2021年4月4日復活日夕礼拝説教「命のダンスは終わらない」

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詩編16編7~11(招詞) イザヤ35:1~6 マルコ福音書16:14~15

「暗い雲が光をとざし、神のみ子が釘づけられて 悪がちからをふるうなかも、みわざはすすんだ。おどれ輪になって、リードする主とともに 福音の喜びへと 招かれた者はみな。」(『讃美歌21』290「おどり出る姿で」4節)

説教者 山本裕司 牧師

 この復活日夕礼拝への招きの言葉として、先ほど詩編16編を朗読しました。そこで詩編詩人はこう歌いました。「 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。」(16:9)どうして詩編詩人の魂は、喜びの中で踊ったのでしょうか。その理由はこうです。主が16:10~11a「わたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくだる」からです。このように命の道を教えて頂き、踊り出すほどの喜びが与えられる、この旧約の歌は、主イエス・キリストのご復活によって私たちの現実となりました。

 またその招詞に併せて、私たちはこの礼拝で、二度、説教前後に、讃美歌21-290番「おどり出る姿で」、これを歌うプログラムとしています。これはコロナ禍以前は、イースターの午後に毎年催されましたイースターページェントで、毎年フィナーレを飾ってきた歌です。原題は「Lord of dance」(踊りの主)です。これはプロテスタントの一派シェーカー教徒が19世紀に作った讃美歌です。シェーカーという教派名は、文字通り彼らが礼拝の中に「シェイク」する踊りを取り入れたことで付けられたそうです。最近はこのシェーカー教徒の伝統に触発されて、礼拝の中にダンスを取り入れる教会もあります。真の礼拝において私たちは深い喜びを与えられるからです。礼拝はただ知識を得るだけではない、豊かな感情に満たされます。その溢れるような感情は、体を動かすことに通じると思います。美しい歌を歌う時、体が自然に動くように。人が深い喜びに遇った瞬間に、急に走り出したくなるように。

 讃美歌21-290番「踊りの主」、この歌のオリジナルの英語歌詞からイメージされる物語は、人々が次々に神の踊りに加わっていくドラマです。

 世界開闢の日の朝、宇宙でたったお一人、神様が踊り始めます。神様が踊ると、太陽が出来、月や星が生まれ、山や海も広がり、あらゆる生き物が誕生し、神様と一緒に踊り始めます。神様の踊りの行進が今出発しました。神様は、地上に降りて来られます。ご自身が創造された人間と一緒に踊るために。人々を神様の踊りに誘うために。だから踊りの主は、クリスマスの夜、人となられました。その夜、空に現れた天使の大群の歌に合わせて、貧しい羊飼いたちが、初めて喜びの踊りに加わりました。

 神の子イエスは、神のダンスのリーダーです。ダンサー・イエスの踊りの輪に入り、イエス様の真似をして踊る時、人々は大きな喜びに満たされ、胸の中に愛が一杯になります。だからイエス様に声をかけられた瞬間、漁師のペトロたちは、持っていた網(あみ)をぱっと捨て、喜び勇んでイエス様の踊りに加わって進んでいきました。

 踊りの行列はどんどん長くなっていきます。子どもも大人も、皆大河に小川が流れ込むように、その行列に吸い込まれていきました。そしてとうとうその数が何万人にもなった時、踊りは輪になって野を覆いました。イエス様は、その時、五つのパンと二匹の魚を踊りながら、人々に配り始めます。不思議なことに僅かだったパンと魚は、分けても分けてもなくなりません。神の子から頂いた、パンと魚を掲げて、人々は大きな輪になって踊りました。

 遠くから、少数になってしまったファリサイ派と律法学者が妬みながら見ています。誰かが、彼らの手をとって、踊りの輪に導こうとしますが、彼らは、手を振り払って加わりません。
 イエス様の踊りは、安息日も休みません。いえ、安息日こそ、益々そのダンスは情熱的になりました。そしてイエス様は、足が不自由で座り込んでいる男の手を取られました。その手を男がしっかりと握り返した瞬間、先ほど朗読したイザヤの預言が成就するのです。イザヤ35:6「そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。」そして男は激しく感謝のタップダンスを踏み始めました。

