2021年2月28日 主日礼拝「あの素晴らしい愛をもう一度」

https://www.youtube.com/watch?v=yh2G5HRqDBk=1s

創世記16:1~16(旧20頁)

「アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。」(創世記16:3)

説教者 山本裕司 牧師

 今朝、私たちに巡って来た創世記16章、その言葉の直前、創世記15章には神秘的な契約を神様がアブラムと交わして下さった出来事が書かれてありました。その中で、主は15章の終わり18節でこう契約を結ばれました。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」と。子孫に当時の全世界と呼んで良い土地を与えて下さる。この契約を頂戴したアブラムは、妻サライに喜び勇んで報告したことでしょう。夫妻は、その時どんなに敬虔となり、夕べ毎に感謝の祈りを献げ、気高い顔を上げて、あなたの子孫はあのようになると約束された満天の星を仰ぐ、それが夫妻の夕べの日課であったのではないでしょうか。そして今朝の16章になりました。するとぱっと舞台が暗転したかのようです。そこには、もう15章で目に浮かんだような、天を見上げる信仰深い夫妻の姿は見当たりません。何かしら薄汚れてしまった、疲れた顔の老夫妻がいるだけです。16:2サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。」サライだけではない。アブラムも約束を信じる気持ちが揺らいでいるように感じられます。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。その理由は、16:3「十年後」という言葉に暗示されるのではないでしょうか。荘厳な契約儀式から十年の歳月が過ぎました。それは彼らの顔から、神を愛する者としての気品を奪ってしまったのではないでしょうか。「長い時」とは残酷なものであることを私たちも経験的に知っているのではないでしょうか。

 この前ラジオから偶然、精神科医で心理学者でもある北山修さんが学生時代に作詞したフォークソングが流れてきました。私たちの世代の青春の歌です。「命かけてと 誓った日からすてきな想い出 残してきたのに あの時 同じ花を見て 美しいと言った二人の 心と心が 今はもう通わない」…「広い荒野に ぽつんといるよで 涙が知らずに あふれてくるのさ あの時 風が流れても 変わらないと言った二人の 心と心が 今はもう通わない あの素晴らしい愛をもう一度 あの素晴らしい愛をもう一度」。ある若者はコロナ禍の中でこれを初めて聞いた時、本当に涙が知らずに溢れてきたと言いました。また別の青年は、胸が張り裂けそう、時は戻らない、そう呟くのです。
 命かけてと誓った、風がながれても変わらないと誓った、それは疑いようもない真実です。しかし人は一瞬だけを生きることが出来ない。年を経るにつれてその悲しみが胸を打つ。どんなに美しいと思ったものも、やがて薄汚れてしまう。期待外れが何年も続く。その中で心は鮮度を失っていく。アブラムとサライにとって、それが信仰の世界で起こったのです。いえ原罪を持つ人間にとって、信仰の世界でこそ、このような心変わりは起き易いとも言えるのではないでしょうか。

 十年が過ぎた、そうであればこの時アブラムは八五歳(12:4参照)、サライは七五歳でした。夫妻は神と心と心がもう通わなくなっていたのです。サライは自らの変質を差し置いて、主の心のほうが十年で変わったのだ、そう疑ったようです。16:2「サライはアブラムに言った。『主はわたしに子どもを授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子どもを与えられるかもしれません。』アブラムは、サライの願いを聞き入れた。」

 北山修の歌のように全てのものは移ろいゆく、それは確かだけれども、この宇宙でただ一つ、決して変わらないお心がある。詩編詩人が歌ったように「千年といえども、夜の一時に過ぎない」(90編)、そのような永遠の主がおられるということを、夫妻はもう信じることが出来ない。だからサライは神の御手に将来を委ねることをやめ、自分のやり方で、あの神様の約束、子孫を星の数ほどにする、それを実現しようとした。そうやって、神の約束を人間が自力で果たそうとしたのです。

