2021年3月21日 主日朝礼拝説教「ご来臨の神を持て成せ」

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創世記18:1~15 ヨハネ黙示録3:20

目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、/言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。」(創世記18:2~3)

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(ヨハネ黙示録3:20)

説教者 山本裕司 牧師

 今朝の創世記の物語はこう始まりました。18:1「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。」小家畜飼育者アブラハムは、今日も早朝から働き初め、午前中に野外労働を終えていたと思います。太陽が天空に輝く昼の一時、巨木の影の下、アブラハムは労働の疲れもあって、朦朧していたかもしれません。その場所は、これまでもアブラハム物語で何度か出て来た地「マムレの樫の木の所」です。ヘブロンの郊外約三キロに位置しますが、注解は、ここは元々聖木の立つ、先住民カナン人の「聖地」であった、それが後の時代に聖書のアブラハム物語に取り入れられたと分析しています。アブラハムの気だるい昼下がり、そのマムレの樫の木の下こそが、まさにアブラハムにとって真(まこと)の主なる神と出会う真の聖地となると、創世記は物語るのです。

 アブラハムは18:2、ふと気配を感じて目を上げると、そこに三人の旅人が立っていました。元々カナン人の伝説には、この聖所で人は三人の不思議な旅人と出会うというものがあって、その影響がアブラハム物語にも投影されているとも言われます。聖書では、その三人の旅人こそ、18:1a「主は…現れた」と書いてあるように、真の主であられるのです。アブラハムはバネに弾かれたように飛び出て来て、地にひれ伏して旅人に言います。18:3「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。」18:5「せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから」、そう必死です。

 このように旅人を引き留める物語が福音書にもあることを、この期節、私たちは思い出すのではないでしょうか。ルカ福音書24:28~29(新161頁)「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。/二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。」主イエスの死に恐れおののく二人の弟子がエマオへ向かう逃避行に、いつの間にか一人の旅人が同伴する。道々その旅人が御言葉を説き明かしてくれた時、弟子たちの心は燃えますが、しかしその人が復活の主とは未だ分からない。分からない、それは当然でした。イエスは死に墓に埋葬されたのですから。人は死ぬと二度と生き返ることはない。ところが何故だろうか、一緒に歩く内に、弟子たちはこの旅人を離してはならないという気持ちになります。それで「一緒にお泊まり下さい」と無理に引き留めた。これを読む読者は、弟子たちが本当に引き留めてくれて良かったと思うのではないでしょうか。主が食卓でパンを割いて下さった、それを見た時弟子たちは目が開かれ、旅人が復活の主だと分かったのです。命が死に勝ったと。

 それに似てアブラハムも、その旅人の来訪に「お客様…どうか、僕のもとを通り過ぎないでください」と切望します。そして走り回って接待をなし、この上ないご馳走を用意させる。そこで神の言葉を聞くのです。私たちも今この礼拝において、現代のマムレの樫の木陰に座っているのではないでしょうか。今、皆様が座っているご家庭の一室、そこが聖所となっているのです。コロナ禍の試練の中に閉じ込められている私たちの前に、父、子、御霊なる三人が訪ねて下さいます。それに気付いたら、私たちもアブラハムに倣って、神様がここを通り過ぎてしまうことのないようにお引き留めしたい、そう願います。礼拝堂だけに神様は来て下さるのでありません。夏の日照りに似た試練の下で、それを避けるように閉じ籠もって朦朧としている時でも、あるいは真夜中の夢の中であっても、そこにも神様は御言葉の約束を携えて来て下さいます。その時を逃さず、18:5「せっかく」来て下さったのですからと、どうか私の前を通り過ぎないで下さいとお引き留め出来たら、それは何と素晴らしいことでしょうか。自分の若さや才覚で未だやっていける、そう思っていると、主イエスが私たちの心の扉を叩いて下さっているのに「間に合ってます」とつれない返事をするかもしれないのです。

 今朝与えられた新約聖書、ヨハネ黙示録3:20をもう一度朗読します。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」

