2021年3月14日 主日朝礼拝説教「アブラハム、神を笑う」

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創世記17:1~19(旧21頁) マタイ福音書9:23~24(新16頁)

アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」(創世記17:17)

「少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。(マタイ福音書9:24b)

説教者 山本裕司 牧師

 今朝私たちに与えられました創世記17:1bに、アブラムへの「全き者となりなさい」という神の言葉が記されてありました。私はこの同じ言葉を礼拝の「祝祷」の言葉として用いてきた頃がありました。それは使徒パウロのコリント二13:11の口語訳の言葉です。「最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるだろう。」聖書は口語訳から新共同訳に代わり、この「全き者となりなさい」は「完全な者になりなさい」となり、私も祝祷をこれに変えました。しかし今朝の創世記17:1は、新共同訳においても「全き者となりなさい」と口語訳と同じ翻訳が残されています。

 英語で言えば「be perfect」、そう神様から求められたアブラムは、全き者として生きたでしょうか。これまでも読んできたように、彼の人生はいつも「全きもの」であったわけではありませんでした。子孫を与えて下さる、その神の契約を信じることが出来ず、八十六歳(16:16)の時、女奴隷ハガルに男の子を産ませました。しかしそのために、ハガルと正妻サライがライバル心むき出しで争うようになり、家庭は修羅場となりました。そのアブラムたちの行いは祝福されなかったということです。そこで気を取り直して、アブラムとサライは、もう一度息子が与えられる日を待ちます。しかし、17:1「アブラムは九十九歳」となり、老夫妻はもはや万策尽きたということで、子孫を得ることは、それこそ全き絶望に至ってしまったのではないでしょうか。

 17:16「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。」この神の言葉を夫妻は「全く」信じることが出来なかったのです。その様子がこう17:17に書かれています。アブラハムはひれ伏した。しかし笑ってひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」アブラムはこの時、17:5で既に「アブラハム」に改名させられています。新しい名の付与とは新生や契約更新を表します。九十九歳の時に再び顕現下さり、17:2b「あなたをますます増やす」との厳かな契約更新を神様から受けた時も、17:3、彼はひれ伏しました。御前に出た時私たちの出来ることは礼拝のみです。しかしそこで彼は馬鹿らしいと笑った。およそ人が真剣に言っていることを失笑するほど失礼なことはありません。信仰の父アブラハムが神の言葉を冷笑したと言うのです。ある人はこう書きました。「およそ、人間が漏らした笑いで、この時のアブラハムの笑い程すごいものはなかった。怒りよりも、悲しみよりも、もっとすごいものが、この笑いである。」

 しかし原罪の子である人間は繰り返し、このすごい不信仰を犯してきました。今朝、もう一箇所朗読しましたマタイ福音書9:25で、会堂長の少女の葬式、そこに来て下さった主イエスが「少女は死んだのではない。眠っているのだ」そう言われた時「人々はイエスをあざ笑った」そう書かれてあります。そうであれば、いつの時代も、私たちにとって一番重大なはずの「命の問題」について神が語られる時、むしろ私たちは神をあざ笑う、最悪の罪を犯す、それが人間だと聖書は語ろうとしている、そう思います。

 「アブラハム」とは、余りにも偉大な名です。それは後に「唯一神」を信じる夥しい国民たち、つまりユダヤ教、イスラム教、キリスト教の共通の「信仰の父」の名となりました。17:4で神様がこう約束されたことが実現したのです。「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。/あなたを多くの国民の父とするからである。/これがあなたと結ぶわたしの契約である。」この改名のことですが、「アブラム」は「高められた父」の意味であり「アブラハム」は「多くの者の父」だそうです。主が「多くの国民の父とする」その約束に併せて名も、バージョンアップされた、そういうことです。ここで妻のことも言えば、17:15~16「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。/わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。」そう主は妻にもアブラハムと同じ「諸国民の母」との身分を与えられました。それに連動して改名されます。ある英語聖書は「サライ」とはまさに「あざけり」という意味と注釈していました(N.E.B.)。後にこの妻も三人の不思議な客人から子が生まれると聞いた時、「似た者夫婦」ということでしょうか、18:12「ひそかに笑い」ます。この名「サライ」にはその否定的な意味があったと言うのです。しかしその冷笑を神様の方も笑い飛ばすかのようにして、新しい名「サラ」を与えて下さった。その意味は「プリンセス」(王女)です。まさに「諸国民の母」にふさわしい名に神様は変えて下さったのです。

