2021年4月4日 復活日朝礼拝説教「破られた死の封印」
https://www.youtube.com/watch?v=qU7DdTcxSnE=1s
雅歌8:6(旧1058頁) マタイ福音書27:62~28:6(新59頁)
「わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として。」(雅歌8:6)
「そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。」(マタイ福音書27:66)
説教者 山本裕司 牧師
私たちを囚人のように閉じ込める力は多くあります。肉体の痛み、その激痛一つで私たちは自由を失います。心の痛みもあります。その時も、肉体がどんなに健康であっても、身動きは出来ません。また現在のコロナ禍においても、既に一年以上、私たちは時に外出もままならない、都市封鎖に近い、閉じ込められるような経験をしてきました。そして何よりも強力に私たちを縛るのは死です。高度な医学であっても、最後は死を回避することは出来ません。どんな人間の愛も執着も役にたたない。やがて墓の中に閉じ込められる。私たちは死の虜です。
金曜の夕、主イエスもまた墓に葬られました。このイエスの墓というのは、岩を横に掘った洞穴のようなもので、そこを大きな石で塞いだものでした。先ほど朗読したマタイ福音書27:65以下を見ると、祭司長たちは、さらに番兵を配置し、その石に封印を施してしています。3・11で被災された経験をお持ちのカトリックの信仰者である仙台の医師・山浦玄嗣(やまうらはるつぐ )先生のまことに生き生きとした聖書翻訳によるとこうです。
「そこでその人たちは行って、墓の横穴の入り口の石扉(いしとびら)の閉じ目に蝋を垂らし、そこに判子を捺して、許しなく開けるべからずという印(しるし)にして、その前に宮守の衛士(えじ)どもを置いて、見晴らせたのでござった。」
これを翻訳された時、山浦先生も、その家族、友人たちも、津波被害や放射能汚染によって、まさに心も体も石扉に塞がれてしまう、そういう経験をされていたと思います。イエス様の塞ぎ石、それだけでも、とても動かすことなど出来ない大きさであったと言われています。ところがそれだけでは、権力者たちは不安だったのです。興味深いことは、このイエス様の墓に番兵(山浦先生の訳では衛士)が置かれたこと、墓石の封印、山浦先生によると、閉じ目に蝋を垂らし、そこに開封厳禁の判子を捺した、という理解ですが、それを記録しているのは、四つの福音書の中でマタイだけです。塞ぎ石と番兵と封印、マタイはこう強調しながら、何を暗示したかったのでしょうか。それは、死の封鎖の強力さということに違いありません。死ぬと人は墓に隔離される。出口に厳重なバリケードを築かれ、死の封印をされて、出て来ることは許されないのです。しかし、マタイはそういう死の「絶対的」な拘束を書きながら、本当に言いたかったことは、主イエスだけは、違ったということです。二重三重に及ぶ、主を墓の中に閉じ込めようとする罪と悪魔と死の築いた壁を、復活の朝、主は蹴破って出て来られる。どんな重い石も無駄だ、と。
マタイ28:2bにはこう記されています。「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」その天使は、28:3「稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」と続く。それは命の純白の光です。その生命力の塊である天の使いが、墓石の上に座ったということは、その墓石と闇の力に、命と光の力が勝ったことを表すのです。ここも山浦先生の訳では、御使いが、「あの大きな石の蓋を苦もなく脇へゴロリと転がし」たとあるのです。圧倒的な命の力が「苦もなく」という言葉に表現されています。また墓に誰も近寄らせないと思われた屈強な番兵(衛士)こそ、逆に28:4b「死人のようになった」とあり、無力な存在でしかないと言われています。甦りの命の爆発力に対抗できる死の力、悪魔の力、罪の力はないと、どんなに主を墓に閉じこめようとする企ても無駄だ!そうマタイはここで力強く、復活の勝利を歌い上げているのです。
