2021年5月16日 主日朝礼拝説教「信仰者の墓」
https://www.youtube.com/watch?v=Eji3ZbwgAkU=1s
創世記23:1~20 ヘブライ11:13~16
「その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。」(創世記23:19)
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブライ11:13)
説教者 山本裕司 牧師
先週読みましたイサクの奉献は、アブラハム物語の頂点でした。ここからの物語は急速に終わりへと向かっていきます。今朝は「サラの死と埋葬」の記事を読むことになりました。アブラハム夫妻の一生は文字通りの「旅人の人生」でした。故郷ウルからハランを経て、カナンへと進みました。飢饉のために遠路エジプトまで避難したこともありました。約束の地カナンにおいても、遊牧民である彼らは定住することはありませんでした。シケム、ベテル、ベエル・シェバ、ペリシテ(ゲラル)、そしてヘブロンと天幕一枚を携え、夫妻は苦楽を共にしてきたのです。アブラムはいつもそこにいた旅の同伴者、その妻の死に際して、万感胸に迫るところがあったことでしょう。23:2「胸を打ち、嘆き悲しんだ」とあります。これまでこの物語を読んできたように、二人は決して聖人ではありません。その旅の中で、連れ合いに対しても、神に対しても罪を犯してきました。流れ者が生き延びるためとはいえ、アブラハムは妻を妹と二度までも偽りました。そして王たちに貢いだ、それが思い出す時、「ああ!」とアブラハムは声を上げるのを押し殺さずにはおれなかったと思います。私たちも数十年前であっても、自分が家族や友達にした冷たい仕打ちが、フラッシュバックのように思い出される。そういう経験を、年をとるにつれて多くするようになる。その時の相手の寂しそうな瞳を思い出して、いてもたってもいられない。やり直せたらと思っても友達がどこにいるかも分からない。死ぬ前に何とか探し出して友情を回復したいと思うのではないでしょうか。この夫妻にとって忘れられないのは、奴隷ハガルとその子イシュマエルの記憶に違いありません。天幕から追放され、砂塵の向こうに消えていった母子の頼りなげな背中、その記憶は、夫妻にとって生涯の傷となったことでしょう。神様に対しては、約束の言葉を信じられなくてあげた醜い苦笑い、それは、信仰の父母と呼ばれる夫妻にとって、痛恨の記憶であったことでしょう。やがて約束通り「笑い」という名のイサクが生まれる。夫妻の笑いは爆発した。ところがアブラハムは、イサクを焼き尽くす献げ物とするためにモリヤの山に登らねばならなくなる。妻には秘密にした。父子は「主の山に備えあり」、その恩寵によって無事に天幕に戻りましたが、その顛末を知った時のサラの怒りは激しかったに違いありません。アブラハムがいくら神様に聞き従うためだったと弁解しても、サラは「いえ、神がイサクを奪うなら、神のいない世界に私とあの子を連れて行って!」と叫んだのではないでしょうか。かくして信仰の世界でも愛の世界でも、心と心が擦れ違うことも多かった、いつ空中分解してもおかしくなかった夫妻の家だったのです。
それでも夫妻は添い遂げました。家庭崩壊を免れた。それは彼らの愛が勝ったからではない。主がこの荒れ野を旅する夫妻を選び共にいて下さったからです。ただ荒れ野の主ヤハウエを信じる信仰のみによって、晩年の夫妻は祝福の内に包まれたのです。私たちの家もそうなのではないでしょうか。互いの罪も恥も主にあって赦し合い、主の故に悲しみを乗り越えて、やがて祝福と笑いが、潮のように満ちてくる。それが信仰者の家庭です。それだけにこの別離の悲しみは、アブラハムにとって深かったと思う。しかし彼は、この時もまた荒れ野の主の慰めによって、涙を拭って立ち上がる力をも得たのです。23:3「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり…」とある通りです。
アブラハムは愛する妻を丁重に葬りたいと思った時、旅人には墓地がないことに気付きました。流れ者の悲哀です。この時アブラハムはヘブロンに天幕を張っていましたが、そこはカナン先住民ヘト(15:20)の土地でした。アブラハムは彼らに願いました。23:4「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」ヘトの人々は彼に答えました。23:6『どうか、御主人、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません。」
