2021年5月2日 主日朝礼拝説教「神は子どもの泣き声を聞き」

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創世記21:9~21 ヨハネ福音書7:37~38

 神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。」(創世記21:17)

 イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ福音書7:37b)

説教 山本裕司 牧師

 先週、私たちはアブラハムとサラ、その老夫妻に新しい命イサクが与えられた箇所を読みました。創世記21:6「サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」」先週はこれを「無からの創造」という神学を用いて、笑いを失った家に、イサクという「笑い」そのものが創造されたと語りました。「創造」と言えば、私たちは創世記冒頭の最初の人間アダムとエバを思い出します。無垢であった彼らもエデンの園で笑い戯れていたことでしょう。しかし物語は直ぐ創世記3章に至り、二人は蛇の誘惑に合って堕落し天真爛漫な「笑い」は園から消えてしまったのです。

 それと似たことを私たちは今朝の物語から感じるのではないでしょうか。創世記21:9~10aにこうありました。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、/アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。…』」子がどうしても生まれなかった夫妻は奴隷ハガルを「代理母」としてイシュマエルを得たのです。母違いの兄イシュマエルが弟イサクを「からかっている」とありました。虐めているとも取れる訳ですが、そうであれば、イサクの母サラの怒りも、一応分かります。しかし実は「からかっている」この語幹は「イサク」と同じ「笑う」という言葉が用いられています。ですから、この21:9は、ハガルの子が「笑いという名のイサクと笑い合っていた」そういう語呂合わせとしても読めるのです。新しい共同訳は「遊び戯れている」としています。

 そうであれば、サラの怒りは何だったのでしょうか。サラは自分自身の最愛の子イサクと奴隷の子を「同じ」と考えることは出来なかったのです。21:10b「あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」と。母サラにとって、この兄弟の命の重さは同じであっては困ると言うのです。ところが、二人の子の方は、どちらが上も下もない、同じ兄弟として楽しく遊び戯れているのです。しかしその同じであることがサラにはむしろ目障りなのです。このままいけば、ハガル母子はイサクと同じ「対等の権利」を求めるに違いない。それどころか世の常に従って長子であるイシュマエルが家督を継ぐことになるかもしれない。それを恐れました。サラは、イサクこそが正妻である自分から生まれた正統なアブラハムの世継ぎなのだと、この家の危機を芽の内に摘み取ってしまいたかったのです。

 もう一度、サラの訴えを見ると、21:10「わたしの子イサク」とは言いますが、一方「あの女とあの子」「あの女の息子」と長子の名を決して口にしません。そうやって、「わたしの子イサク」と同じではないことを強調するのです。この訴えの時聖書にはありませんが、イサクこそ神の約束の子であり、アブラハムに与えられた神の祝福を受け継ぐ子であるという、その「御心」をサラは主張したに違いありません。主御自身がここで、アブラハムに、21:12b「あなたの子孫はイサクによって伝えられる」、そう言っている通りです。サラは自分こそがこの約束を冷笑し、ハガルに子を産ませたにもかかわらずです。それでいて人は、よく聖書にこう書いてあると、これが御心だと主張し、それを人を裁く道具にさえするのです。何と人間とは身勝手なことでしょうか。

 一方、アブラハムも、勿論イサクが神の約束の子であると知っています。しかし同時に、彼にとっては、サラと違い、21:11b「その子(イシュマエル)も自分の子であった」のです。だから、21:11a「このことは、アブラハムを非常に苦しめ」ました。彼は、サラとハガル、イサクとイシュマエル、そして神の御心と自分の親心の「板挟み」にはまってしまって身動きも取れません。家族問題を複雑にするのは、この「あちらを立てればこちらは立たず」という、正解なき「板挟み」が生じるからです。このような解決不能の家庭問題に陥ったのも、もう一度言えば、跡継ぎについての神の約束を信じず、人間の知恵に頼った、その裁きをこの家は今受けているのです。私たちの家にとっても本当に身につまされる話ではないでしょうか。そうやってこの家から、堕落したアダムとエバ、そしてその息子たちカインとアベル、この最初の家族と似て笑いが消える。神様の創造の御業である笑いは、人間が御心を聞かない、その高慢、その原罪によって、それぞれの家から消されていくのです。

 その家の子イシュマエルの心はどうなったでしょうか。梶原寿先生による翻訳『マーティン・ルーサー・キング自伝』の中に、キングの幼い頃の経験が書かれてあります。「三歳の時からわたしには同い年の白人の遊び友達がいた。私たちは毎日一緒にゲームをして遊んだ。ところが六歳になって別々の学校に入ることとなり、それとともに私たちの友情が壊れ始めた。そのクライマックスは、彼がある日、父親がもうこれ以上私と遊んではいけないと言ったと告げた時に、やってきた。このことがどんなに大きな衝撃であったかを、私は決して忘れることはできない。「どうして」と両親に尋ねたことによって、初めて、私は人種問題の存在を知った。両親はこの問題によって起こった数々の悲劇について話してくれた時、私は恐ろしい衝撃を受けた。」

 イシュマエルもこの時、何故もうイサクと遊んではいけないのと、どうしてぼくは家を出るのと、母に尋ねたことでしょう。ハガルはその時初めて、創世記16章の出来事を話して聞かせたに違いありません。「イシュマエル、未だお前がお腹の中いた時に、お母さんは、この家から荒れ野に逃げる他なかった時があったのよ」と。そう家庭の秘密を子は聞いて、キング同様に、恐ろしい衝撃を受けたことでしょう。子どもたちにこんな思いをさせて、二度と天真爛漫な笑いを出来なくさせるものこそ、差別なのであります。

