2021年4月18日 主日朝礼拝説教「洞穴から、出て来なさい」

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創世記19:27~38 ヨハネ福音書11:38~44

「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。/ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ。」(創世記19:29b~30)

「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。/すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。(ヨハネ11:43~44)

 説教者 山本裕司 牧師

 今朝、私たちに与えられた創世記の御言葉は、主の裁きを受けて滅んだソドムとゴモラを、丘から見下ろすアブラハムの姿から始まりました。19:27~28「アブラハムは、その朝早く起きて、さきに主と対面した場所へ行き、/ソドムとゴモラ、および低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた。」天から降り注いだ硫黄の火によって、19:25,全住民は草木諸共滅亡しました。動物も同様であったと思います。アブラハムの目に映るもの中で、動いているのは、静まりかえった死の世界から立ち上る煙のみであった、そうまるで映画のラストシーンのように、印象深く創世記記者は物語るのです。そうやって、物語は私たち読者に、無言で低地を見下ろす、アブラハムの心を、それぞれが推し量るように促しているのです。

 私たちも十年前、四基の破壊された原発から四本の放射能にまみれた白煙が立ち上る光景をテレビ画面で見ました。それはアブラハムの見た、19:28「炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた」その光景と一つに重なってしまう現実であったのです。

 当時、京都大学原子炉実験所助教小出裕章先生は、事故直後に執筆された『原発はいらない』の中で書いておられます。「私はことあるごとに、原発の危険性を訴えてきました。しかしそれが大きな世論にならなかったことを、今は言葉に尽くせないほど無念に思います。原発事故が起きないでほしいと強く願ってきましたが、ついにその願いは叶えられませんでした。私は、原発をやめさせるために原子力を研究してきた者です。…だからこそ専門家として事故を防げなかったことを本当に申し訳なく思います。」そう謝罪しておられるのです。小出先生は、事故直後のインタビューで、特にこれからを生きる子どもたちに、「原発を止められなくて、本当にごめんなさい」と、嗚咽しながら絞り出すように言っておられた、その姿を忘れることが出来ません。

 アブラハムの気持ちもこれに近かったのではないでしょうか。彼が破滅のソドムを見下ろしている高台とは、19:27「さきに主と対面した場所」とあります。創世記記者はそう指摘して、18:16(旧24頁)以下の箇所を読者に思い出させようとしているのです。まさに、アブラハムは小出先生同様に、ソドムを破滅から救おうと主に必死で執り成しをしました。ソドムにも正しい人がいるかもしれないと、それは五十人から始まって、値切りに値切って十人に、負けさせることが出来たのです。しかしその努力は空しく終わったことを、彼は再び登って来た高台に立った時、立ち上る煙によって突き付けられたのです。小出先生同様に、無念と、ソドムとゴモラの子どもたちに、ごめんなさいと涙を流してしたのではないでしょうか。

 しかし私は思います。そのような、この世を救おうとする必死の努力、愛の働きは、決して無駄ではなかったはずだと。原発事故後、この小出先生のまさに「執り成し」と言っても良い働きに、未来の子どもたちのものであるこの「日本」の再生、その希望を見いだした者は、私も含めて多かったに違いありません。いつか私たちも放射能の呪いから解放される日が来ると。アブラハムの執り成しの祈りも、ソドムの町は救えませんでしたが、少なくても、自分の親族ロトの将来を救う、神の恵みを引き摺り出すことは出来た、そう物語は続いていると私たちは読むのではないでしょうか。19:29b「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」

 ソドムの罪とは、先週読んだように、18:4以下ですが、調査のために神から派遣された御使いを力尽くで支配する。神の上に跨がろうとする、ソドム人の涜神、自己神格化を示しています。その禁断の果実以来の人間の原罪こそ地球に死と呪いをもたらしたのです。しかしソドムの繁栄に惑わされロトは移住し、貧しいけれども、荒れ野の主に頼って生きる天幕生活を捨てた。そのように、神無き町ソドムに憧れるところに、彼の滅びの前兆があったのです。主は破局直前にロトに命じます。19:17a「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい」と。しかし彼はなお「町」に執着しツォアルへ避難し、妻は「後ろを振り返り」塩の柱となりました。神様よりこの世の物に執着することは、自分を本当に生かすものを見誤る錯誤です。19:26「全住民」の滅びを強調表現と取るならロトと娘たちは命からがらツォアルに到着しましたが、そこにはロト家族だけでなく、夥しい難民が押し寄せたと考える方が自然です。ロトは、ただでさえ、低地の民から19:9「よそ者」と差別されてきた人でした。ツォアル、その意味、19:22「小さい」町で、先住民と難民との狭間でロトたちの居場所はどこにもなかったに違いありません。

