隠しました。しかしその夕陽の最後の光に照らされて、ベール越しに見えた乙女リベカの顔は、元々24:16「際立って美しい」、しかしそれだけでなく、イサクには救い主のように見えたのではないでしょうか。長い旅の疲れを感じさせないその瞳は、ベール越しでも、黒く生き生きと輝いている。それは砂漠の神ヤハウエの、24:50「御意志」に、24:58「はい、参ります」と即答出来る人、メソポタミアの大文明を捨てても、それを御心と覚える時、荒れ野の花婿を求めて進むことが出来る人、その旅人の信仰を受け継ぐことの出来る人、その一途な瞳に、イサクは魅了されてしまうのです。

 福嶋裕子先生のご本『ヒロインたちの聖書ものがたり』の中で、このリベカの旅路725キロは、アブラハムがカナンの地へとやって来た、その同じルートであったと書かれてありました。旅立とうするリベカへの兄ラバンたち家族のはなむけの言葉は、24:60b「あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように」という言葉でした。これは、神がアブラハムに語った文言に酷似していると先生は指摘します。主が御声に聞き従ったアブラハムを、祝福された時に言われた言葉です。22:17b「あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る」と。リベカはそのようにアブラハムの信仰を受け継ぐ人だと聖書では暗示されているのです。

 確かにこの24章には、直接的には神様は登場しません。しかしこの物語を本当に支配し導いているのは、決して老僕ではなく、主なる神であります。その信仰がこの24章の物語全体で大変強調されています。例えば、アブラハム自身が先ず言いました。24:40「…主は御使いを遣わしてお前に伴わせ、旅の目的をかなえてくださる」と。また老僕がリベカをハランの井戸端で見出した時、24:48b「主は、主人の子息のために、ほかならぬ主人の一族のお嬢さまを迎えることができるように、わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。」そのような揺るぎない信仰に引き摺られるように、リベカの兄ラバンも思わず応えます。24:50「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。」そして僕は、24:56b「この旅の目的をかなえさせてくださったのは主なのですから」と言うのです。信仰を持たない人にとって、良縁はただ運が良かった、ということかもしれません。しかし信仰の眼差しを開く時、全ては主の導きであったことが見えるのです。その信仰の中で、主イエスもこう言われたと先ほど、もう一箇所マタイ福音書を朗読しました。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(19:6b)。

 母の天幕の中に花嫁を案内したイサクは、彼女のベールを上げたに違いない。彼はその砂埃を被った顔の中に信仰の輝きを見たと思います。「この女(ひと)こそ神が選ばれた私の妻」そう感動の中で、母が亡くなって以来、久し振りに、自分の名の通り「笑う」ことが出来たのではないでしょうか。

 先に私は、母サラがハガルと長兄イシュマエルを追い払う、それほどの罪を犯してまで、イサクを愛したと言いました。家督相続権の筆頭はいつの時代も長男でした。しかし母は相続の外にあった弟の方を愛して、父の継承者としたのです。それは人の道としては、確かに間違っています。しかしそのような我を忘れるほどの母性を雨のように浴びて育ったことを、イサクは忘れることは出来なかったと思います。しかしそれに類似した母性を私たちは主イエスのお振る舞いの中にも感じることがあるのではないでしょうか。当時、罪人は、神の祝福の継承者と認められませんでした。律法学者、ファリサイ派は、自分たちこそ正統のアブラハムの子、祝福の後継者を自負したのです。ところが主イエスはこう言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13b)と。言い換えるなら、アブラハムの遺産は罪人に相続された言ってのけたのです。ある人は言いました。聖書の神には偏愛がある、弱い小さな者への依怙贔屓があると。そのようなあり方は、世の秩序を乱すことでした。それは律法学者、ファリサイ派にとって、許されない不正義でした。しかし主は、自らが秩序破壊者、その罪人の一人となって下さったのです。いわば長兄であるファリサイ派ではなく、次男の如き罪人を招いて下さったのです。それは母サラ、そしてやがて花嫁リベカも抱く、次男への偏愛と重なるのではないでしょうか。ここでカインとアベルの物語を思い出す方多いのではないでしょうか。その偏愛の裁きをこの二人の母サラもリベカも受けることになりました。それは主イエスが受けた裁きの十字架とどこか重なるのではないでしょうか。しかしそのような神の母性なしに、私たち罪人は、救われないのです。神の依怙贔屓なしに、アブラハムの祝福の跡継ぎ、その身分を得ることは私たちには決して出来なかったのですから。

 創世記24:67「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。」愛する母サラの天幕は長く空洞でした。それはイサクの心の空洞と一つでした。その空しい天幕に今や、花嫁が入る時、その天幕はついに新しい主人を得て充実する、それと同時に、イサクの心も満ち足りるのです。イサクは母に代わる慰めを得た、そう言ってこの長い、嫁取りの物語は締め括られるのです。

 私たちもいつしか人生の夕暮れを迎えます。そこで多くを失った、愛を失った、その孤独の中で、イサクのように過去を思い、瞑想して野を歩く経験をするかもしれません。しかしその時花婿イエスは、メソポタミア以上に満たされた天の御座を捨てられて、725キロどころではない、宇宙を貫く遙かなる旅を経て、私たちの心の「ベエル・ラハイ・ロイ」に近付いて来られる。私たちを顧みられるために。その時、リベカ以上の決意を以て、天の父の「子よ、行ってくれるか」との願いに「はい、参ります」(24:58)と、リベカ同様に即答して下さったに違いない。私たちの空しい心の天幕を愛で満たすために。その花婿イエスが私たちに命じられたのです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19:6b)。

 しかし私たちは度々、自分の家でも、あるいは教会でも、この掟を破ります。しかしこのように、大切な家族やきょうだいさえ棄ててしまう、愚かな私たちであっても、決して離してはならないのは、この花婿イエスです。何故なら、その私たち、神の掟を守れない罪人を、だからアブラハムの祝福の継承者に最もふさわしくない私たち罪人を、だから神様の選びから真っ先に除外されるはずであった私たち罪人を、花婿イエスはその偏愛の故に花嫁として選んで下さったのです。だから私たちは今こうして教会にいるのです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」誰と別々に別れることがあっても、私たちは生涯、花婿イエスとだけは、離縁することなき、キリストの花嫁としての祝福の旅路を歩みたい。それが分かたれた隣人との和解の始まりともなることでしょう。それが可能となるように祈り願いましょう。

 主なる父なる神様、この期節、あなたの御霊が私たちの空しき心の天幕を満たし、愛される資格なき私たちの魂を、あなたの偏愛の如き愛によって満たして下さった、その恵みに深く感謝します。いにしえの昔、その神の選びに与ったイサクが、麗しき家族を作ったように、私たちもこの教会、この神の家族を守ることが出来ますように、益々聖霊の賜物で教会を満たして下さいますようにお願いを致します。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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