2021年5月23日 聖霊降臨日「バベルの分裂、聖霊の一致」

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創世記11:1~9 使徒言行録2:1~13

彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。 (創世記11:4)

「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。/すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」 (使徒言行録2:3~4)

説教者 山本裕司 牧師

 今朝、使徒言行録における、聖霊降臨の物語と併せて朗読したのは、創世記に記される「バベルの塔」の物語です。ここまで毎主日、読んできました波瀾万丈のアブラハム物語も終わりが間近です。しかし今朝、そのアブラハム出立の地、その故郷を振り返ることによって、このペンテコステの礼拝としたいと思います。メソポタミアの南方、ユーフラテス川の畔、その荒れ果てた砂漠に一カ所だけ盛り上がった丘がありました。そこは地元の人たちが「瀝青の丘」と大昔から呼んできた小山がありました。今から百年前の1922年、大英博物館から派遣された考古学者は「瀝青の丘」と周辺の発掘を開始しました。そこに現れた遺跡こそ、人類最初の都市文明を生み出したシュメールの都、アブラハムの故郷ウルであったのです。その中心の丘こそ神話「バベルの塔」のモデルとなった「ジッグラト」(高い塔の神殿)跡でした。

 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。」(創世記11:3)

 この技術革新こそ彼らの自信を増長させた。レンガとアスファルト(瀝青)によって、これまでとは異次元の高層建築が可能となったのです。ですからその丘は「瀝青の丘」と意味も分からず数千年間、呼ばれてきたと言われるのです。その頂には月神ナンナルの至聖所がありました。偶像崇拝です。偶像への信心とは、私たちの理解では「人間崇拝」と表裏です。偶像とは人間の貪欲(もっと欲しいと思う心)の投影に過ぎません。人間の分を超えた欲望が寄り集まって、ついには神々という実態を形作るのです。それがバベルの塔でした。

 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った(11:4)。この「天まで届く塔」とは、人間が自力で神の位にまで昇ろうとする、アダム、エバ以来の原罪、自己神格化を表しています。「有名になろう」というのは、旧約聖書では主なる神をあがめる時に使われる言葉だそうです。「主の祈り」でも「み名をあがめさせたまえ」と先程ご一緒に祈りました。何よりも先ず、唯一の神をあがめる礼拝をすること、それこそが、被造物である私たちに最も相応しいあり方です。しかし、バベルの塔の建設者は、天体崇拝を利用しつつ、実は自分の名が全世界であがめられることを望んだのです。

 そのための具体的な塔の役割とは、臣民が「全地に散らされることのないように」(11:4b)することでした。ウルの権力者は、自分がせいぜい集落の長(おさ)止まりになってしまうことを恐れたのです。もっと欲しいと思う心、貪欲は「長」の地位に満足はさせない。王でも足りない。「現人神」として、大帝国の頂上に君臨するまで貪欲は尽きることはありません。その帝国統合のシンボルこそ「バベルの塔」であったのです。「バベルの塔」のモデルとなった塔は、最初のオリエントの覇者シュメールから、アッシリアへ、さらに、この「バベル」という名のもととなったバビロニア帝国によって増改築され続けました。帝国は、高い塔に象徴される中央集権と独裁によって国を固め、軍事力による侵略、資源の収奪、敗者の奴隷化と、さらなる肥大化を目指します。その時、異国人を支配し尽くすために、自分たちの言語を強制しました。76年前にこの世に存在した「大日本帝国」が、朝鮮を初めとする植民地に、日本語と現人神への偶像崇拝を強制した罪責、それを日本人は、忘れることは許されません。その時、主なる神は言われました。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。…我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」(11:6~7)。神の裁きによって言葉が通じなくなる、その結果、偶像による統合は崩壊し、民は故郷の言葉で「万歳!」と叫びつつ、崩れた塔の下から、全地に散らされて行ったのです。

 しかしここで、何も神様が降って来て言葉を混乱させる必要も実はなかったのです。人はバベルの塔を建て、自己神格化する時、人間同士の言葉が通じなくなるのは当然のことだからです。自分の「舌」を絶対化する者は、他者の話を聞く「耳」を持ちません。そのコミュニケーション不能の中で、バベルの塔は天に届く前に、必然的に崩れ始めるのです。かくして、シュメールもアッシリアもバビロンも大日本帝国も滅亡しました。ところがその後も、日本には、繰り返しバベルの塔再建が試みられてきたのです。今や、76年前の敗戦に続く、第二の原発敗戦、第三のコロナ敗戦のただ中の東京で、躊躇なく五輪を開催する、そう宣言する「IOC」というバベルの塔に、私たちの都は支配されているのではないでしょうか。沖縄も福島も「一つの言葉」に象徴される中央集権的言語から解き放たれることを願っているのではないでしょうか。自らの故郷の「方言」を用いて町の「明日」を自ら決断する、そのような「地方分権」を切望しているのではないでしょうか。

 アブラハムは偶像の塔による見せかけの「絆」を拒否し、唯一の主との確かな「絆」を求めて、あえて散らされた者(ディアスポラ)となるために、都ウルを去りました(11:31)。

 しかし、そこでです。今朝、聖霊降臨日を記念して読みました使徒言行録、そこにある教会誕生の物語から、改めて問わずにおれないのは、私たちは離散で終わって良いのかということです。私たちは、誰とも言葉が通じない放浪者となるために創造されたわけではない。人を支配するためではなく、互いに仕え合う愛の共同体を建設するために生まれてきたのです。

