2021年2月21日 主日朝礼拝説教「日が沈みかけたころ」
https://www.youtube.com/watch?v=SHVAsxDNad8=1s
創世記15:1~21(旧19頁) ルカ福音書23:44~47(新159頁)
「日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。」(創世記15:12)
「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。/太陽は光を失っていた。」(ルカ福音書23:44~45)
説教者 山本裕司 牧師
今日は、朝ではなく夕礼拝に相応しいような説教題を掲げてしまいました。「日が沈みかけたころ」と。これは今朝巡ってきた、創世記15:12の御言葉の引用です。「日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。」この「深い眠り」とは、旧約聖書の中に何度か出て来ます。それぞれ印象深いのですが、有名なのは、天地創造物語の中で、アダムのあばら骨を抜き取って女を造り出す時、創造主はアダムを「深い眠り」に落とされた神話です。私も経験がありますが、手術台で麻酔をかけられると、死んだも同然の暗闇の中に墜落し、後は医者たちに全てを委ねる他はありませんでした。それに似て、深い眠りの中でアダムはこの上なく無力となります。しかしそのように人間が無力となった時こそ、共にいて生きて働いて下さる神様に全てを委ねる、その時、神様が大きなことをなして下さる、そう暗示されているのではないでしょうか。暗黒の中でアダムは何も出来ません。しかしそれでいて、神はアダムのあばら骨は用いられたのです。神は眠りと暗闇の底に落ちている無力な私たちであるのに、そこにも、何か値打ちあるものを、一方的な恵みを以て産み出すことがお出来になる創造主である、そう言われているのです。
アブラムにもそれが起こりました。「日が沈みかけたころ」それが始まったというのは、暗示的です。聖学院大学の藤掛明先生には『十六時四十分』というエッセーがあります。副題には「がんになった臨床心理士のこころの記録」とあり、ご自身の経験を書いています。何故「十六時四十分」なのでしょうか。これは人生を一日24時間に例えると、先生ががんの告知を受けた年齢が、十六時四十分にあたるという意味です。この計算方法は、実年齢を3で割る方法です。15歳なら3で割ると、未だ早朝5時を生きていることになる。36歳なら12で、丁度人生の真昼時にいることになります。先生のがん告知は50歳ですので、3で割ると16余り2となり、16時40分であった。夏であれば未だ太陽が輝いていますが、冬至前後では日が沈む時刻です。最もこの計算では、72歳でもう24時ということになってしまいますので寿命が短かった時の計算方法ということでしょう。しかしやはり、大きな病気をすれば、たとえ50歳でも、冬至の季節のように、人生の日が沈もうとしていると私たちは感じるに違いありません。
75歳を過ぎていたアブラムにとっての問題は、自分の命をどう子孫に受け継ぐのかということです。神様から、あなたを大いなる国民にすると、祝福の源とするとの偉大な使命を与えられて、彼は故郷ウルから旅立ちました。ところが一人の息子も与えられません。約束の地カナンに寄留しましたが、そこは15:16、先住民アモリ人の土地です。子孫たちが、大地の砂粒のように空の星の数のようになるとも約束されました。でもアブラムには、その欠片でさえも見出すことは出来なかったのです。15:7「土地を与える」とも言われる主に、アブラムは問い返します。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」36歳の正午に神の約束を聞いたのではありません。やはり16時40分頃だったのでしょうか、15:12、人生の日は沈みかけている、深い眠りに襲われ暗黒が海のように満ちてくる。直ぐ夜がやって来る、その人間の無力の中で、しかし、先程も言いましたが、アダムがそうであったように、死んだようなアブラムに対しても、創造主なる神が、何かを産み出すために働き始めて下さるのです。
神の約束を訝るアブラムに対して、主は契約を結ぼうとされます。15:9「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」これは大昔の契約の儀式のやり方が書かれているそうです。大昔、人と人が契約を結ぶ時、生け贄(いけにえ)の動物を二つに切り裂き、その死体を向かい合わせに置きます。そして裂かれた動物の間を、契約を交わす二人が通る。その意味は、もし契約違反をしたら、この動物のように肉を裂かれ血を流すことになるのだと、だから契約を必ず守ろうという意志を表明することになるそうです(エレミヤ34:18参照)。それが用意されました。
その時は未だ、昼だったのでしょうか、15:11、その血の匂いを発する生け贄を狙って、禿鷹が降りて来た時は、アブラムは未だ元気だった。禿鷹を追い払って契約が成立するように頑張ることが出来たのです。しかしやがて15:12、日は沈みかける。アブラムは深い眠りと大いなる暗黒に包まれる、その麻痺したような無力の中で、アブラムは神の言葉を聞くのです。