 結局、創世記19:30「ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ。ツォアルに住むのを恐れたからである。彼は洞穴に二人の娘と住んだ。」神様が最初に言った通りとなりました。注解によると、この洞穴には定冠詞が付いているので、当時の人々は名所旧跡としての「ロトの洞穴」を知っていたのではないかとありました。その洞窟を訪れる度に人々は、私たちが平家物語の落人伝説に胸を打たれるように、ロト一家の劇的な没落に思いを馳せたのかもしれません。

 死海の畔、その荒涼たる険しい山の一つの洞穴、それは人生の闇と行き止まりを象徴しています。そこは再起不能の墓穴でした。彼の娘たちも言います。19:31「この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。」「よそ者」ロトたちは、富裕層であったためにかろうじてソドムで受け入れられていただけでしょう。だから妻も与えられたのかもしれません。しかし今や、よそ者の頼みの綱であったソドム人の妻も富も失われ、彼らは何の頼りもない乞食同然であり、娘たちの縁談の可能性もありません。しかし、そうやって「ソドム的なるもの」その全てを失った時にこそ、人は荒れ野の主の恵みによってのみ生きる、その神の旅人アブラハムの信仰が、この一家に無意識下かもしれない、この穴の中で、働き始めたのではないでしょうか。

 その神の促しがあったと思う。この滅びの運命に二人の娘は抗い始めるのです。19:32~33「さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」/娘たちはその夜、父親にぶどう酒を飲ませ、姉がまず、父親のところへ入って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。」この次の夕、妹も同じことをしました。その結果、姉には、名付けて「モアブ」(父親より)という男の子が与えられる。そこからモアブ人が生じた。妹には、ベン・アミ(わたしの肉親の子)と名付ける男の子が生まれた。そこからアンモン人が生じたのです。近親相姦と眉をひそめられても仕方がないことをしました。そのように神の民イスラエルと、時代によっては、激しく敵対した隣国モアブとアンモンの出自を蔑む、そのようなこの聖書物語の読み方は確かに存在します。
 しかしある学者(von Rad)によると、この物語の「原型」オリジナルは、むしろモアブの民自身が保持していた自らの国の開闢神話であったと解説されているのです。その場合この物語は決して否定的な物語ではありません。むしろ二人の娘の行為は、不可能であるはずの、子孫を生み出す、英雄的な母の物語との意味で伝承されたはずだと指摘されるのです。そうであれば、これはアブラハム物語に付きまとう、子どもが与えられないという、未来喪失の物語の一つとなるのではないでしょうか。19:31「父は年老いてきました」、母は塩の柱、婿はいない、それは命の望み無き洞穴、行き止まりの闇です。しかし彼女たちの潜在意識化に流れるアブラハムの信仰が、そこに風穴を開けるのです。

 戻れば、19:27「煙が立ち上っていた」、その情景を朝早く来て、見下ろすアブラハムもまた、神から離反した人間の闇と行き止まり、その滅亡を思わずにおれなかったのです。しかしアブラハムは信仰の父として、なおその死の現実に逆らうようにして、信じたと、創世記記者は先ず書いたことを私たちは思い出すのです。15:6(旧19頁)「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

 この言葉を使徒パウロはこう読みました。ローマ4:17b~18(新279頁)「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ(た)。…/彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、…多くの民の父となりました。/そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。/…だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」

 このアブラハムこそ、主を信じることによって、12:2「祝福の源」となるのです。それはイスラエルだけの祝福でもありません。12:3b「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」そう約束されているのです。19:29bをもう一度読みます。「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」ロトと娘たちもまたこの信仰の父アブラハムの故に、祝福を受けて、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」の力を受けて、未来を切り開く子どもたち命の希望を、ここに繋ぐものとなった、そう聖書は暗示しているのです。

