2021年3月28日 主日朝礼拝「ソドムに正しい者がいれば」
https://www.youtube.com/watch?v=v7WrQ2qFvBo=1s
創世記18:16~33 コリントの信徒への手紙一15:21~22
「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」(創世記18:32)
「キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(コリント一15:22b)
説教者 山本裕司 牧師
私が青年の時属していた教会の牧師は、今朝の創世記の物語を大変好まれ、巧みに説教をして下さいました。先生のご実家は四国今治の商家でした。牧師にはとても珍しく実利的能力に長けておられ、ご自分でも商売に向いていると言っておられました。莫大な金が動く会堂改築などでその手腕を見事に発揮されました。そういう時には「交渉術」がものを言うと思います。先生は、今朝の神様とアブラハムの取り引き、その値引き交渉を、私の知らない商売用語を自在に用いられながら物語られて、その説教はとても楽しかったのを思い出します。
しかし、ここでアブラハムが交渉したのは商人ではない。全能の神、宇宙の創造主です。創世記18:27で、アブラハム自身が言っています、「塵あくたに過ぎないわたしですが」と。しかしこの台詞は、値切る時に「売り手」の譲歩を引き出すための「ご機嫌取り的慣用句」だと注解にはありました。しかし御前に私たちが「塵あくた」であることは真実です。ところが、私たちの神様は、このような小さな私たちがなす交渉、それは言い換えるなら、祈りです、それをあたかも対等の立場のように聞いて下さるお方なのだと、物語られているのです。
それとの関連ですが、18:22「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。」これは学者のたちが注目する言葉です。注解には、ここは創世記の大本、オリジナルでは「主の方がアブハムの前に立った」、とあったはずだと指摘されています。それは主なる神が、悪徳の町ソドムの処分について、わざわざアブラハムの意見を聞くために来て下さる。18:21「降って行き」という印象深い言葉もあります。そうやって謙るようにして、アブラハムの前に立ったという意味だと言うのです。それは、神の身分であったキリストが、へりくだってくださった、低き飼い葉桶まで、そしてもっと低き十字架にまで降って下さった(フィリピ2:6~8)、そのお姿の先取りなのではないでしょうか。しかし後の敬虔な写本家は、神様の方が人間に謙るなどとは、承服出来ないというとこで、修正を施した。書き換えた。そしてアブラハムの方が「主の御前に」いて跪くようにしてお願いをする、そういう神と人との普通の関係に、ここを改訂してしまったと言われるのです。
しかしこのオリジナルの方の言葉は、私たちが祈る時、大きな励ましを与えるのではないでしょうか。神様は何か事を起こされる、特に今朝の物語では大きな裁きをされるという話ですが、それを独裁者のように決めてしまわれない。抜き打ちにされない。わざわざ、私たち人間の前にお立ち下さり、私たち人間の願いを、前もって聞いて下さるお方なのだと、この物語のオリジナルを書いた、ヤハウェエストと呼ばれる大昔の聖書記者は信じているのです。
神様は、18:17でこうも言われています。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」神様は全て御一存で決断する権威をお持ちなのに、人間に隠すことなく、予め情報を与えると言われるのです。そうであれば、現代においても、神様はこれから決行されるかもしれない裁き、それは人類滅亡に繋がるような大災害かもしれません。それを不意打ちのように起こさない、隠さないと言われるのです。そうであれば、それこそ、あの十年前の原発事故やコロナ禍なのではないでしょうか。それが神の警告であることに気付き、人類絶滅の裁きが下る前に、私たちは、先の長尾先生の共同祈祷にもあったように、人類が一日も早く悔い改めることを促しておられるのです。
