2021年3月7日 主日朝礼拝説教「わたしを顧みられる主」

https://www.youtube.com/watch?v=LoOwHQNYEJc=1s

 創世記16:1~16(旧20頁) マタイ福音書9:22a(新16頁)

ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。(創世記16:13a)

イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マタイ9:22a)

説教者 山本裕司 牧師

 先週もご一緒に読みましたように、不妊のサライに代わってアブラムの子を身籠もった女奴隷ハガルは、そのことによって自らの値打ちを発見したのです。彼女はそれ以後、正妻サライを、創世記16:5「軽んじるようになった」とありました。ハガルは自ら「人間」として振る舞うようになっただけかもしれません。しかしそれは、奴隷を道具と覚えてきた女主人サライにとって、自らが軽んじられた、そう感じる他はなかったのです。それにしても、もしかしたら自分が主人の子を宿したことによって、若きハガルは必要以上にサライを見下したということも、あったのではないでしょうか。それがただでさえハガルに嫉妬していたサライの仕返しを激化させたのではないでしょうか。16:6b「サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。」「つらく当たった」という言葉は「虐待する」という強い言葉だそうです。家庭は修羅場となりました。

 夫妻が奴隷に子を作らせる、その元々の目的は、神様がアブラムの子孫を、大地の砂粒のように、天の星のように増やすと言う、神の約束を実現させるためでした。そうやってこの夫妻に示された、唯一の神に対する信仰の遺伝子を、後世に残すためであったのです。これは人間にとってこの上無く高い志ではないでしょうか。それは私たち教会の志と同じです。「アブラハムの子」の群れである私たち教会もまた、主を信じる人々を、大地の砂粒のように、天の星のように地に満たすことが目的です。しかしその気高い目的のわりには、教会は二千年間、アブラムの家に似て、高ぶり、嫉妬し、互いに「軽んじ」(16:5)、互いに「つらく当た」(16:6)ってきたのではないでしょうか。戦いがあっても、ルターの宗教改革のように福音を守るためであれば許されるでしょう。しかし遙かに低次元の感情的問題や権力争いのために、分裂を重ねてきたのが教会の歴史ではいでしょうか。そうであれば、まさにアブラム夫妻が持っていた信仰の遺伝子だけでなく、原罪の遺伝子をも教会は受け継いだのではないでしょうか。

 サライは約束の子を得るという大目的のために、若い女奴隷を夫に差し出しました。その決断は決してサライにとって愉快なことではなかったと思います。女主人の膝の上で、代理母が子を出産すれば、それは女主人が産んだこととなるという法は確かに存在しました。しかし実際、子はエジプト人奴隷ハガルの遺伝を色濃く受け継ぐに違いありません。やがて生まれて来るイシュマエルは、16:12「野生のろばのような人になる」とありますが、その野生の強靱さはハガルの血によるのではないでしょうか。メソポタミアの文明都市ウル出身のサライとはどこも似ないのは当然予想出来ました。しかしサライは神様の偉大な目的のために、それでも良いと、自分の気持ちを抑えて、夫に彼女を与えたのです。

 そして思い通りになった。奴隷は妊娠した。しかしその時、先ほども述べたように、女主人は女奴隷に軽んじられることになったのです。しかしそれだけは許すことが出来ません。大きな目的のためには、小さなことは我慢しなければならない。当然です。しかしその気高い理想が、時に空しい軋轢によって、バベルの塔のように崩れてしまう、そのようなことが私たちの人生にあるのではないでしょうか。実は高邁な目標と言っても、それは表向きであって、自分でさえよく知らないかもしれませんが、その深層心理には、人間の暗いエゴイズムが隠されていることがあるのではないでしょうか。

 カトリック司祭、実践神学教授、ヘンリ・ナウエンは思い掛けない祈りを書いています。「主よ、わたしは自己中心的で、自分のキャリア、将来、名声に捕らわれています。わたしはあなたさえも私自身の利益のために利用しているようです…、私は、あなたについて語り、あなたについて書き、あなたの御名によって行動していたのですが、それは実は自分自身の栄光と自分自身の成功のためだったのです」と。あの全世界の信仰者から敬愛されている司祭ナウエン、彼でさえこうであるなら、この隠れた心から本当に自由な牧師は殆ど存在しないのではないでしょうか。