 「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(コリント一1:10)。

 その名の通り『バベル』という映画を観ました。どうして人間はこれほど言葉が通じ合わないのだろうか、その呻きが全編を満たす作品です。アメリカ、モロッコ、メキシコ、そして日本を舞台に、異なる世界が目まぐるしく映し出されます。しかしその差異を超えて共通するのは、まさに原罪の物語です。バベルの塔の下から、バラバラに散って行った者たちの末裔がさ迷っている、それが世界だと描写されます。日本を舞台とする映像は、最貧困モロッコと対照的に、バベルの塔の如き高層ビルが林立する光煌めく夜景です。しかしその人工的光と裏腹にろう者の女性の高校生が、孤独の闇に沈んでいる。彼女の母は突然自殺したらしい。バルコニーからの身投げだと娘は手話で主張し、父は銃によると証言する。わけがわからない。それは家族の中でも通じる言葉を持たないバラバラの世界を表現しているのです。だからろう者の彼女は、誰でもいい、体の関係でもいいから人と結び付きたいと願う。そしてその事件を担当してきた刑事を夜のマンションに呼び出します。彼は受け入れません。ラスト、気を取り直して彼女は刑事に手紙を託して別れます。それは長い手紙です。何が書いてあるかは、映画では説明しません。しかしその長い手紙に暗示されるのは、つまり「言葉」です。その手紙を刑事が居酒屋でじっと見詰め続ける姿が、強い印象を以て迫ってくる。そこには、人と人が真に結ばれる「言葉」を回復したいという切なる祈りが込められているのです。

 私たちも同じです。言葉が通じ合う喜びを渇望している。その真の言葉はどこに生まれるのでしょうか。その問いに答えようとするのが、ようやくこの祭日、話がここまできましたが、聖霊降臨の出来事なのであります。「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒言行録2:3)。天から、バベルの混乱を癒やすために降ってくる聖霊、その御力によって私たちは母なる共通語を回復する。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。/すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(2:3~4)。

 聖霊様とは「炎のような舌」であります。それは他者を支配するバベル的冷たい言葉ではありません。熱き言葉です。愛の言葉です。祝福の言葉です。注解書には、この使徒言行録の特徴を、多くの説教が含まれていることだと書いてあります。使徒言行録には節が約一千、その内の三百節が説教だそうです。それは炎の言葉の出現を意味します。
 もう一つ聖霊の描写として、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、…家中に響いた」(2:2)とあります。どんなに熱き言葉が語られても、聞く耳が開かれなければ、言葉は通じません。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた(2:13)。そういう冷たい反応が残るだけです。聖霊は、風が吹く音が聞こえるように、熱き言葉を聞く、その耳を開く力でもあります。「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(2:8b)。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(2:11b)と、「聞く」と繰り返されます。炎のような舌と、風の響きを聞き取る耳、その両者が揃って、神の言葉が語られ聞かれる礼拝が始まります。「兄弟が共に座っている」(詩編133:1)、その「礼拝共同体」によって、私たちの言葉喪失の原罪が贖われ、そこに祝福の教会が出現するのです。まさに「教会」(エクレシア=会衆)は「離散者」(ディアスポラ)の反対語であります。

 「家の上の部屋」(使徒言行録1:13)に泊まっていた「ユダヤ人」は、「天下のあらゆる国から帰って来た」(2:5)人たちとあり、彼らの出身地が列挙されています(2:9~11)。ユダヤ人はその過酷な歴史の中で、先に挙げた、バベルの塔が聳えるアッシリア、バビロニアなどの大国に何度も蹂躙され離散しました。そして世代を重ねるにつれ故郷の言葉を失っていったのです。そのようなバベルの呪いの下にあるようなユダヤ人に、聖霊による「熱き言葉」と「聞く耳」が与えられた。「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(2:6b)。そうやってついにバベルの呪いが解けたのです。

 塔の建つウルを去ったアブラハムに神は約束されました。「あなたを大いなる国民にする」(創世記12:2)と。これは教会において現実となりました。今、教会の民は世界のどこを旅しても、どれ程言葉も文化も違っても、「聖書」という万国共通語によって、瞬時に一つになれるのであります。そうであれば、もはや私たちはバベルの塔を東京に建てる必要はない。そこに偶像・聖火を高く灯す必要はない。それを「団結の象徴」(菅義偉)、「分断された人々の間に絆を取り戻す」(丸川珠代)などと言う言葉に惑わされる必要はない。何故、コロナ感染爆発のこの期に及んで五輪は中止とならないのでしょうか。識者は、政府は改憲を狙っていると指摘するのです。安倍晋三が言ったように、五輪によって国民は一丸となり、戦時下のような一億総動員体制化を進めたいからこそ、やめるわけにはいかないのだと。IOCの理由は「金、金、金」だそうです。今回の東京オリンピック誘致によって、五輪とは平和の祭典ではなく「バベルの祭典」であったことが決定づけられました。五輪ではなく、聖霊漲る教会こそ、平和を作り出す共同体です。聖霊の炎は「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒言行録2:3)のです。その意味は、多様であって一つである、一つであって多様である、その内実は「支配」でなく「仕え合う」交わりです。主イエスの十字架の下でだけ、その奇跡の共同体は建つ。ここに招かれた私たちの祝福を思う!

祈りましょう。 主なる神様、人の空しい言葉に絶望する時代のただ中にあっても、熱き言葉とそれを聞く耳が、このペンテコステの日に、私たち与えられた、その恵みを感謝します。全ての人の故郷である教会の塔を高く掲げ、祝福の源となることが出来るように、愛する西片町教会に聖霊を益々充満させて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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