アブラハムは何の権利も持たない寄留者です。しかしヘトの人々はアブラハムが、23:6「神に選ばれた方」と認識しました。連続講解で飛ばしてしまいましたが、21:22(旧30頁)以下に、ペリシテの国にアブラハムが寄留した時、彼の掘った井戸をその地の王アビメレクの部下たちが奪った、そういう事件がありました。その時王はアブラハムを訪問して友好条約を結びます。王はそのしるしとして、井戸をアブラハムの所有と認めて言いました。21:22「神は、あなたが何をなさってもあなたと共におられます。」このように、アブラハムは、どこへ寄留してもその地の人々が敬意を表さずにおれない、宗教的カリスマとして描かれています。
しかしこれはアブラハムにだけでなく、「神が選び」「神が共にいる」隣人を、私たちは誰であっても大切にしなければならない、そのことが言われているのではないでしょうか。夢を持って来日した33歳のスリランカ人女性が名古屋出入国管理局に収容され、まともな医療も受けられないまま死亡したと報道されています。見殺しにされたとの疑いがあります。しかもこの事件の最中、難民に対するさらなる過酷な仕打ちとなる、法改正を日本はしようとしています。寄留者であっても、私たちは、その人の背後に、主なる神がおられると知らねばなりません。それが律法の心です。申命記10:18~19(神は)「寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。/あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」いやこの人は信仰がないのだから、アブラハムとは違うと言うかもしれませんが、しかし私たちは、創造主が全宇宙にただお一人しかいないと信じています。そうであれば、外国人だろうと、別の宗教の信者だろうと、私たちの「唯一神」への信仰からしたら、この人の命を創造したのは主イエス・キリストの父なる神です。その人がたとえ創造主を知らなくて、それとは無関係に、父なる神は、アブラハム同様に、この人を選び共にいて下さっているのです。だから寄留者を敬わなければならないのです。この私たちに与えられた「唯一神信仰」こそ、村社会の内向きの倫理を超える、普遍国際的倫理を生む源なのです。
勿論、ヘトの人々には、主イエスほどの隣人愛はなかったことでしょう。注解は創世記23:5以下に長々と記される土地取り引き交渉には、ヘト人のユーモラスとも言える、巧みな打算的駆け引きがあると分析しています。しかしそれでも彼らは入管のように冷酷ではなく、寄留者であっても神に選ばれた者への敬意を忘れません。どちらが文明人でしょうか。結局、アブラハムは、ヘト人エフロンの土地を、大変な高値ですが、23:16「銀四百シェケル」で買い取ることが出来ました。これが、先の井戸を抜かせば、アブラハムがカナンで得た唯一の不動産となりました。
創世記23:17~19「こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴(は)、…アブラハムの所有となった。その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻サラを葬った。」「マムレ」とは、三人の御使いをアブラハムが迎えた由緒ある地です。「マクペラ」とは「二重」という意味なので、二つの洞穴があったのかもしれません。この墓には、やがてアブラハム自身も、息子イサクと妻リベカも入ります。孫であるヤコブはエジプトで死にましたが、わざわざミイラにして、彼の息子ヨセフの手によってこの墓に葬られるのです。これはヘト人が言うように、神に選ばれた神の祝福の継承者の墓であり、唯一の神、荒れ野の主ヤハウエに服従した「信仰者の墓」なのです。
元々、神様はアブラハムと子孫にカナンなど広大な土地を与えると誓われました(13:14~17、15:18~19)。確かにやがて奴隷の国エジプトから脱出したイスラエルの民は、モーセに導かれ、アブラハム以来の約束の地カナンに入りました。そして、このヘブロンでのアブラハムへの恩も忘れて、ヘト人などカナン先住民に襲いかかり、激しい戦争の末、勝ち取った土地に王国を築いた。しかしそれが果たして神様のアブラハムへの約束の成就だったのでしょうか。そういう理解もあるかもしれません。しかし聖書は、むしろ土地取得後のイスラエルとその王国の不信仰を問い続けるのです。そして、聖書はマクペラの墓に入った、むしろ最後まで旅人として生き抜いた、アブラハム、イサク、ヤコブ、その荒れ野の旅人の姿にこそ、信仰者本来のあり方を見ていると思います。また出エジプトの民の荒れ野放浪四十年間、その、ただ神の恵みによってのみ生きる民の姿、そこに信仰の原点があると強調されています。土地を得ることや王国建設は、むしろ堕落に繋がったという理解が聖書にはあります。先の申命記律法は、むしろカナンを領土として定住したイスラエルの民が、自分たちが寄留者であったことを忘れ、寄留者を軽んじた、それを戒めることが目的であったのではないでしょうか。
私たちは先週、入管問題と共に、もう一つ報道に心を痛めたのは、イスラエル軍のガザ攻撃です。報復攻撃の応酬と言われますが、子どもも含めた圧倒的多数の死傷者が出ているのはパレスチナ人の方です。これはまさにカナンの土地は誰のものかという問題です。子どもの死を嘆く母の姿を見ると、まさに土地への貪欲ほど恐ろしいものはないと思います。