私はここで再び、16世紀のドイツを生きた画家グリューネヴァルトの祭壇画を紹介したいと思います。そこには十字架上のキリストが描かれています。イエスの手足は釘付けにされ、その痛みに耐えかね、指先がかっと開かれ痙攣している。感染症の罹患がその姿に暗示させていると解説されます。皮膚はただれ黒ずみ、激痛に縛られ、微動だに出来ない瀕死のキリストの姿がそこにある。ところがこの多翼祭壇画の内側に収められているのは、同じ画家が、主イエスの復活の瞬間を描いた作品です。復活のイエスは、闇の中に、太陽のような光を背にして怪しいほど光り輝いています。そして、石棺から垂直に脱出し、今まさに空中に浮かび上がった所です。その周辺には、吹き飛ばされた番兵たちが死人のように倒れている。背景に描かれる巨大な墓の塞ぎ石に象徴される、死の鉄鎖(てっさ)の如き人間を縛り上げる束縛、それが復活の太陽の如き巨大エネルギーの爆発によって、断ち切られてしまった、その様を闇の中に燃える火の玉で描写するのです。今や、キリストは死の万有引力からも解放されて、微笑みを浮かべて空中浮揚するのです。
この祭壇画は元々、イーゼンハイムにあった、聖アントニウス会修道院付属施療(せりょう)院にあったものです。中世ヨーロッパでは麦角(ばっかく)菌に汚染されたライ麦パンによる中毒がしばしば起きていました。聖アントニウス会の修道士はこの麦角中毒の治療に優れていました。そのためヨーロッパでは麦角中毒は「聖アントニウスの火」とも呼ばれました。この聖アントニウスの火に犯されると、特に神経系が麻痺して手足が燃えるような感覚となる。手足は痙攣し壊死に至って死ぬのです。また祭壇画左パネルには、何本もの矢が刺さった聖セバスティアヌスも描かれています。聖セバスティアヌスはペスト(黒死病)患者の守護神でした。今回私たちが学んできたように、ヨーロッパ諸都市は繰り返しペストの感染爆発に襲われてきました。彼らは都市封鎖と外出禁止令の中に閉じ込められました。それでもペストは家の中にまで飛び込んでくる矢のように人々に突き刺さり、夥しい人を殺していきました。そう、セバスティアヌスに突き刺さる矢で暗示した、グリューネヴァルト自身が1528年にペストで死んだのです。
その恐るべき感染症などの試練の中にあった中世末期、人々はレントの期節、聖アントニウス会修道院の礼拝堂に入る度、祭壇画に描かれる主イエスの凄惨な死と、自らを重ね合わせたに違いありません。そして主イエスもまた、私たちと一緒に、麦角中毒とペストに冒され、崩れゆく肉体に耐えて下さっている。私たちは決して一人ではないと感じたに違いありません。そうやって、長い冬を越えた春、イースターの朝、一人の司祭が、この多翼祭壇を左右に開けた瞬間、先ほど描写した復活のイエスのパネルが患者たちの目に飛び込んでくる仕掛けになっているのです。そこにはなお釘跡は残りますが、既に完治した両手を高く挙げて、病者たちを祝福する復活の主がおられるのです。施療院で隔離されてきた患者たちは、その時深い感動の中で、自らの復活と解放を確信したに違いありません。
厳冬に閉じ込められてしまっても、やがて春の太陽は私たちを照らすであろう。その光の爆発的エネルギーは、死の番人と石棺の蓋を吹き飛ばし、キリストと共に、死せる私たち一人一人を、命の中に浮かび上がらせることであろう。それは何ものも自分を縛ることは出来ないという感覚です。墓のように「封印」された聖アントニウス施療院、その祭壇画の前で祈る時、病者たちは、やがて死の封印が切り裂かれ、外から自由の風が吹き込んでくる、その希望に満たされたに違いありません。
このマタイ27:66「封印」、あるいはそれに類似した言葉が聖書でどんなふうに用いられているか調べてみると、いろいろなことが分かってきます。例えばもう一箇所朗読した旧約聖書雅歌の中で、花嫁が恋人に向かって「わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として」(8:6a)と歌います。別の箇所では花嫁が「封印された泉」(4:12)と呼ばれています。つまり印章とは、それが押されたら、他人はこれに触れてはならないということです。そういう判子が花嫁につけられた。もう彼女はあの男のものということです。主イエスが墓の中に封印された時、その封印に押された判子は誰のものだったのでしょうか。総督ピラトのものでしょうか。ローマ皇帝のものだったかもしれない。しかしそこでマタイが暗示していることは、これは死の封印だということです。しかし復活の朝、権力と罪と死の封印が引き千切られてしまった。それなら、次に封印の話はどうなるかということです。