 サライとハガルの物語を、その牧師の世界で語り直すなら、例えば、年老いて力衰え、受洗者という新しい命を生み出すことが出来なくなった老牧師がいたとします。その閉塞感を打開しようと若い副牧師を招こうとしました。ただでさえ予算がないと渋る役員たちに、自分の謝儀を半減させてもいいからと、教会の将来のためにと説得し招聘を飲ませます。春になって、やって来た新卒の牧師は若々しく俳優のようであった。あれ程招聘に反対していた役員たち、特に女性たちは手の平を返して皆ファンになった。その説教は老牧師の十年一日の如き手垢のついた説教とは異なり、新品の輝きと切れ味に満ちていたのです。彼の導きによって多くの求道者が洗礼を受けるようになり、教会は一気に甦った。全ては老牧師の英断通りになった。そんなある日、青年牧師は主任に「先生の説教は立派ですが、最近の○○神学に照らせば問題があるのではないでしょうか」そう意見した。それはもう新しい神学書を読む力を失って久しい、老牧師の弱点を突く鋭さを持っていた。その忠告は表面慇懃でしたが、自信に満ちた涼しげな眼差しで見下された時、老牧師の自尊心はいたく傷ついたのです。まさに16:5「彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。」そのサライの感情が乗り移ったかのようであった。爾来、この新牧師の活躍を一番喜ぶはずだと思われた、老主任牧師は、劣等感と嫉妬にかられて、陰に陽にパワハラを始め、ついに青年牧師を教会から追い出した。そして教会は倒れる寸前まで傾いた。老牧師の高邁な伝道の大目的は、皮肉にも彼自身の小さなプライドのために、ゴミ屑のように捨てられたのです。老牧師の自分でさえもよく知らなかった、深層心理、隠された伝道の動機とは、ナウエンの祈りの通り「実は自分自身の栄光と自分自身の成功のためだった」、それが暴露されたのです。
 
 一方ハガルの方も、サライの劣等感を自分の若さが刺激していることには無頓着です。先週も言いましたが、作家ワンゲリンは想像の翼を広げて、ハガルがサライの膝の上で出産するための練習をさせられた時、お腹を押されたハガルが思わず、「痛い!」と叫んでサライの手を叩いた、そう物語りました。それを読む時、私たちはハガルの痛みも分かるけれども、ああハガルもう少しサライの気持ちも分かってあげて欲しいと、御主人の手を叩かないで何とかならなかったかと言いたい気持ちになります。しかし妊娠によって自分の値打ちを知った時に、それがいつの間にか、あの青年牧師のような高ぶりとなった、そういう面もハガルの方にもあったのではないでしょうか。聖書は、そのように人間とは自分の「値打ち」を正しく生かすことも出来ない存在であると、暗示しているのかもしれません。

 ハガルは女主人の逆鱗を避けるために逃亡するしかありませんでした。行く宛はありません。彼女は故郷エジプトを目指したようですが、実はそこにも帰る家はなかったと思います。だから奴隷となったのです。もう何もかも捨てて荒れ野で死ぬことによって究極の自由解放を得ようと、そう覚悟したのかもしれません。私たちも時々、このしがらみをかなぐり捨てて蒸発したい、そう夢見ることがあります。しかしそれは誰も寄せ付けない空しい干からびた荒れ野の心です。それをやったら、大切なお腹の赤ちゃんの命や、アブラム家での彼女にしか出来ない奉仕はどうなるのでしょうか。しかし主なる神は、ハガルを見捨てることなく、その荒れ果てた砂漠から「泉のほとり」、そのオアシスに導いて下さるお方なのです。聖書では井戸や泉は、そこに神ご自身が顕現され、人の根源的渇きを潤わす「霊的場」と描かれます。16:7~8「主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、/言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」」