 私は今朝の説教題を「洞穴から、出て来なさい 」としました。この物語では、その洞穴からロトたち家族が出て来る情景はありません。しかしこの読後感で私たちはそれをイメージ出来るのではないでしょうか。それはただ、娘たちの捨て身の行為が勝ったということに止まりません。自ら墓穴を掘ったロトですが、しかし主はその墓を見捨てない。アブラハムの信仰、つまり「無から有を呼び起こされる神」の恩寵によって人は、それでも生き続けることが出来るであろう。これを読む私たちは、ロトの娘たちを母とする、愛らしいモアブとアンモンの祖となる、二人の男の子が、冬眠から覚めた小熊のように、立ち上がって、洞穴から出て来る。そして体一杯に春の朝の光を浴びる、それが映画のラストシーンのように目の前に浮かび上がってくるのではないでしょうか。

 福音書の主イエスの系図の中に、ルツ(マタイ1:5)という名があります。モアブ人のルツ、その系図の流れの終わりに、救い主である幼子が洞穴のような馬小屋でお生まれになる。その悠久の昔に、死海の畔の山の洞穴で産声を上げた男の子は、やがて、この血の流れから、全人類の希望の光が生まれる、そう遠くから指し示しているのではないでしょうか。

 先ほど、私は新約聖書、ヨハネ福音書11章(新190頁)を併せて朗読しました。ベタニアで、主は一度は、ラザロの死を前にして、涙を流されました。しかし主は、その涙を振り払うようにして、墓の洞穴に向かって 叫ばれたのです。「ラザロ、出て来なさい」と。11:44「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。」命なき闇の洞穴に、復活の主イエスの御声が響く時、死者も暗い穴から出ることが出来るのです。

 何故そんな奇跡が可能なのかと言うと、主イエスもまた洞穴の中に閉じ込められた経験がおありだからです。御子もその死の闇を知っている。どこにも命はない、光がない、未来がない、その行き止まりの穴を知っている。ラザロやロトと全く同じ経験をされた。しかしそこから主は三日目の朝、墓の塞ぎ石を転がして出て来られたのです。この方が、今も、私たちのために、アブラハムがそうであったように、神様に執り成しの祈りをして下さっている。その時、創世記19:29の言葉を少し変えれば、こうです。「神は御子を御心に留め、私たちを破滅の中から救い出された」、そうやって死に瀕している私たちも甦ることが出来る、このアブラハムの信仰を受け継ぐ未来の希望、新しい命を生み出すことが出来るのです。

 創世記19:27~28「アブラハムは、その朝早く起きて、さきに主と対面した場所へ行き、/ソドムとゴモラ、および低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた。」この滅びを止められなかった慚愧の心を、先に私は想像すると言いました。しかしここをイースターの光に照らされつつもう一度読む時、物語の色彩が変わるのを私たちは感じるのではないでしょうか。アブラハムが「その朝早く起きて、さきに主と対面した場所へ行き」との言葉と、あの春分後最初の満月の次の日曜日、女性たちが朝早く墓へ行った(ヨハネ20:1)、その朝が、ここで重なって見えて来るのではないでしょうか。そこは死と行き止まりの穴しか見えないはずであった。しかし「あに図らんや」、その死の洞穴から、命がほとばしり出て来るのです。全人類を祝福する光を伴って。人間の偶像崇拝と自己神格化が呼び起こした、炉の煙のように煙が立ち上る、その死の世界は打ち破られ、新しい命が出現するであろう。「無から有を呼び起こされる」創造主の憐れみの故に。そうであれば、丘の上のアブラハムもまた泣いただけではない。「それにもかかわらず」と呟いたのではないでしょうか。なお、未来に望みはある、主の故にと。このコロナ感染爆発と放射能汚染の、炉のような煙が立ち上っている日本ですが、なお望みはある。モアブ人の系図をお持ちの主イエス・キリストが、その呪いの穴を蹴破って、春の光と命を甦らせて下さるのだから、その希望を私たちは捨てる必要はありません。

 祈りましょう。 主なる父なる神様、私たちは自らの罪によって生じた、闇と行き詰まりに呻吟すること度々ですが、あなたは御子の十字架によってその罪を赦し、御子の復活によって、穴から引き摺り出して下さる、そのことによって未来の命の希望を甦られて下さった、そのことを信じて、どうか破滅を二度と招かないように、あなたのみを信じ、祝福の源として、平和を作り出す教会の使命を果たしていく、春の私たち西片町教会とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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