 ファリサイ派の人たちは、チャンスをとうとうつかみました。イエスは、安息日の律法を破ったと。彼らは、その時始めて少しずつリズムをとって体を揺らし始めます。そのファリサイの踊りに、学者が加わり、祭司が加わり、ローマの兵士たちが加わっていきます。その踊りはイエス様の踊りのように楽しくありません。気味の悪い動きです。しかし皆それに陶酔し始めました。誘いは群衆にも伸びました。手を伸ばされると、人々は、神様の踊りから、一人抜け、二人抜け、悪魔の踊りに加わってしまいます。そしていつのまにか、イエスと一二弟子の回りには、気味悪く踊る集団の輪が出来上がりました。一二人の弟子たちと女たちは、最後までイエスの踊りを続けようとしますが、いつのまにか、ファリサイのリズムに引き込まれ、あわてます。

 イエス様はたった一人になりました。イエス様は取り囲まれ、十字架につけられました。もう二度と踊れないように、手と足に釘を刺さされました。もうお体は動きません。「踊りの主」のダンスはついに止まりました。人々は動かなくなったイエス様の体を墓に運び、大きな石で入り口を塞ぎました。もう二度と踊れないように。その墓の回りを、夥しい人たちが激しく踊り回り、獣のように駆け回り、ついには体をぶるぶる痙攣させます。もう踊りとは呼べません。そして墓場に倒れます。累々たる屍のように。最後まで主に従った、主を愛する女たちも精も根も尽き果て倒れます。もう誰も踊りません。世界からダンスと歌は永遠に失われてしまったかのようです。そして暗黒がこの世を覆いました。

 しかし三日目の朝早く、ダンサー・イエスが、足にバネでもついていたかのように、お墓の塞ぎ石を吹き飛ばし、ひときわ高く躍り上がります。命をみなぎらせて。そしてまた一人で踊り始めました。人々をもう一度救いの踊りに招くために。ガリラヤまで踊ってやって来られた主は、弟子たちに命じました。マルコ16:15「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」弟子たちはこの声に励まされて、また踊り始めました。全人類がこの神の踊りに加わるまで、そのような歌です。

 私はこれまでも何度か、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(*注)という素晴らしい映画を皆様に紹介してきました。もしコロナ禍がなければ、このイースター夕礼拝後、以前、中村雄介さんと一緒に作った「パンの会」(映像を観る会)を開催して、この映画を上映したいと実は思ってきました。皆で観てその感想を語り合ったらどんなに楽しいだろうかと思ったのです。しかしコロナで残念ながらそれも出来ません。それで粗筋を言いますが、これは高い評価と、余りにも暗いということで拒否的な反応、その対極の評価を得た映画でした。

 舞台はアメリカのとある小さな町です。主人公は、チェコスロバキアからの移民のセルマです。彼女は息子と二人で暮らしていました。彼女が工場で、夜勤までして、必死に働いていたのはわけがありました。彼女は先天性の病気で徐々に視力が失われつつありました。息子もまた遺伝によって、13歳で手術をしなければ、いずれ失明する運命にありました。ある日、とうとう殆ど見えなくなったセルマは工場を解雇されます。さらにやっと蓄えた息子の手術費用を、大家で警察官のビルによって盗まれてしまいました。彼女はビルを訪ね、押し問答の末、ビルは拳銃を取り出し、銃が暴発してビル自身に当たってしまう。彼女はやっとの思いで、金を取り戻し、病院に納めました。しかし結果的に、セルマは警官殺しの汚名を着せられてしまいます。やがて逮捕され裁判にかけられた彼女は、真実を語ろうとせず、処刑台に向かっていく、というまさにダーク、闇の中の物語です。

 私はこのセルマとは、まさに、イエス・キリストの寓意であると感じました。それは例えば彼女が移民であることにも何気なく暗示されているのではないでしょうか。移民に対して、皆最初は親切であるかのように見え、結局、いざとなると、事実を究明することもなく断罪するのです。天に国籍のある主もまた、地上では移民でした。そのため、主もまた受難週の日曜日にはホサナと喜んで迎えられながら、結局、冤罪によって金曜日には十字架につけられたのです。
 真にセルマを愛する二人の友人だけは、真実を明らかにすれば減刑されると説得します。そして弁護士を紹介します。しかし、彼女は弁護士費用が、息子の手術代と同額であることを知ると断りました。
 これもまた暗示的でして、主イエスの十字架の犠牲を思い出させます。母セルマも自分の命を犠牲にして息子を救おうとするのです。その息子が遺伝病であると表現しているところにも意味があると思いました。アダムとエバ以来、全人類に広がっていった原罪、それは昔、遺伝と考えられました。その原罪を、主イエスは、ご自分の命の値を支払い、贖って下さり、原罪の血の流れを、御自身で断ち切って下さったのです。