 確かに現在、アブラハムとサラ、その名「諸国民の父と母」、これが全世界において実現しつつあると言えますが、しかしアブラハムの昔、その壮大なる将来は知るよしもありません。私たちもまた、この日本社会や教会の躓きの中で、増し加えられる命の約束を疑わざるを得ない、そのような行き詰まりを経験しているのではないでしょうか。しかし神の約束を疑う私たちの罪にもかかわらず、神様はその新しい命のためのご計画を着々と進めておられる、そう今朝の御言葉から私たちも励ましを受けたいと思います。

 17:12以下に、この時の契約更新において、前回の15章に記される、真っ二つに裂いた生け贄を多数用いた荘厳な儀式と異なり、アブラハムの子孫は「割礼」を受けることだけが求められています。これに関しては旧約学者(von Rad)が、これが書かれた時のイスラエルの歴史的事情が関係あると指摘していました。創世記の成立は旧約学的には複数の資料を収集、編集して一巻にまとめられたものと言われますが、この17章は、その一つ「P」と呼ばれますが、祭司資料にオリジナルをもっていると指摘されます。その祭司資料が編纂された紀元前六世紀は、イスラエルにとって未曾有の国家的崩壊の時代でした。その時エルサレム神殿も瓦解した。主な人々は敵国の都に強制連行された、その「バビロン捕囚」の時代です。その異国の都では、生け贄を献げる荘厳な祭儀を行う術はありません。そこで捕囚の民は、その最悪の環境の中でも信仰を守るために「割礼」を自らが「神の民イスラエル」であることのしるしとしたと言われるのです。勿論イスラエルでは昔から割礼は行われていましたが、それこそが、17:11「契約のしるし」と定められるのは、この時代のことであったと学者は言うのです。それは支配者バビロニア人は割礼という習慣を持たなかったことと深い関係があると指摘されます。従って割礼を受けるとは、国と神殿を失った捕囚の民にとって、自らは誰であるかを明らかにする、唯一の残ったと言ってもよい信仰告白であったのです。

 そして私たちはここで思い出さなければならないことは、この同じ祭司記者が書いた創世記冒頭の天地創造のことです。創世記1:1~3「初めに、神は天地を創造された。/地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。/神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」繰り返せば未曾有の国家的崩壊、そしてそれに続くバビロン捕囚の悲劇を経験した人がこれを書いたのです。1:2「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」この言葉は、敗戦によって瓦解した都と神殿、そして同胞のおびただしい死を目の当たりにした者たちの言葉なのです。「混沌」を「瓦礫の山」と訳す人もいます。これは3・11の地震、津波、原発事故、そして今のコロナ禍の惨状を経験している私たちの見ている世界に似ているのではないでしょうか。口語訳では、「形なく、むなしく」と訳されました。その「地」は戦禍の末の瓦礫の山、そして次の世代に信仰を継承するための神殿も祭儀も失った者たちが立ち尽くす虚無の地です。まさに自分たちは老いさらばえた捕囚の民であり、もう新しい命を産み出す霊的若さはない、増えるどころではない減るばかりである、人間の可能性が「無」である、それがこの創世記冒頭の否定的言葉の連続「混沌、闇、深淵、水(大海)」です。