 アブラハムとサラは扉を開いた。それは夫妻が人生に行き詰まっていたことに関係があったと思います。跡継ぎがどうしても生まれないのです。子孫を星の数ほどにするとの、神様の約束からもう二十年以上が過ぎました。創世記18:11「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。」以前、アブラハムは自分の最後の力を振り絞って、ハガルを用いて子孫を生み出そうとしました。イシュマエルが生まれた。思った通りになった。しかし神様はそれを御自身の計画には入れて下さらないのです。それで夫妻は完全に行き詰まった。だからこそ夫妻には、この夏の炎天下、どうしても主なる神の御来訪が必要だったのではないでしょうか。閉ざされた道が開かれるために。

 そこで旅人の一人は、18:10「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」そう約束して下さいました。しかし老夫妻の肉体には、新しい命を生み出す可能性は一つも残っていませんでした。しかしその時こそ、神の可能性が立ち現れて来るのです。人間の可能性を少々補強するようなものが神の言葉ではありません。ここで三人の旅人が暗示する父・子・御霊の三位一体の神が、私たちにして下さったことを思い出さざるを得ません。父なる神は「無からの創造」によって天地万物を造って下さった。御子は良き行いなき「無」なる罪人の内に、ただ恵みによって義を創造して下さった。受難週の夜、信仰無きペトロが「そんな人は知らない」と主を拒絶した、その彼の上に、やがてペンテコステの日がやって来る。風のような御霊が吹き渡った時、彼は一時に三千人の新しい命、洗礼者を生み出した。それはマムレの旅人の言葉、18:10「…そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」この約束がペトロにも及んだと言って良い。物語でもいつの間にか三人の旅人が「一体」となってしまって、その「唯一」なるお姿を以て主は断言された。18:14「主に不可能なことがあろうか」と。

 しかし、この約束、神の言葉を聞いた時、18:12「サラはひそかに笑った」とあります。先週読みました17章では、アブラハムが既にこの約束を前に冷笑しています。サラもそれに続いた。「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。」この約束は誰が聞いても「失笑」せずにおれないほど不可能なことなのです。しかしそれでも訪れて下さった主を何とか引き留める時、新しいことが始まる。エマオへの二人の弟子たちが主と共に食卓を囲んだ時「目が開け、イエスだと分かった」(ルカ24:31)、そうあるように、サラもまた最後には「死人を生かし、無から有を呼び出される」(ローマ4:17、口語訳)三位一体の神を信じるに至るのです。

 ところで、先週の水曜の聖書研究会祈祷会で「コヘレトの言葉」全章を出席者は読み終えました。その最後の章12章の冒頭(旧1047頁)にはこうありました。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。」これを読むと私を含めて「年を重ねた」者は、悲しくなるのではないでしょうか。コヘレトの言葉12:3以下には、特に高齢者の悲哀が見事な文学的比喩で語られています。その喩えを以て示されるのは、ひたすら高齢者の弱った肉体の描写です。その中に植物の比喩もあって、12:5「アーモンドの花は咲き」とは、その花が白いことから高齢者の白髪のことを表します。それに続く「アビヨナ」という聞き慣れない植物の名がありますが、「フウチョウボク」とか「ケッパー」のことと注解されます。これは「実」が媚薬や強壮剤として用いられました。最新の共同訳では「ケッパーの実はしぼむ」と訳されています。つまり強壮剤を用いても若返らないという意味です。そう言った直後、再びコヘレトの主題が表れます。12:8「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。」

 しかし私たちはこの新共同訳での訳「空しい」を「虚無」とは読まないと、小友聡先生の注解からこの五ヶ月間繰り返し教わって来ました。これは「空」と訳すべきところであり「束の間」という意味であると。「空」とはただ否定的な意味ではなく、肯定的な生き方を促す言葉になると学びました。つまり束の間、短い人生だからこそ、私たちはその時を掛け替えのないものとして、受け止めることが出来るのです。青春の時も「空」です。コヘレトはだからこそ、この宝物のような「短い時代」を無駄にせず、青春を有意義に用いて欲しい、そう若者たちに教えているのです。

