2021年5月23日 聖霊降臨日夕礼拝説教「決して渇かない水」
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創世記2:6~7 ヨハネ福音書4:13~18
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ福音書4:14)
説教者 山本裕司 牧師
今日は聖霊降臨日の祝いの主日です。聖霊とは誰か、何か、目に見えないお方だけに、にわかに答えに窮するかもしれません。しかし目には見えなくても、もしその聖霊様が存在しなかったら、私たちはどうなってしまうのかを考えると、そこから聖霊様の御力が見えてくるに違いありません。聖霊様は風のようと言われます。それなら、風がこの地球に吹かなくなったらどうなるのでしょうか。一切の環境は瞬時に破壊されることでしょう。全生命は滅亡するのです。そんなに大切なものなのに、風は目に見えません。だから意識もせず、そのありがたさを忘れているのではないでしょうか。聖霊の風もそれに似ているのです。
聖霊の風が吹かないとどうなるのか、その表れとして起こってくるのが、例えば日本における三百万人のアルコール依存者の数です。それ以上の覚醒剤・麻薬乱用者もいると言われています。これは決して他人事ではありません。「依存」とは、魂に渇きを覚える人間が、その空虚を何かで埋めようとする行為だと教えられました。そうであれば、その心は私たちにも思い当たるのではないでしょうか。依存とは「寂しさ病」とも呼ばれます。その魂の空虚さを埋めるものは、決してアルコールとクスリだけではありません。私も時々陥る過食も依存の一つですが、まさに心の空洞を食べ物で満たそうとするあり方だと思います。その他、ギャンブルや競争、金儲け、人や性への依存、カルトへの入信など、「依存者」は無数にいるのではないでしょうか。それでは、それらが依存症である「しるし」とは何でしょうか。それは、「やめられない、とまらない」ところにあると思います。
Kさんは、幼児期からの疎外感を紛らわすために、覚醒剤にのめり込みました。覚醒剤は、魂の渇きを劇的に癒やすかに見える。「吸った瞬間、頭と体に爆弾のようにドン!と来た。その瞬間の衝撃は忘れられない。安堵が全身に広がり、解放感で充たされる。」しかし言うまでもありません。快感は直ぐ失速し、次が欲しくなる。「やめられない、とまらない」の無間地獄が始まります。金も仕事も家庭も、全てを失ってもやめられないのです。「注射する前に、必ず自分に言い聞かせる。これ一本だけだ。もう絶対これ以上やらないぞ。これが最後の一本だ」、そう言い聞かせながら、一日に五度も六度も注射針を腕に刺した。
ヨハネ福音書の物語において、主イエスが井戸端で出会って下さったサマリアの女は、おそらく男性依存症の女性だったのではないでしょうか。彼女は五人の夫がいて、今は夫でない男と同棲しているのです。その女に主イエスは言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」(4:13)と。では、どうしたら、このまた渇く水・依存状態から私たちは救われるのでしょうか。経験者は人間の意志だけでは困難だと言います。その理由を、ある人は、依存を「霊的病気」だからと呼びました。これは宗教的病気なのだ、と言うのです。これは大変鋭い洞察です。
そこで私が思い出すのは、聖書には人間を三つの部分として捕らえる人間理解があることです。 使徒パウロは「霊と魂(心)と体」(テサロニケの信徒への手紙一5:23)、「プニューマ、プシュケー、ソーマ」と言いました。皆さんはこれを聞いてどう思うでしょうか。普通、人間は「心と体」で出来ていると思うのではないでしょうか。しかしパウロは、心と体以外に、もう一つの人間を作っている部分がある、それが「霊」だと、書くのです。
この「霊」の部分を「宗教性」、あるいは「霊性」と言い換えることが可能です。つまり神を感じる部分です。あるいは、この人間の「霊」(プニューマ)の部分に、同じ呼び名である、「聖霊」(プニューマ)を迎え入れる。そういう霊的器が、人間には元々存在するという信仰があるのです。しかも、私たちがその存在を忘れがちな「霊」が、パウロの手紙では、トップに出てきます。それは、人生の決め手を握るのは、実は、この「霊」の部分である、という確信ではないでしょうか。確かに、心に知識を蓄えたり、身体を鍛えたりすることは大切ですが、それだけでは、何か決定的なことが欠けている。プニューマには、プニューマが充満しなければ、人間は完成しない、パウロはそう暗示しているのです。
人間創造の神話にはこうあります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。この「命の息」とは、私たちに吹き入れられる、風の如き聖霊のことです。そうであれば、その吹き入れられた息(聖霊)はどこへ入ったのでしょうか。人間の第三の部分、霊の器を充たしたのではないでしょうか。創世記によれば、神の霊(息)を納める霊的器が、人間には最初から神様によって創造されているということです。「霊」の部分に、神の愛と恵みそのものである「聖霊」が充たされる時、私たちの霊的渇きは、ついに癒やされるのです。