 しかしその人間の可能性の「死」の時にこそ、神の天地創造の御業が始まる、そう祭司は希望を語り始めるのです。1:1「初めに、神は天地を創造された」と。この天地創造の御業について、大昔から神学者たちは「無からの創造」と言ってきました。私たち人間は、確かに何かを作り出す、生み出すことが出来る存在です。しかしそれは「無」からではありません。何か大本の素材が既にあり、それに手を加えて、何かを作り出すだけです。しかし創造主はそうではない。そこにあるのは虚無と死のみなのに、そこに創造主の御声が響き渡る時、命が生まれるのです。1:3「 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった」と。17章においては、17:4「あなたは多くの国民の父となる」と。17:16「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう」と。アブラハム夫妻には人間の可能性は「無」であった。しかしそこで同じ祭司記者はこの捕囚の混沌時代、そこで信仰の子を生み出すことは不可能と、バビロニア人からも同胞からさえも、嘲られても、神は無から命を創造されるであろう、割礼を持った新しい神の民がこの捕囚の地からも創造される、それをあなたは信じるか、そう祭司記者はこの創世記を編纂することを以て希望を訴えたのです。
 
 「割礼」は教会において批判的に受け継がれて「洗礼」という形に改められました。使徒パウロはこう言っています。コロサイの信徒への手紙2:11~12「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼…を受け、/洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」この割礼はまさに洗礼にバージョンアップされた時、復活信仰となりました。誰もが死の現実の前で、嘲る他はない復活の命、しかしそれが洗礼によって私たちに与えられるとパウロは言ったのです。どうしてそんなことが言えたのかと言うと、それは「無からの創造」を可能とされる創造主が存在するからです。

 洗礼とはアブラハムと同様に、神との契約を私たちが結ぶことです。しかしそうやって洗礼を受けた後、そのキリスト者としての人生を思い出すと、私もそうですが、本当に自分は新しくなったのだろうか、そう訝ること度々です。それこそ礼拝をしていても、神の約束の言葉に対して心の中であざ笑う、それと同様に生き方において冷笑しているとしか思えない人生を作ってきたのではないか、そう思わざるを得ない。しかしそこで、私たちは創世記17:1の神様の自己紹介を今朝、聞かねばなりません。「わたしは全能の神である」と。全能の神に出来ないことはない。それが「無からの創造」の源泉です。私たちの魂がどれ程混沌の死の海に満たされていても、「無から有を呼び出す」ことが出来る、創造主の全能によって、死に瀕する私たちでも命を宿すことが出来る、そう約束されるのです。

 またパウロはこう言いました。口語訳で引用します。ローマ4:16b~19a「アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、/「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。/彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。…/すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態で」あったにもかかわらずとパウロは言うのです。

 創世記17:1b「全き者となりなさい」そう神様は私たちに求めます。どうしてそんなことが出来るのかと私たちは訝ります。しかしこの「完全」とは、決して私たちが理想的人間、つまり聖人となれと言われているのではありません。そうではなく、私たちがたとえ霊的に死んでいても、全能の神は、その無から信仰の命を創造して下さるお方である、それに信頼をすることです。私たちの誠実さや努力、そのような良き素材を用いて、神様はようやく私たちの内に信仰をお作りになるお方ではありません。そうではなくて、原罪の元にある私たちの魂は「無」であって、それをどのように加工しても、それが信仰に変わることはない。しかしだからこそ、ただ主イエス・キリストの十字架の贖いに頼り、その罪の赦しの福音によって魂を満たして頂く時、そこに、思い掛けず無から有が生まれる。闇が光に死が命に変わる。17:1b「全き者となりなさい」、それは全能の神が、私たちの信仰を創造して下さる、それを冷笑せず受け入れよ、そのような意味です。主イエスの十字架のお甦りによって、私たちの命も再創造されるのです。それを信じる子どもたちが教会から増し加えられていく。この偉大な福音が私たちに与えられたことを感謝しましょう。

 全能の父なる神様、私たち真に不完全な者をも、全き者とするために、御子をお遣わしになられ、私たちの犯す罪を、その十字架の贖いによって赦し、私たちを全き道に立ち帰らせて下さる、その恵みに感謝を致します。だから冷笑を捨て、その約束を信じ、この素晴らしい福音の喜びの故に、肩をたたき合うような思いを以て、笑い合う教会の交わりとならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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