2021年4月25日 主日朝礼拝説教「「笑い」誕生!」

https://www.youtube.com/watch?v=rNLbrBU7rL0=1s

創世記21:1~8

サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」(創世記21:6)

説教者 山本裕司 牧師

 先ほど朗読した、創世記21章の準備のために、ある牧師(及川信先生)の説教を読んでいたところ、思い掛けず隕石のことが取り上げられていました。そして先生は「生命は外からやって来る」と印象深く語るのです。それで思い出したのは、私たち全ての生物を構成するタンパク質は、アミノ酸から出来ているという話です。そのアミノ酸の分子構成は「左型」「右型」に分類出来ます。アミノ酸を普通に合成すると、左型と右型が半分ずつの割合で生成されます。そうであれば、地球上の生物は両型半々であるはずなのに、人間も含めて全生物が「左型アミノ酸」で出来ているのです。どうしてか分かりません。そこで、地球に落ちた複数の隕石を調べたところ、驚くべき事に、殆どが左型アミノ酸であったのです。宇宙で生成されるアミノ酸は、その過酷な環境に晒されると、左型のみが生き残ることが分かっています。そうであれば、その隕石研究によって、地球上の生命は、宇宙から飛来した隕石に含有されていた「左型アミノ酸」に由来するという仮説の証拠となるとのことです。つまり地球が生命を生み出したのではない。地球にはそのような命を生み出す力は元々備わっていなかった。生命は「外から」やって来たのだと主張されるのです。

 今朝、私たちに巡ってきた御言葉は、百歳のアブラハムと九十歳のサラに、生命がやって来たことが告げられています。原始地球と同じように、年老いた夫妻の内には、命を生み出す力はもはや備わっていませんでした。ところが、宇宙から地球に左型アミノ酸が降り注ぐように、夫妻に、乙女マリアに似て、天の彼方から聖霊が降り注いだのではないでしょうか。その外から来るものによって、幼子イサクが誕生したのです。

 先週も申しましたが、教会に暫く通うと「無からの創造」という言葉を教えられます。これは聖書外典マカバイ記二7:28に典拠を持つ神学です。「子よ、天と地に目を向け、そこにある万物を見て、神がこれらのものを既に在ったものから造られたのでないこと、そして人間も例外はないことを知っておくれ。」この理解は、創世記冒頭の天地創造神話にも見られます。天地創造以前の「地」を満たす混沌を、創造主は材料とすることありませんでした。「混沌」は「無」と同義です。そこで天の神は「光あれ」との言葉を以て、光を創造されました。それに続く、他のあらゆる物も命も、創造主は「神の言葉」を隕石のように「無」なる空間に、投げ込むことによって、一切を創造された、そう創世記記者は語るのです。

 それでまた思い出したのは、私は数年前の北支区夏期講壇交換のために弓町本郷教会に行きました。礼拝後の愛餐会で一人の姉妹と話しました。彼女は前牧師の菅原力先生に導かれて洗礼を受けました。彼女の求道生活は長かったようですが、どうしても納得出来ず、受洗することが出来なかったそうです。ところが菅原牧師がある日の説教で「信仰は外から来る」と言われた。それを聞いた時、初めはよく分からなかった、しかしその日の夕方頃、じわじわ分かってきたのです。それまで自分の意志や聖書研究などの努力によって、自分の内に自分で信仰を作り出そうとしてきたのだ。しかしそれは不可能だった。信仰は外から来る。外から来る神の言葉によって創造されるものだったのだ、そして自分は洗礼を受けて救われました、そういう意味を、初めて会った私に喜びに溢れて話されるのです。私はそれを聞いている内に、とても楽しくなって、何て素晴らしいと笑い合いあった、それは忘れられない夏でした。