創世記4章のカインとアベルの物語を思い出します。カインが弟アベルを殺した時、彼はエデンの東に追放されます。カインはこの裁きを恐れ、出会った者は誰も、私を殺すでしょう、と主に訴えました。その時主は、誰もカインを撃つことがないように、カインにしるしを付けられた(4:15)とあります。この「しるし」とは、額に刻まれた入れ墨か、傷跡であったのではないかと言われています。その主の捺印の如き「しるし」があるために、カインとその末裔は、さすらいの地であっても、生命を守られたのだと、言われるのです。使徒パウロも言いました。「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」(ガラテヤ6:17)。初代教会を迫害したパウロです。その罪が十字架の「焼き印」によって赦されると知った時、彼もまたイースターの朝を迎えたに違いありません。
あるいは、ヨハネの黙示録7:2~4(新460頁)には、こう記されています。「わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。『我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。』…」これは終末の破局を前にしている時のことです。四人の御使いが、満を持して、今か今かと罪に汚れたこの世を破壊しようと待ちかまえています。その時太陽の出る方角、東(イースターを暗示)から一人の御使いが飛び込んできて、四人の天使たちに「ちょっと待て!」、と大声で叫びます。そして飛び回って神の僕たちの額に刻印を押してまわるのです。彼等が最後の審判を無傷でくぐりぬけるために。ここでは刻印とは、神様が神の僕たちにほどこす特別のご配慮を象徴的に示しています。ではこの神様の判子を額に押してもらえる人って誰のことでしょうか。
古代エルサレム教会の司教キュリロスは、洗礼を「破ることの出来ない聖なる封印」と名付けました。そして洗礼志願者に対してこう言ったのです。「聖霊があなたがたの魂に封印を押すであろう。キリストに仕える者としてあなたがたを選び出したしるしである。」
洗礼を受けるということは、そうやって、私たちが神様のものにして頂いたということです。私たちの死の封印、罪の封印を甦りの主が廃棄して下さって、そして新しい判子を私たちの額に押して下さったということです。その判子には自由と書いてあるかもしれない。命と書いてあるかもしれない。何よりも「イエス・キリストの名」が彫られているに違いない。そうであれば、私たちがどんなに過酷な場所に、アントニウス施療院のような所に、閉じ込められたとしても、それで終わりではない。
被災した山浦先生は、その試練の中で翻訳を続けました。そして彼は「天使があの大きな石の蓋を苦も無くゴロリと転がした」と訳した時、我々もまた、この災害に閉じ込められ続けるのではない。その重荷は、主にあってゴロリと転がされる、そのことを確信して喜びに溢れたに違いない。私たちの体にも魂にも、「これは甦りの主のもの、だから他人は触れるべからず。」悪魔も死も罪もこの者を奪うことは出来ないという、全き印が付けられているからです。
洗礼とは何と素晴らしい福音でしょう。さらに、私たちは洗礼を受けると、聖餐を受けることが許されます。『ハイデルベルク信仰問答』問66には「サクラメント」、これは洗礼と聖餐のことですが、これは「目に見える聖いしるしであり、印章である」という言葉があります。そうすると神様の判子と言うのは、洗礼だけでない。聖餐もそうなのです。洗礼は一度だけですが、聖餐はこの人生の中で何度でも受けます。これも神様の判子だと言われる。先ほど、イエスを祭司長たちは、二重三重に死の中に封じ込めようとしたと言いました。今私たちには全く逆の意味の二重三重の封印が私たちの体と魂を取り囲むのです。キリストの御名と洗礼と聖餐の恵みの印章によって、私たちは死と悪魔と罪の作る牢獄に穴を開けることが出来る。そして逆に、何重にも築かれる、神様のバリケードによって、甦りの防波堤によって、私たちの命は守られる。だから甦りの主はその朝、マリアに、そしてなおコロナ禍の中にある私たちにはっきりと言わるのです。「恐れることはない」(28:10)」と。
祈りましょう。 今朝もまた「恐れることはない、恐れることはない」と、直ぐ怯え始める私たちに語り続けて下さる復活の主イエス・キリストの父なる神様、そのあなたの甦りの力によって、私たちの死の封印を切り開き、逆に命の刻印を私たちの魂に刻んで下さった恵みに感謝します。今も痛みに耐え病と闘っている愛するきょうだいたちに、コロナや放射能によって、自由を失っている全ての人たちに、等しく、春の復活祭の自由と喜びを与えて下さいますようにお願いを致します。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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