 何よりも、その映画で、私たちが感動するのは、彼女の心のうちだけに浮かび上がる、空想のミュージカルです。彼女は、生活の重荷に耐えられなくなる瞬間、それまで自分を苦しめてきた工場や列車が発する金属音が、音楽として聞こえてくる、その世界へ移行することが出来る特技を持っています。その世界での彼女は妖精のように自由に歌い、踊ります。しかしそれは、決して、現実逃避の幻ではありません。この世は、本来、音楽が充ちている、この世は本来、ダンスの喜びが溢れていると、彼女は見て感じることが出来るのです。いったいどちらが幻で、どちらが現実なのですか、そう映画は私たちに問いかけていると思います。セルマは肉眼が不自由なだけに、神様が造られたままの世界とは、どれほど色彩かで、どれほど輝いているかを、霊的な眼差しを開いて見ることが出来る人なのです。御言葉を思い出さざるを得ません。

 「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(ヨハネ福音書9::9)

 死刑の直前に、友だちからセルマは息子のメガネを受け取りました。それでセルマは、息子の視力が復活したことを知りました。だから死刑台で彼女は歌い始めます。そして彼女は、縛り付けられた体であっても、なお唯一自由な足を用いて、大好きだったタップダンスを踊ろうとするのです。

 そこで思い出したのは、最近NHKで放映された「ヒューマニエンス:“ダンス” ヒトはなぜ踊るのか」という科学的番組です。その中で興味深いことが語られていました。それは動物は殆ど踊らないということです。動物にとって踊りとは、無駄で危険なことだからです。踊っている最中、敵に襲われたら抵抗出来ません。踊るためには「余裕」がなければならない。ダンスとはその人に、心の「余裕」があって初めて可能となるのです。セルマには処刑台の死が迫っていました。死は人類最大の敵です。しかし彼女はその敵の前で踊ることが出来る。それは自分は死に負けることはない、その強かな「余裕」からきているのではないでしょうか。

 死刑執行のベルが響いた瞬間、セルマは床を一度大きく踏み鳴らし、落下していきました。ダンスを誰も止められない。むしろその最も暗い受難を利用して、最も美しいタップダンスが始まる。その死を通して命の歌が生まれる。死に勝つ命の「余裕の歌」です。主の十字架がそうです。そして、そちらの方が現実なのだと、霊の眼差しを見開けば、最も暗いはずの十字架を通して、この上なき命の光が、そこから、ほとばしり出るのが見えるであろう。それが闇と原罪を払拭する贖罪であるが故に。
 
 ゴルゴタの丘のこの上なき醜い処刑の釘音を通して、この上なき深い音楽のリズムが刻み始まる。さらに復活の朝、塞ぎ石が墓のわきにゴロゴロと転がる音と、その石の上に天使が着地する音が重なって、リズムはさらに深みを増す。その音楽を聞いた時、墓参りに来てうつむいていた女性たちもまた、鹿のように躍り上がる。そして歓喜の中で走り出すであろう。弟子たちに甦りの踊りを伝えるために。決して罪に負けない踊り、死に勝つ命のダンス、十字架と復活の故に、罪も死ももはや我々の敵ではない、その「余裕」から生まれる命のダンスに、今夕、主は私たちを招いて下さいました。何と嬉しいことでしょう。

祈りましょう。  踊りの主イエス・キリストの父なる神様、家を出た瞬間に、急に駆け出したくなるような喜びを与えるため、あなたは、わたしたちを、夜の復活祭に招いて下さいました、この恵みを感謝致します。時に暗くなり、歌も踊りも忘れてしまう冷たい心に、命の熱を再び点じて下さいましたことを重ねて感謝致します。十字架と復活の前にコロナさえ、私たちの敵でないこと覚え、その余裕の故に、主イエスのリードに合わせて、今、私たちも踊る心で、春の歩みを始めることが出来ますように、聖霊を以て2021年度を導いて下さい。

「重い墓石をもけやぶり 朝のひかり照りかがやいて、おどりの主イェスはよみがえり、初穂となられた。おどれ輪になって、リードする主とともに 福音の喜びへと 招かれた者はみな。」(『讃美歌21』290「おどり出る姿で」5節)

(*注)原題「Dancer in the Dark」、ラース・フォン・トリアー監督、2000年製作、デンマーク映画。アイスランドの歌手ビョークを主役に据え、不遇な主人公の空想のシーンを明るい色調のミュージカル仕立てにした斬新な構成の作品。2000年、第53回カンヌ国際映画祭最高賞のパルム・ドールを受賞、ビョークは主演女優賞を獲得した。音楽もビョークが担当し、主題歌『I've seen it all』はゴールデングローブ賞、アカデミー賞歌曲部門ノミネートなど高く評価された。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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