 五百年前、宗教改革者が、中世カトリック教会の「人は善行によって救われる」という教理に対して、違う、と抗議した、プロテストした。それもこの「無からの創造」の教理は関わります。原罪を持つ私たちの内に善き物は「無」です。ただ救い主イエスが、外から来て下さり、その主が与えて下さった恩寵によって「信仰」が生まれたのです。その時、「信仰のみによって救われる」と宣言するプロテスタント教会が誕生しました。そこで「信仰のみ」と言われる私たちの「信仰」もまた、菅原先生に言わせれば、外から来るのです。使徒パウロが言った通りです。コリント一12:3b「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」私たち罪人の内には何の可能性はない、そう私たちが絶望するその時、しかし、神の可能性が、燃える隕石のように私たちに突入して来るのです。
 
 創世記21:1~2「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、/彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。」

 主はサラを「顧み」とありますが、これも先の牧師(及川信先生)によると「訪れる」とも訳せる言葉だそうです。ただ遠くから見て、おしまいという意味じゃない。神様が天の彼方から、実際に地の老夫妻を訪れて下さる。そうやって命を与えて下さる、それが「顧みる」です。赤ちゃんだけに留まりません。もっと大切なのは、この夫妻の信仰です。ところが、これまで私たちが読んできたように、夫妻とも、予め神様や御使いから、男の子を与えるとの約束を受けた時、冷笑した(17:17,18:12)。夫妻の信仰もまたそこで、無に帰したのです。しかしもう一度言います。「無からの創造です」、マカバイ記で言えば「万物を、神は既に在ったものから造られたのでないこと」、そうあるように、この夫妻の内から信仰がなくなろうとした時、神様が、幼子イサクを通して、その信仰を造り直して下さったと言ってよいのです。そうやって信仰の父アブラハムは、その「無からの創造」の信仰を、その自分の実際の経験を、先の弓町本郷教会の姉妹のように、喜び勇んで証ししてまわったに違いない。そうやって信仰を、子々孫々に受け継ぐことが出来るようになったのです。そうやって、全人類の祝福の源としての使命を果たす者となることが出来たのです。

 使徒パウロはこれをこう言い換えました。ローマの信徒への手紙4:19(新279頁)「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。」この中の「(アブラハムは)…既に自分の体が衰えており」との翻訳ですが、口語訳聖書ではもう少し強く訳しています。「彼自身の体が死んだ状態であり」と。原文ではもっとはっきり「死んでいる」という「完了形」が用いられています。死んでいると言っても、アブラハムは未だ生きているではないかということで、新共同訳の「衰えており」という訳になったと思います。しかし衰えたくらいなら、ひょっとしてということだってあるかもしれません。しかしパウロは「アブラハムの体は死んでいた」とはっきり書く。それはサラについても同じで、原文は「サラの子宮は死んでいる」と書かれています。

 人は死ねばおしまいです。パウロがアテネのアレオパゴスで「死者の復活」について説教したところ、ある者はあざ笑った(使徒言行録17:32)とあります。復活の話を聞くと、イサクを見る前のアブラハムとサラ同様に、人は冷笑せずにはおれないのです。しかしついに、それとは違う笑いがここに表れたと聖書は言うのです。イサクを与えられた時、創世記21:6「サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」」この後半の訳も一つの解釈です。つまり、イサクが生まれたことを母サラと共に、皆が喜んで笑ったという訳ですが、この聖句の解釈はそれだけではありません。再び口語訳では、21:6bここは、「聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」とされ、微妙な訳ですが、これを「あざ笑い」と理解しているようです。九十歳の老婦人が子を産むなどありえない。また女奴隷に産ませただけだろう、そう嘲笑した、そういう意味にも取れるのです。

 しかし私は思います。このあり得ないような物語なしに、きっとこの世はつまらない所になってしまうと。つまりそこは人間しかいない世界となってしまうと。人間だけの世界とは最初はおもしろくても、やがて悲しくつまらないのです。18:14「主に不可能なことがあろうか。」とあります。この不可能を可能とする神がいない世界には、結局、何も新しいものは生じないのです。コヘレトが言う通りです。1:9「かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。」宇宙から飛び込んでくる隕石が、左型アミノ酸を地に降り注ぐことがなかったら、地球は今でも火星のように、命なき不毛の砂漠だったことでしょう。それを言い換え得るならば、私たちの世界に、真の笑いが生まれなかったということです。不毛な嘲笑、人を貶める笑い、権力者の渇いた哄笑ばかりの、砂漠の世界になってしまうのではないでしょうか。しかしそこに創造主は、本当の笑いを創造して下さるのです。