『人はどれだけの土地がいるか』、そう問うトルストイの民話があります。主人公パホームは小作です。確かに貧しけれども心穏やかに生きてきました。しかし彼は少しでも自分の土地があればとずっと願っていたのです。悪魔はそこに付け入ります。急にパホームは運が向いてきて、近隣の土地を手に入れて大喜びしました。ところが、周りの百姓たちの家畜が、自分の土地に入り込んで踏み荒らされることが続く。そうなってしまうのも、彼らの土地が狭かったからで、何の悪気もなかったのです。これまではお互い様だよと済ましていたのに、パホームは初めて怒りを覚え裁判に訴えました。そして勝訴し相手に罰金を払わせたのです。それで彼らはパホームを怨むようになり、近隣同士の争いが絶えなくなりました。そんな時、彼は旅の人から遠い国に手つかずの土地があると聞いて出かけます。そこはバシュキール人の広大な土地でしたが、彼らは遊牧民なので、土地への執着はまるでありません。彼らはパホームを大歓迎して、希望通り格安で好きなだけ土地を分けてくれると言います。しかし昔からの風習で日の出から日の入りまでの間に、歩いてまわった分だけの土地が手に入ると言うのです。パホームはその晩、広い土地が手に入った後の計画を夢想し、殆ど眠れませんでした。その寝不足の中で、彼は村長らに見送られて、日の出と共に丘の上から出発しました。とにかく大きな面積で土地を囲もうとパホームは歩き続けます。途中で疲れて眠気が襲ってきても休みません。午後となって、もう戻らなければと思った時、しっとり湿った窪地が少し先にあるのを見つけて、あそこなら亜麻がよく出来るだろうと、捨てられない。ぐるっと窪地を回った時、太陽がもう西に傾いているのを知りました。彼は焦りに焦って走り出した。しかし丘は余りにも遠い、足はもつれ呼吸が切れた。彼が出発点にようやく近づいた時、日は物が落ちるような速度で沈んでいく。丘を最後の力を振り絞って駆け上がって、出発点に倒れ込んだ。その直後に日は沈んだ。村長は、よくやったと大笑いして彼を迎えた時、パホームは口から血を流して死んでいました。悪魔も村長と一緒に大笑いをしていた。下男はシャベルを手に取ると、その土地に墓穴を掘って、今地主になったばかりのパホームを埋めた。「人にはどれだけの土地がいるか」、それは人一人横たわるだけの面積であった、そういう物語です。トルストイ自身が、このバシュキール人の土地を旅して、彼等の解放された生き方に感銘を受けて、この民話を書いたと言われています。そしてこのパホームの死と、バシュキール人の土地を奪い取った、ロシア帝国の末路とを重ね合わせていたと解説されるのです。
先にも言いました。アブラハムがマクペラの墓を約束の地に所有としたことを、やがてカナン全土をその子孫が得る、その兆しと捉える理解はあります。しかし今朝もう一箇所朗読した、新約聖書ヘブライ人への手紙11:13はこう書きました。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」そして教師は続けます。その故郷とは、その土地とは、天のことだと、「神は、彼らのために(その)都を準備されていた」、そう言うのです。この教師の理解では、ウルを旅立ったアブラハムに約束された祝福とは、カナンにもう一つバベルの塔の建つ都ウル、それを建設することではありませんでした。そうではなく、彼らに約束された地とは、天の故郷のことだと言うのです。アブラハムの所有の墓、それはカナン先住民を、ミサイルを夥しく発射して、追い払い占領する、その端緒を意味したのでは決してありません。それは呪いにこそなれ、祝福とは決してなりません。そうではなく、新約聖書でのマクペラの墓とは実は「天国の門」と暗示されているのです。その「門」こそ私たち「信仰者の墓」なのです。「人はどれだけの土地がいるか」、地上では仮住まいの私たちは、アブラハムとサラ、その夫妻に倣い、自分の亡骸が入る墓の分だけを残して地上を去りたい。そして真の神の約束の地、天の故郷に、主イエスによってもう自分の家が用意されている、それを信じて、私たちはこの地上の旅人の人生を、安心して続けたい、そう願います。
祈りましょう。 主なる神様、私たちは、目に見える地上の土地に安心を見いだそうとする者ですが、必要以上の貪欲にかられ、むしろ呪われてしまう私たちの世界を憐れみのうちに覚えて下さい。あなたは既に星のように、海の砂のように多くの人々を、迎え入れるに足る広大な天の都を備えて下さっている、そのことを信じて平安の内に、この地上の旅を続ける私たちとならせて下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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