そうであれば、その霊的器に入るべき、聖霊様が、もし入らないで、空洞のままだったら、私たちはいったいどうなるでしょうか。創世記では、それは泥人形に過ぎない、と言われています。具体的には、私たちは、寂しくて寂しくて仕方がなくなるのです。何をしても空しいのです。その激しい渇きのために、私たちはそこを埋める何ものかを、死に物狂いで探し始めるのではないでしょうか。そして、その空虚な部分に、隙があれば「はまり込もう」とする、同じく「霊」という名は付いていても、「悪霊」がこの世には余りにも多く跋扈しているのです。
そこで、麻薬の話に戻りますと、何故人は、麻薬に取り憑かれるのか、それは脳に作用するからです。脳の中では、化学物質ドーパミンやアドレナリンが生産されています。これらが所定の脳内「レセプター」と呼ばれる「鍵穴」にはまり込むことによって情報が伝えられ、神経が興奮したり血圧が上昇したりするそうです。
これらと全く関わりがないのに、たまたま構造の似た分子が存在します。幻覚剤LSDはドーパミンに似た分子構造を持っています。これを摂取すると、本来ドーパミンやアドレナリンが入るべき鍵穴(レセプター)にこれらの分子が入り込み、情報伝達を混乱させます。そのため、LSDを飲んだ人間は強烈な幻覚を見ることになります。あるいは、ヘロインは、健全な「脳内麻薬」と呼ばれる生成物質が結合する場所に「はまる」のが特徴です。脳内麻薬は全ての快感の元になる「快楽物質」です。ヘロインは脳内レセプターを欺して侵入し、強烈な快感を与えます。しかしそれは偽物であるために、人格崩壊など激しい害悪をもたらすのです。
福島の原発事故によって、私たちが覚えたのは、「放射性ヨウ素」という言葉です。子どもが成長のために必要とする健全なヨウ素は、甲状腺に集まります。しかし、原発事故時に放出される放射性ヨウ素と、健全なヨウ素を、甲状腺は区別出来ません。栄養と思って、吸収してしまうために甲状腺被ばくによる癌を招く原因になります。
これら、放射性ヨウ素や麻薬依存のメカニズムに似て、私たちの霊的レセプターに、「聖霊様」が入って下さらなければならない時に、形が類似しているためにはまり込む「悪霊」が存在するのです。それこそ「依存」なのではないでしょうか。だから、それは一時、宗教的、霊的救済を劇的に与え、深い安堵を人にもたらすのです。しかし、それは、やがて全てを滅ぼしてしまう、偽物に他なりません。
後にキリスト者となったKさんは証しします。「覚醒剤は当時の自分にとって神そのものでした。何故なら私は覚醒剤こそ、自分の全ての問題を解決してくれると信じていたのですから」と。
あるいは私は北支区の委員として「カルト問題」に取り組んできました。多くの青年たちが、今は改名されて「世界平和統一家庭連合」と呼ばれますが、元「統一協会」に入会しました。またその統一協会から枝分かれした「摂理」や「新天地」など韓国系カルトの虜になっています。どうしてそんな所にいそいそと行くのだろうと、私たちは訝ります。しかし、そこで信者たちは、私たちが教会に来た時に経験する祝福ととても似た経験するような喜びや祝福、強い生き甲斐を感じるのです。
統一協会からの脱会者、スティーブン・ハッサンは入信中の気持ちをこう書いています。「これほど「メシア」の近くにいるのはわくわくすることだった。この運動に関与出来たのは、信じられないほど幸運なことだと感じた。自分の行動ひとつひとつが歴史的・記念碑的な意味をもっているのだと思った。」
このようにカルト信者は、教祖から明確な人生の指針が与えられ、目的なき空しい人生から解放されます。教祖に従えば、自分の弱さや劣等感も、社会の矛盾や問題も全て解決する、そう教えられます。数年後に、理想社会が到来して、その時、君は、「神の国」の英雄として称賛されるだろう。そのために命懸けで戦えと、励まされる。統一協会も、摂理も、新天地も、私たちの教会と同じ「聖書」を用います。昔から統一教会は日本聖書協会の権威ある「口語訳聖書」を使っていました。礼拝形式も同じです。讃美歌を歌い、祈り、説教を聞きます。教会と何も変わりません。カルトは教会のパロディ、バッドコピー(劣化版)です。本来、「聖霊」が充満すべき「霊」の器を欺き、カルトは「悪霊」を注ぎ込む。そして人生の究極の目的と言って良い宗教的至福を与えるのです。しかし、それは、麻薬と同じく、やがて、信者の人格も社会の平和も、何もかも破壊してしまう悪魔の誘惑です。
七十六年前の大日本帝国もまた、天皇という現人神のもと、似而非宗教国家を創作しました。国民はマインド・コントロールされて、天皇のために生命を献げる殉国こそ、大和民族最高の名誉、靖国の英霊となる道と、信じ込まされました。まさにその時代、日本は、天皇を戴く「神の国」であると、自称したのです。つまり、天皇は、真の「神の国」の王イエス・キリストのコピーです。大日本帝国憲法、第一条はこう言います。「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治する」、第三条は「天皇は神聖にして侵すべからず」と。この憲法冒頭の言葉について、古屋安雄先生は、これは天皇をキリスト教の神のごときものとしようと意図したものだと断言しておられます。つまり国家神道・天皇制とは欧米のキリスト教の日本版でした。それは、現人神天皇を日本のイエス・キリストにする意図をもって作られたと言われるのです。日本人の「霊的器」に、イエス・キリスト、つまり創造主である神、聖霊様が君臨するべきなのに、悪霊・天皇がその座を奪い取りました。そのために、日本人は、侵略戦争を、神の国の「聖戦」と思い込まされ、八紘一宇、大東亜共栄圏の幻に、陶酔しました。カルト信者と何も変わりありません。しかし、それは歴史的に数十年の寿命しか持たない、直ぐ渇く水でしかなかったのです。