 荒井英子先生は、ハガルはここで初めて「人から名前をもって呼ばれた」と指摘します。これまでサライもアブラムも、彼女を「わたしの女奴隷」「あなたの女奴隷」(16:2、6)と呼んでいます。こうやって夫妻が無視したハガルの「名」その「人格」を、御使いは百%認めているのです。どこから来たのかと問われた時、ハガルは16:8「女主人サライのもとから」と答えることが出来ました。では、どこに行こうとしているのか、それには彼女は答えられません。行き先はなかったのです。そのハガルに御使いは、つまり神は、いやあなたが行くべき所がある、一箇所だけある、そう示します。それは出て来た所、16:9「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」そう勧めるのです。ハガルはこれまで砂漠で干からびても、それだけは嫌だったのです。しかしこの「泉のほとり」で御使いが「ハガル」と名を呼んで下さった時、何故だろう、彼女は心が開くのを感じた。彼女の渇ききった魂から、何故か、水が湧き出てくるのを感じました。このお方は「人間」である私の自由への渇望を、その叫び声を聞いて下さった。その事実はあなたの男の子の「名」に刻まれると、16:10「イシュマエル」と、その意味は「神は聞かれる」です。そう教えてくれた。そしてイシュマエルは、16:12「野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので/人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」「野生のろば」それは自由の象徴です。どんなに権力者、差別者が、彼にこぶしを振るって支配しようとしても、彼は屈伏しないのだ。ハガルよ、あなたの子イシュマエルは、母の渇望を受け継ぎ、どこまでも自由な人間となるだろう、そう約束したのです。

 先週も言いましたが、その母ハガルが御使いと出会った泉、そこは後に、このイシュマエル族の「聖地」となりました。その名は16:14「ベエル・ラハイ・ロイ」、「私を顧みられる方の泉」、この聖なる泉の名は、ハガルが、このほとりで出会って下さった主なる神の名を、こう呼んだことに因みます。16:13「あなたこそエル・ロイ(私を顧みられる神)です」と。アブラム夫妻の代理母として、道具とされ名も呼んでもらえない、誰も彼女の16:11「悩み」を聞かない、誰も彼女を見てくれない、そういう名無しの扱いを受けてきた。しかしそうではなかった。彼女の悩みを聞き、じっと眼差しを注いで下さる神がおられる。「イシュマエル」その意味は「神は聞いて下さる」。泉のほとりの神の名は「エル・ロイ」、その意味は「わたしを顧みられる神」。荒れ野のような人生と共にいて下さる憐れみの神を知った時、彼女は自分の値打ちというものを改めて正しく学んだのであります。妊娠して知った自分の値打ち、それを遙かに凌駕する真の値打ちを知ったのです。自分の値打ちとは、自分が正妻に勝っているとか、自分が子を宿す力をもっているからということでは、実は全くなかったのあります。むしろその傲慢によって、砂漠をさ迷う他はなくなりました。しかしその渇ける迷子の羊を潤わせて下さる神はおられる。その神の憐れみの眼差しの中に映る、自分という存在の値打ちであります。神がハガルを宝物として見て下さっている、そこで彼女は自らの真の尊厳を知ったのであります。

 そこでハガルは、16:9「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」これを受け入れました。奴隷として仕える人生は、この神にあって決して空しくはない、そのことが感じられてきた。その生き方によって、自分の尊厳がいささかも犯されることはないということを知ったのです。そこから、野生のろばの如き自由な人を、砂粒のように、星の数のように、ベエル・ラハイ・ロイ、その聖地で増し加える使命があるのです。16:10「主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」この創造主の大目的のためには、御子イエスが示された生き方、マタイ20:28「仕えられるためではなく仕える」者となる、それこそ神の子の人生であることを、それを今、ハガルだけでなない、サライも学ぶ必要があるのです。

 ハガルの帰還後、泉のほとりで会って下さった神についての彼女の証しを、アブラム夫妻はある日の礼拝における「神の言葉」として聞く機会を持ったのではないでしょうか。御使いは、16:11「イシュマエルと名付けなさい」(神がお聞きになられた)と言われたと。それを聞いて、16:15、産まれた男の子にアブラムはその通りにしたのです。このハガルの証しによって、良く分かった。主は私たちの16:11「悩みを聞いてだくさる」イシュマエルであられる。神は罪深い私たち夫妻をも「顧みてくださる」エル・ロイであられる。その神の真理を、これまで道具のように扱ってきたハガルから示された時、アブラムとサライ、この夫妻は自らの傲慢を深く深く悔い改めたに違いありません。そして、この礼拝が終わった時、彼女の名を初めて呼んだのではないでしょうか。「ハガルよ、良い話をありがとう」と。

 祈りましょう。 主なる父なる神さま、神の子を一人でも多く生み出すあなたの大目的のために召された私たちであるにもかかわらず、直ぐ傲慢になって、何もかも台無しにしてしまう愚かな私たちを憐れみの内に覚えて下さい。神の国の似姿を作ろうとして、返って荒れ野を広げてしまう私たち罪人を、なお顧みて下さるあなたのみを誇り、あなたに栄光をお帰しする、このレントの日々とならせて下さい。



・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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