 そうであれば私もそうですが高齢者には、12:1a「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」この言葉は何の関係もない勧めなのでしょうか。そんなことはないと思います。コヘレトの時代の平均寿命は四十歳に満たなかったそうです。そうであれば二十歳になったら、もう後十年か二十年しか生きられなかったのです。まさに「空」束の間です。これを今の長寿社会に換算すれば現在の六十歳~八十歳の年齢となるのではないでしょうか。21世紀の高齢者は古代人の二十歳の青年と丁度同じくらい「人生の時」が残されているのです。確かに残された時は短い、しかし後はただ死ぬのを待つのではありません。この二度と帰らないこの一瞬を、だからこそこの上なく貴重な宝物として、一番大切なことに用いなければ、もったいないのではないでしょうか。

 大串元亮(もとすけ)牧師は「コヘレトの言葉講解」の中で、心理学者の河合隼雄さんの言う、魂の若返りという説を紹介しています。五十八歳のKさんは、阪神淡路大震災に遭って精神に異常を来し入院します。彼はその時夢うつつの中で不思議な幻覚を経験します。朦朧とする中で、彼自身がどんどん若返っていくのです。四十代、三十代、ついに十代になりました。そのうちもっと小さい時の自分になり、その頃、嬉しかったことや悲しかったことが、昨日のことのように感じられてくる。ついにお母さんのお腹の中で安らいでいる経験をした時、病気が癒やされたそうです。アブラハムも真夏の日差しのもと朦朧とした中で、三人の旅人の姿を取った主に出会った瞬間、何故か魂の若返りを経験したのではないでしょうか。彼はその瞬間、天幕の周りで、創世記18:2「走り出て迎え」と、18:6、7「急いで」とあり、再び、18:7「走って行き」とあります。そう生き生きと躍動的に主を持て成す彼の姿は、とても百歳とは思えない、若者そのものであります。

 コヘレトは「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と勧めました。そうであれば、それは逆に読むべきではないでしょうか。「創造主に心を留めた時にこそ、そこに青春の日々がある」と。七十五歳の時、アブラハムはメソポタミアのハランでまさに創造主の言葉を聞いたのです。創世記12:1「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」(旧15頁)。それまでのアブラハムについて聖書は殆ど語りません。それは創造主がお声をかけて下さった瞬間から、アブラハムの人生の本番が始まったからではないでしょうか。その後、アブラハムが九十九歳となったと言って始まる、創世記17章は先週読みました。サラは九十歳です。実はそれまで「アブラムとサライ」だったのですが、この時主より新しい名を与えられました。改名とは新生を表します。新しくなる。最初、子どもが生まれると約束する創造主に、アブラハムは疑念の笑いを漏らします。しかし、やがて、コヘレトの言葉が、ついにアブラハム夫妻に実現するの時を迎えるのです。「創造主に心を留めた時にこそ、そこに青春の日々がある。」「無から有を呼び出す」創造主を信じる時、私たちは何歳になっても、若返る、新しい人に甦るのです。

 主はサラにもこう約束されました。18:14~15「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」/サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」この最後の主の言葉を私はただの叱責の言葉とは私には思えません。「あなたは確かに笑う」とここを読みたいと思いました。18:14「主には不可能なことはない」、この創造主の言葉をサラも心に留めた時、彼女も若返ったのではないでしょうか。そうやってついに神の約束にサラが「アーメン」と告白出来た時、既に神様が命名された子の名、17:19「イサク」(彼は笑う)が実現するのです。その名はもう否定的笑いのことではありません。17:1「全能の神」はそこで老人の諦めの失笑を、青春の希望の笑いへ、ニヒルな笑いを感動の笑いへ、冷たい笑いを喜びの笑いに、転じて下さった。「イサク」と。そしてその時、旅人はサラにもう一度言うのでしょう。「いや、あなたは確かに笑った」、その歓喜の笑いの中に私たちを招くために三人の旅人は近付いて来て下さる。うかうかしているわけにはいかない。目を覚まして扉を大きく開いて、創造主を、その三位一体の神を、大歓迎を以て迎える、その時何十歳であろうとも、私たちの前に、青春の扉が開く、これは本当です。

祈りましょう。 主なる神様、あなたの私たちの家庭への御来訪を今朝も迎えて、あなたの御言葉を聞くことの許された恵みに心から感謝します。時にあなたの余りにも大きなお約束の言葉の故に、信じることの出来ない愚かな私たちですが、無から命を呼び出されるあなたの可能性に目が開かれる私たち、創立132年を迎える、この春の西片町教会に、今、青春の日を甦らせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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