これとの関連で、ヨハネ黙示録が想起されます。「また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた」(12:3)。ここに登場する「大きな赤い竜」とは、「悪魔とかサタンとか呼ばれる、年を経た蛇」(12:9)です。これには、七つの頭と十本の角がある。その頭には七つの冠をかぶっている。その姿は恐ろしくもあり、実はとても魅力的なのです。何故なら、ヨハネ黙示録に登場する「小羊(つまり救い主イエス)は七つの角」(5:6)を持つからです。この赤い龍と小羊キリストは似ていると黙示録は描写します。つまり、この赤い竜は小羊を真似て登場したのです。だから人間は魅了されるのです。自分を救うものは、七本の角を持つお方と直感しているからです。ヨハネはこの赤い竜を具体的にはローマ皇帝と考えています。竜は、救い主キリストのように振る舞い、市民に悦楽を与え、その心を虜にしているのです。しかし正体は教会を迫害、破壊する反キリストに過ぎません。
あるいは、黙示録には「竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。」(16:13)という言葉があります。「竜、獣、偽預言者」とは、父なる神、小羊、聖霊の三位一体のパロディ、コピーです。三位一体の神こそ、私たちの根源的渇きを癒やすのです。だからサタンもまた三位一体の神の姿を真似て、人々の心を惹きつけるのです。その擬態を見抜くことが出来るのは、もはや本物の三位一体の神を知っている私たちキリスト者、教会のみではないでしょうか。
ヨハネ福音書に戻りますと、異性依存症のサマリアの女性は、主イエスに願いました。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(4:15)。その人生の中で、飲んでも飲んでも、直ぐ渇く水によって、悩み抜いてきたからです。この渇きを潤し、私たちに真の生き甲斐を与えるのは、三位一体の神・主イエスが与えて下さる霊なる水以外にはありません。
アルコールや覚醒剤依存者のためのリハビリセンターがありますが、普通、それらはどの宗教とも関係はありません。しかしそこは不思議なくらい宗教的です。そこに集う人たちは、自分を回復させる力は、自らの内にはなく、外から来る、と断言します。偉大な力である神・ハイヤーパワー(宗教的超越存在)に委ねるしかないと彼らは主張します。
Kさんは、センターの回復プログラムの中で、不意に胸の奥から、切ないものがこみ上げてくる経験をしました。「ああ、もう何もいらない。失うものは何もないんだ。それでも自分は充たされているから。」万感を込めた吐息が、吐き出され、胸が空っぽになったと思われた瞬間、待ち構えたように何かが入り込んでくるのを彼は実感しました。そしてこう思えた。「命があればそれでいいじゃないか。何もなくたって、大丈夫なんだよ」と。彼は、この経験を、魂の中の悪霊が、ハイヤー・パワーに入れ替わった瞬間の出来事だと言います。
あるいは、カルトからようやく脱会した人が、返って心の健康を損ねて、社会復帰出来ない状態が見られます。カルト・サーフィンと呼んで、カルトを次から次へと乗り移っていく、そういう問題行動を起こす人もいます。それは脱会して、一度、悪霊が追い出されたのは良いのですが、その後、その人の「霊」の部分が未だ空洞のままだったからではないでしょうか。
主イエスはこうも教えて下さいました。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。/それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。/そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」(マタイ12:43~45)。
そうであれば、カルトを脱会した、麻薬、アルコールを止めた、それだけで解決したことにはなりません。原発事故時、子どもたちに、ヨウ素剤が配られました。それは、甲状腺を健全なヨウ素で満杯にしておけば、放射性ヨウ素が、甲状腺に入ることを阻止出来るからです。私たちの霊の器も同じではないでしょうか。聖霊によって私たちの「霊」が充満していれば、もう何か、それ以上、別のものを探し回らなくてもよくなります。聖霊で一杯の魂には、もう他のものが入り込む余地はありません。私たちが何故、教会の礼拝や祈りを絶やさないことを奨励されるのか、その理由がここにあります。私たちの霊の部分に、三位一体の神、キリストの霊・聖霊を満たし続けるためなのです。
祈りましょう。 主なる神様、どうか、私たちを悪霊の誘惑から守って下さい。どうか、悪い井戸にもう汲みに行かなくも良いように、いつの日も、決して渇かない水・聖霊様で、この期節、私たちの魂を満たしていて下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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