 笑いが大切だと言われます。笑う門には福来たるです。医学的にも、笑わない人は早死にすると言われます。しかし笑えないのです。何故、テレビは毎日つまらない芸人たちが、人を小馬鹿にして、笑わせるのでしょうか。それは、この世には真の笑いが喪失しているからではないでしょうか。人を感動の中で笑わせる芸術が、余りにも不足しているからではないでしょうか。そこで仕方なく、偽りの笑いで、私たちの虚無を誤魔化そうとしているのです。酒を飲めば、脳を麻痺させて笑えるかもしれません。同じことです。しらふでこの世を見れば、笑えることなど一つもありません。若い頃はそんなことは思わないかもしれません。箸が転んでもおかしい年頃、そういう無垢な時代が私たちにもあったと思います。しかし年を取るにつれて、何も楽しくなくなるのです。コヘレトが言ったように。12:1「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。」

 自分の原罪を知ってしまう、この世界の虚無を見てしまう、その時、もはや何をしておもしろくなくなるのです。しかしそうしかめっ面の私たちの上に、創造主が福音という隕石を天から落として下さる。だからコヘレトは、年を重ねる前に、お前の創造主に心を留めよと勧めたのです。創造主を知れば、その「無からの創造」の故に、年をとっても、喜びがあるだろうと。西片町教会の先輩たちがそうであるように、九十歳になっても、百歳になっても、笑いが絶えることはないのです。イサクを抱く度に、この夫妻は、今までの苦労も、これからの不安も忘れて、大笑いしたと思います。そして、創世記21:6の、新共同訳の方の翻訳を採用するなら、「サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」」、こちらの訳は明るい、その翻訳は、全ての人々を巻き込む喜びの笑いのことです。神が生み出して下さったその肯定的な「笑い」(イサク)が、人々に伝染して行きます。この笑いとは「祝福」と同義です。12:2「祝福の源」として選ばれたアブラハムはこの笑いを、全人類にもたらすことが、彼の使命であったのです。それは主イエスが呼び起こした笑いに繋がります。幼子イエスがお生まれになった時、羊飼いや学者たちの笑い声が、馬小屋に響いたことでしょう。成長された主イエスによって、徴税人や罪人が救われた時、その宴は、笑いの渦に包まれたことでしょう。しかし主イエスが捕らえられた時、残ったのは、ルカ 23:11、ヘロデや兵士たちの「あざけり」だけとなりました。しかし、主イエスは、三日目に復活された。もう一度私たちを笑わせるために。

 ある牧師(大澤正芳先生)は古くからある「復活祭の笑い」ついて紹介しています。今でも東方教会やドイツのカトリック教会には残っているそうです。イースターになると、皆、礼拝中に、「わっはっは」と大笑いをするそうです。何を笑うのか、命の勝利を笑うのです。そして牧師は、カール・バルトはこう言ったと続けます。私たちの信仰とは、「愉快なことを経験した子どもが当然発する笑い」のようなものだと。バルトは信仰と笑いは一つのことと言ったと。その喜びは決して尽きることはないだろうと。

 私たちは、今日、三度目の緊急事態宣言発出の朝を迎えました。それでどう笑えと言うのかと問われるかもしれません。しかし本当は、今朝は疫病の朝ではない、そうではなくて、今朝も変わらず復活を記念する復活節第4主日である、その事実を覚え、今朝も私たちは、その復活の故に笑うことが出来る。イースターの笑いは何ものにも負けない。そのような強かな笑いが、私たちの内に誕生した、それは何と嬉しいことでしょう。

 祈りましょう。 主なる父なる神様、笑い喪失のこの世界のただ中に、あなたは、御子をお与え下さり、笑いを、祝福を、創造して下さったその恵みに心から感謝をいたします。アブラハムの子孫である私たちの教会もまた、祝福そのものである笑いの源となることが出来ますように、この西片からあなたの笑いを、笑いなき世界に豊かに伝播させていくことが出来ますように、聖霊を隕石のように私たちに降り注いで下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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