 この苦悩の中のアブラハムに神は言われます。21:12「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」

 「サラが言うことに聞き従いなさい」、サラが言うことに聞き従うことを求める、神の言葉に聞き従う、それが解決の唯一の道だと神様は言うのです。それが出来たら世話はないのです。21:10のサラの言葉を聞いて、二人を砂漠へ追い出すことは、母子を灼熱の太陽の下で殺すも同然でした。しかし神様は人間の罪を用いて、救いの歴史を切り開くお方なのです。人間の罪が頂点に達した、二千年前のエルサレムで、やはり神の家の跡目争いが起こったのです。その時、大祭司は自らの神殿支配を守るために、御子イエスを、その父の家から追放し殺す。しかしその人間の罪を用いて、神は罪の赦しの道を切り開かれた。そのような仕方で、神は全人類にアブラハム以来の祝福を与えようとなさったのです。その余りにも深い知恵を私たちは予め知ることは決して出来ません。私たちに出来ることは、ただ自らの知恵を捨てて、イシュマエルの名の由来である「聞く」こと、神の言葉に聞き従う他に解決の道はないのです。

 使徒パウロも言いました。ローマ10:17「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 信仰の父アブラハムは、21:12,サラを通して語る神の言葉を聞きました。それは「追放」でした。しかしそのサラの罪を用いて、むしろ神は二人を、この差別の家から、解き放とうとしておられるのです。21:13「しかし、あの女(ハガル)の息子も一つの国民の父とする。彼もあなた(アブラハム)の子であるからだ」と。

 アブラハムはここで自分の知恵を捨てる。人間の知恵に頼ったために、ハガルとイシュマエルの根本的な苦しみを作ったのですから。彼はここで、パウロが言うように、聞くことに徹する。そして神のご計画に委ねるのです。しかしそれは父アブラハムにとって身を切られる程苦しいことでした。しかしそれは父なる神が、御子を御自身の家から追放し、都の外に十字架につける、御子はそこで「渇く」と呻かれた。それを見る神の痛みを、遠くから指し示しているのです。そのやり方を以て、イシュマエルに約束したことと似て、御子が全国民、全人類の父となるためであったのです。

 21:14b「ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。…」

 砂漠をさ迷ううちに、母子は渇き切ってしまいました。21:15~16「革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、/「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。」その頃、家ではサラとイサクが笑っていたのでしょうか。一方ハガルとイシュマエルは泣くばかりでした。

 しかし神は勝ち誇った笑い声でなく、泣き声を聞かれるお方なのです。21:17~18御使いは言いました。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。…わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」繰り返します。神様は私たちの泣き声を聞いて下さるのです。それが「イシュマエル」という名と重なるのです。この物語にイシュマエルの名は避けられていると先に指摘しました。しかし実は、そのように、その名を隠すことによって、むしろアブラハムが神の言葉を聞く、そして神様が、子どもの泣き声を聞く、そう何度も、イシュマエルという名をこの物語は暗示するのです。ことによって、その名を際立たせている、その「聞く」という名に込められた信仰的意味を浮かび上がらせているのです。そうやってイシュマエルは差別され捨てられるべき子ではなく、掛け替えのないアブラハムの子なのだと、聖書は語ろうとしているのです。

 21:19~20「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。/神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。」

 イスラムではイシュマエルという名はこの上なく重んじられています。メッカの泉への大巡礼(ハッジにおけるザムザムの泉への旅、それは荒れ野に追われた、このハガル、イシュマエル母子の苦難を追体験する巡礼だったのです。イスラムの伝統では、イシュマエルを全てのアラブ人の先祖となりました。21:13「あの女(ハガル)の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」その通りとなりました。

 そしてこの物語はハッピーエンドとなりました。21:20~21「神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。/彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のためにエジプト人の妻をエジプトの国から迎えた。」カナンのアブラハムは、イシュマエルが立派になって、ハガル縁故のエジプト人の妻も迎えたと風の便りに聞いたことでしょう。そして、あの時は死ぬ程苦しんだが、ああやっぱり神の言葉を聞いて良かったと、その時、久し振りに笑えたのではないでしょうか。

 今、イサクに属するユダヤ教やキリスト教文化圏と、イシュマエルに属するイスラム文化圏が、対立関係にあるという見方もあります。過激派のテロや紛争が、そのわだかまりに拍車をかけています。しかしそれは、同じ父から生まれた子どもたちから、もう一度天真爛漫の笑いを奪う行為です。21:9、ただ愛しか知らなかったイシュマエル、イサク兄弟が、母の違いを超えて、何のわだかまりもなく笑い戯れていた。この原罪を知らない幼い二人の子ども、この心、この原初に私たちも戻ろうではないか、そこでイシュマエルもイサクも同じく愛して下さった父なる神の御言葉に耳を澄まそうではないか。そうやって私たちも和解することが出来る、そうやって世界に笑いが甦るであろう、そう神は、文明の衝突によって、いつ恐ろしい戦争が勃発するか分からないような、私たちの世界に語りかけておられる、そう思います。

 祈りましょう。 主なる神様、原罪の子として、争いを次々に作り出す私たちを憐れみの内に覚えて下さい。そのために兄弟同士が分かたれ、家庭は崩壊し、笑いは失われ、泣き声しか聞こえない私たちの世界を救って下さい。どうか平和の主であるあなたの御声を聞き従い、笑いを家庭に世界に満たす教会の働きを聖霊を以て導いて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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