 今、夕礼拝で読んでいるのはマルコ福音書ですが先週読んだのは、9章に記される汚れた霊にとりつかれた子の癒やしの物語でした。主が御変貌の山に登られている最中、下界では残された弟子たちが宣教の使命を果たそうと懸命に、霊を追い出そうとしていました。出来ません。そこで山を降りてきた主が御言葉を以て霊を追い出して下さった、その素晴らしい癒やしの出来事の後、弟子たちは主に尋ねます。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」主はお答え下さった。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(マルコ9:28~29)と。教会が天に昇られた主から委ねられた宣教の使命を、下界で果たすためには、人間の知恵才覚に頼っても、良い仕事にはならないと言われているのです。祈ることが大切だ、それは主なる神にお委ねする信仰を持つことなのです。

 弟子たちと同じ間違いをサライはしているのです。それは「女奴隷」に、夫の子を宿らせるという方法でした。そのような形で神様の計画を、人間が自力で実現しようと図りました。つまりこの「代理母出産」は、御心を尋ね求めた末の結論ではありません。いつも祭壇で礼拝を献げていたアブラムが、ここでは祈っている、その姿が見られません。そこで彼は弟子たちと重なる。創世記16:2b「アブラムは、サライの願いを聞き入れた」そうあります。聞いたのは「サライの願い」であり、「神の願い」ではありません。ここでも彼は神様と「心と心が今はもう通わない」のです。ここに罪がある、そう歌わねばなりません。ある説教者はここに、エバの願いを受け入れ、禁断の果実を食べたアダムの姿が思い浮ぶと言うのです。それに匹敵する罪を、信仰の父アブラムが犯したと言ってよい、そう思います。それでいて、知恵の実を食べただけに、最初の夫妻は、神の問いに対して自己弁解の言い訳に長けた、それと似て、もう一組の夫妻も自分たちの知恵で約束を実現するのだ、子孫繁栄をするのだ、これは神様のためなのだ、そうやってその不信仰の自己正当化をしたのではないでしょうか。

 若い女奴隷ハガルはあっという間に身籠もりました。この夫妻の願いは実現しました。思った通りになった。しかし人間の願望成就こそ、神の裁きの始まりとなる、そのようなことが私たちの人生には時々あるのではないでしょうか。直ぐサライ自身が16:5b「主がわたしとあなた(夫)との間を裁かれますように」と訴えることになるのです。まさにこの夫妻は、祈らなかったために、妊娠という成功のただ中で、予想外の裁きを受けることになるのです。

 この物語は「代理母」によって子孫を得る方法が合法の社会で書かれています。アブラムと同時代に成立した「ハムラビ法典」にもそれを認める法があるそうです。しかし繰り返し申します。この場合それが人間の企てである限り神様は認めない、何故ならこれは信仰の父の物語だからです。

 この代理母出産ですが、福嶋裕子先生が最近出版された名著『ヒロインたちの聖書ものがたり』の中で、この時夫妻は神様の同意を得ていない、それだけでなく「女奴隷ハガルの同意も得ていない。現代なら、代理出産する者の同意が必要である。しかし奴隷は、いわば感情や意志を持たない『身体』だと見なされていた」そう指摘しています。つまり、奴隷は易々と子孫を残すための「道具」とされたのです。

 今朝の物語の原型は大変古いものだと言われています。ここで生まれたイシュマエルの一族が縄張りとした、井戸の聖地、16:14「ベエル・ラハイ・ロイ」のある「カデシュとベレドの間」、つまりパレスチナの遙か南部に、この物語は源流を持つと学者(von Rad)は指摘しています。しかし南部の彼ら古代人たちは、道具としての奴隷、しかも性を搾取される女性として二重の差別の中にあったハガル、その一人の女性を、16:12「野生のろばのよう」に自由な遊牧民イシュマエル族の母と覚えたのです。つまり我々にとって、彼女は「自由な人間」となろうとして奮闘したヒロインである、そう理解して、この物語を気の遠くなる昔に綴ることが出来たのです。

 その戦いはこう始まりました。16:4「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。」福嶋裕子先生もそうですが、やはりジェンダーの視点から創世記を説き明かした荒井英子先生は、妊娠や出産は、つまり「身体」は、女性の感情や知覚に大きな影響を与えると指摘します。外国で人工授精による「代理母」として子を産んだ女性が、その契約を一方的に破棄して、自分の子どもと主張し雇った夫妻に子を帰さなかったという事件が起こっています。ハガルの場合も、身分は変わらず女奴隷でしたが、主人アブラムの子を宿した時、そのお腹の命を「身体」が感じた時、同時に自分の限りない「命の値打ち」を発見したに違いないのです。