神様が行おうとしていることは、ロトが移住した悪徳の町の裁きです。18:20「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。」このソドムとゴモラは14章にありますが、メソポタミア連合軍が遠路進軍してまで奪い取ろうとした、鉱山利権を有するなど、繁栄を謳歌していていました。しかしそれに伴う不正義と堕落の悪臭に満ちていた。神様は、その実態を18:22「その人たちは」とありますが、先週読みました、妻サラにイサク誕生を予告した御使いたちですが、彼らに調査させるのです。そして、18:21「果たして、わたしに届いた(ソドムとゴモラの罪の訴え、その)叫びのとおりかどうか見て確かめよう」と言いました。そこにも裁きを下さす時の主の慎重さが感じられます。しかしその結果、被害者たちの叫び通りであったらどうするのか。19:24~25「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、/これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。」町は破局を迎える他ありません。神様が残酷だからではない。使徒パウロが言ったように「罪が支払う報酬は死」(ローマ6:23)だからです。
それが決行される前にアブラハムは、18:25b「神様の正義とは何かについて」意見する機会が与えられているのです。創世記18:23「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」これは分かります。正しい者が悪い者と一緒に滅ぼされることが正義だとは思えません。しかしその後の言葉が、注目に値するのです。18:24「あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか。」
私たちは普通の正義とは、「正しい者は滅ぼされず、悪い者だけが滅ぼされる」と考えます。しかしアブラハムはそうは考えない。正しい者がそこに僅かでもいるとすれば、その者のために、たとえ堕落の町であっても「全体」を救うべきだと言うのです。悪人も含めてと。そこにこそ、神様の正義があるのではないですかと、その祈りにおいて意見するのです。
その後、恩師がユーモラスに説教した、競り合いが起こるのですが、私たちは祈りながら、時に全能の神が全て支配されているのだから、人間は祈る必要はないとふと考えることはないでしょうか。そうではないと聖書は教えるのです。確かに悪徳の町ソドムとゴモラを、主はその正義貫徹のために滅ぼす他はない。しかしその時、先ほどから強調してきましたように、主はいきなり鉄槌を下されるのではない。それで良いかどうか、ちゃんと御使いを派遣して町を調査する、そして自らの契約のパートナー・アブラハムと話し合いたい、そう主は願われるのです。そのようなお姿には、何とか、救いようなない町であるけれども、その滅びを回避したいと願っている主の御心が透けて見えいるのです。
私は十年前のレントの期節、あの3・11直後、四基の原発から白煙がもうもうと立ち上る風景を見た時、神に裁かれたと直感しました。偶像崇拝の国は滅びるとの預言者の言葉が今、この日本で成就しようとしていると確信しました。しかし、日本はあれから十年、今のところと言わなければならないでしょうが、かろうじて生き残っています。これは実は奇跡的なことだと言うことが、判明しています。人間がよくやったから止まったのではありません。思い掛けない奇跡的偶然が重なってメルトダウンが止まったのです。つまりもう一歩で東日本は壊滅したと言われているのです。私たちはあの時、信仰があるなしに関わらず、宗教の違いを超えて「この日本を滅ぼさないで下さい」と、まさに、ルカ福音書にある諦めないやもめの祈り(18:1)が、あるいはアブラハムの祈りが、この日本だけではない、ソウルでも、全世界でも、祈られたのです。神はその祈りを聞いて下さった、だから東京も滅亡を免れた、そう断言して良いのではないでしょうか。そこに神の大いなる赦しの憐れみが出現したのです。祈りとはそれ程の力があるのです。しかしそれは私たちの祈りが理に適っているからとか、力強く熱心であるからでは決してありません。私たちの祈りはいつも身勝手であり貧しい、しかし私たちの主がそれでも降って来て、私たちの前に立って下さり、私たちの祈りを謙って聞いて下さる、その空のように高く海のように、深い憐れみ御心の故に、私たちの祈りも意味を持つのです。
アブラハムの祈りは、ここで、神様と取り引きをするように、18:26、ソドムに正しい者が五十人いれば、町を助けて下さいと願います。しかし直ぐ自信をなくしました。
18:28「もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」神様は飲んで下さいます。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
18:29「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」よく分かったと。
18:30「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」
18:31 アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
18:32 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
値切りの駆け引きはとても難しいのではないでしょうか。特に東京人はこれは殆ど出来ないのではないでしょうか。この金額ならどうと提示した時、もしかしたら、馬鹿にするなと相手を怒らせてしまって、交渉決裂となる、それでは元も子もない。でも一円でもまけさせたい。そこにディレンマが起きます。18:30、18:32「どうかお怒りにならずに…」と人数を提示する時、二度も前置きをしていますが、ところがこのアブラハムの場合は、これも商売人の「ご機嫌取り的慣用句」だそうです。つまりこの交渉過程を見ると、常に優位なのはアブラハムの方で、何か神様の方は、足許を見られているような値切られ方に終始しています。それを良いことに、アブラハムの方は、慇懃無礼に厚かましい値切り交渉をします。どんどんまけさせて、十人にしてしまう、最初の1/5にしてしまうのですから、大阪商人(あきんど)も顔負けです。ところが神様は怒りもせずその無謀な競り落としを受け入れて下さるのです。それは中近東バザールで鍛えられたアブラハムの巧みさだったのでしょうか。そうではありません。先ほどから指摘してきましたように、主はもう救いようのない、悪の臨界点を超えている腐敗の町ソドムを、それでも、救いたいと最初から思っておられるのです。その主の顔色をアブラハムは読んでいるのです。つまり彼は、神は愛である、罪人をも救いたい、その憐れみに深い信頼を寄せているのです。だから、厚かましい祈りが出来るのです。神様は、祈りによって、御心を変えて下さるお方だとアブラハムは深く信じているのです。それこそ彼の信仰なのです。その信仰の父の神信頼を私たちも受け継ぐ時、私たちは祈る時、もっと喜びをもって、確信をもって祈りたくなるのではないでしょうか。
アブラハムの競り落としは十人で終わりました。ソドムには結局、十人の正しい人もいなかったためでしょう。ソドムだけではない、使徒パウロも言います。ローマ3:10~12「正しい者はいない。一人もいない。…/善を行う者はいない。ただの一人もいない。」もしそうであるならば、現在のソドムであるこの東京にも一人も正しい人がいのかったのではないでしょうか。しかし救われた、どうしてか。それはここにイエス・キリスト、そのお一人が、この東京にも臨在されたからではないでしょうか。
このアブラハムの祈りに応えるようにして、正しき人イエス・キリストが当時のソドムと言って良いエルサレムに、棕梠の主日に入城される。この御子の「正義」とは、アブラハムの祈りと同じです。創世記「正しい者がいれば町全体を滅ぼさない」それが神の正義です。この上なき正しき者である独り子が、へりくだって、十字架につかれることによってソドムを滅びから免れさせて下さるのです。この二千年前の独り子だ、一人の正しい人のご存在によって、この地球が滅びから免れたのです。ある学者はこの値切られることを許して下さった主は、最後には単に値切られることを超えて、ついには「身銭」まで切ってくださった、そう注解します(城崎進)。そしてこの棕梠の主日にまことに相応しい御言葉を引用されるのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。/…神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ一4:9~10)
まさにこの交渉において、いわば売り手であるはずの神様は、値引いただけでなかった。身銭を切られたのです。「出血受注」とか「出血販売」という商売用語があるそうです。ここで言えば、神様の「出血救済」です。主イエス・キリストがこの受難週金曜日に、文字通り十字架の上で「出血」されたのです。身銭を切られたのです。そうやって、父なる神は「その(正しいただ一人)独り子の出血のためにわたしは滅ぼしはしない」そう言って下さったのです。
「キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(コリント一15:22b)。
神は私たちの祈りによって、裁きの御心を変えて下さる、御自分の御子の「出血大サービス」に免じて、滅ぼさないと言って下さる。だから祈りにはしがいがある、私たちの祈りのお相手が、その出血の限りなき憐れみの主だからです。そのような神と出会えた私たちの祝福を思う。
祈りましょう。 主なる神様、あなたの思われる正義の意味を心にとどめ、この世界が滅びから免れるように、アブラハム、そして御子に倣って諦めず執り成しの祈りを捧げ続ける私たち西片町教会とならせて下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
a:573 t:1 y:0