 もう一度読みます。16:4「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。」どう軽んじたのでしょうか。古代社会における代理母は、時が満ちた時、女主人の「膝の上」で子どもを産む、それが決まりでした(30:3)。この出産方法によって、その子どもは象徴的に、女主人自身の子宮から産まれたことになると法的に定められていたのです。

 作家ワンゲリン著『小説聖書』(旧約編)によると、妊婦として堂々と振る舞い始めたハガルですが、最もサライが許せなかった仕打ちはこれでした。代理母は出産時に女主人の膝の上に赤ちゃんを出産する、その練習を前もって二人がしていた、その時サライは命じました。「子どもは私の膝の上に産ませなさい、ハガル、私はお前に腕を回し、こうやっておまえの腹を下に押して!…」、そう求めた時、ハガルは「痛い!」と声をあげて、主人サライの手を思わず打ったのです。そしてハガルは練習を勝手に中断して出て行きました。そう想像の翼を広げてこの作家は書いています。

 つまり「私は道具ではない、痛みを感じる人間だ」、その点で主人と対等である、その意識が呼び覚まされていくのです。差別されてきた人が目覚め、一人の尊厳を持った人間として否を否と言う時、しかし差別者の側は自分が相対的に見下された、そう感じるものです。それが歴史的にも被差別者への強者の憎悪をかきたてることになってきました。今もそうです。16:5、この仕打ちをサライはアブラムに訴えました。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。…彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」

 この求めの通りアブラムとサライは子を得たために、返って神の裁きを受けねばならなくなる。かくして家庭の平和と秩序は崩れました。しかし、この神の裁きは、とたえ奴隷であっても人は決して道具ではないと、祝福にあずかる存在である。そのことを、この12:2「祝福の源」となる夫妻に教育する、それが今始まったという意味で、大きな恵みであったと言わねばなりません。12:3「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」その「すべての人に祝福を告げる」、アブラムのこの宣教の使命を果たすためには、どうしても彼ら夫妻が、自らの差別心から解放されねばならないはずです。だからここでも「神の裁きは恵みであり、神の恵みは裁きである。」その逆説が真理であると言えるのではないでしょうか。

 誰かを犠牲にして成り立つ秩序と平和は破壊されて当然でした。そうであれば、最初この企ては、祈らなかったのだから、神の願いではなかったと指摘しましたが、実はこれも神様の計画であった、そうとも言えると思います。神様はこのように人の信仰だけでなく、人の不信仰をも用いて、壮大な全人類への祝福の計画を進められるお方であります。そうやって、信仰の父と母を「祝福の源」へと育てようとして下さるお方なのです。

 今、ふと、受難週の夜、主イエスを裏切ろうとする弟子ペトロに、主イエスが言われた言葉を思い出しました。ルカ22:31~32「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。/しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 私たちのキリスト者の人生は洗礼を受けた時、「命かけてと誓った日」だけで終わるのではありません。その後も教会生活は長く続きます。十年、二十年…と。その時、私たちの移り気のために、もう神様とも同信の友とも「心と心が今はもう通わない」と、祈ることを怠る私たちかもしません。しかしその時こそ、主イエスが「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言って下さるのです。私たちが祈れなくなった分、主イエスが天で私たちのために今も祈って下さっているのです。だから私たちは立ち直ることが出来る。だから「兄弟たちを力づける」ことが出来る。「こんな私でも主は祝福して下さった、だから兄弟よ、神様はあなたを尊厳を持った人間として祝福して下さる、それは確かだ」、そう告げる宣教によって、私たちもまた「祝福の源」に戻ることが出来る、そうやって「あの素晴らしい愛」それが「もう一度」私たちには与えられるのであります。何と嬉しいことでしょう。

 祈りましょう。 主なる神様、洗礼を受け、天の星を仰いだ、その感動をやがて忘れ、あなたに対しても教会に対しても、斜に構えること度々の罪深い私たちを、このレントの期節、どうか戒めて下さい。しかしその時も、あなたは立ち直ることが出来ると励まして下さる、その主の愛に応えて、もう一度、幼子のような信仰を甦らせることが出来ますように。そうやって洗礼の誓いを、死に至るまで守ることが出来ますように、私たちに聖霊を注いで下さい。 


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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