15:13以下は出エジプト記に書かれていることですが、四百年の間奴隷として仕え、その後、エジプトを脱出し、四代先に子孫はこの土地に戻って来るだろう。そういう約束です。アブラムは、この夕暮れ、神様が土地を下さると言うのだから、この数年の内には、どこか近くの土地を、アモリ人から購入することが出来るようにして下さる。その土地を少しずつ増やして、子孫が身を寄せて暮らす集落くらいが出来るのだろう、これはそういういう神様の約束なのだと思ったかもしれません。寄留者にとってそれでも大成功なのです。しかしそうではない。アブラムの子孫が15:5「天の星の数になる」という約束もそうですが、何もそこまででなくていいです、と遠慮したくなるような、壮大な契約を取り交わすと言うのです。数百年単位の遠い将来の約束が、しかも四百年間の異国の奴隷生活の後に、その波瀾万丈の末に、「全世界」を子孫に与えるという、その大きさが15:18の土地の名に表れています。その桁外れに広い土地があなたの子孫のものとなるという約束です。しかし私たちは知っています。神様のこの約束はさらに大きかったということを。実際、このアブラムに対してなされた契約はどう実現したのでしょうか。
アブラハムの生きた時代から凡そ二千年の時を経て「アブラハムの子」(マタイ1:1)として主イエス・キリストが生まれます。さらにそのお方を信じるキリスト者が誕生しました。そのキリスト者は、新約聖書の中で「アブラハムの子孫」(ガラテヤ3:29)と呼ばれます。15:6、アブラハムと同じく信仰によって義と認められた者たちです。そのアブラハムの子孫、それはカナンの枠を遙かに超えて、全世界に広がって行きました。
真の神を求めて旅立ち、人生の夕べを迎えているアブラムです。その間、これまで読んできたように、罪を犯し思い悩む、そのような経験の中で日が沈みかけているのです。それは私たちも身に覚えがあるのではないでしょうか。真昼の頃は、15:11「禿鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った」と、神様と交わした約束を、妨害しようとするサタンを、その誘惑を、力技で追い払うことも時に出来たかもしれない。しかし、やがて日が沈んでくるのです。その時、深い眠りに襲われ、暗黒に臨まれる。そういう経験をする。カトリック教会の神父様は、その聖職者としの人生の中で、年を経るにつれて純粋へと清められていく、聖人に近付いていく、そんなことが言われます。それに対してプロテスタントの牧師の一生は、献身を決意した、その少年、青年時代の時が一番純粋で光り輝き、その終わりの頃、最も暗くなる、本当か嘘か分かりませんが、そんな風に言われることがあります。牧師は疲れ切ってしまうのでしょうか。その時、15:12、信仰を眠らせる禿鷹に襲われるのです。もう抵抗出来ない。まさに「日が沈む」、「恐ろしい暗黒が臨む」、そういう人生の夜が私たちにも来るかもしれません。しかし繰り返します。その時こそ神が働いて下さる時なのです。
そこでアブラムとの契約の話ですが、注解者たちは、ここでの契約の特徴とは一方的に神様が土地授与の約束をして下さっていることだと指摘します。通常の契約のように相互的の約束ではなないと言うのです。それはアブラムの方はその裂かれた動物の間を通っていないことから分かると言うのです。興味深いのは、15:17「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」これは神様ご自身か、あるいは誰か神秘的な存在が、煙を吐く炉と燃える松明の姿を取って、契約のしるしの間を通り過ぎたのです。ある人はこの炉と松明とは、この神様と人類の最初の大きな契約のために、特別に天から地に派遣された、聖霊と御子である、そう言います。もしそうであれば「三位一体」の主が一方的な恵みとして、全人類を代表するアブラムと契約を結んで下さったのだ、そう推測するのです。これは本当に心動かされる解釈です。
先ほどもう一箇所旧約聖書に併せて朗読しました、ルカ福音書(23:44)は、子なる神イエスが十字架で息を引き取られる直前の出来事をこう記しています。「昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。」主イエスが十字架につかれたのは真昼でした。しかし主を十字架につけた人間の罪、その暗黒が余りに深いために、ついに日の光までも覆い尽くしてしまったと言ってよい。ゴルゴタのその深い闇と重なる創世記15:12「恐ろしい大いなる暗黒」とは、さらに言えば、あの天地創造前の「地」、1:2「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」、その「闇」をも思い出させます。さらに「神の霊が水の面を動いていた」と続きますが、この「水」とは原始の虚無の大海のことです。こう記す創世記記者がじっと見詰めている「地」とは、あらゆる命を窒息させてしまう、漆黒の大海が全宇宙を充たしているという虚無的世界です。それは人間が神の子を殺そうとする、その15:17「アモリ人の罪の極み」さえも遙かに超える「極限の罪」が作り出した「恐ろしい大いなる暗黒」と言い換えられるのです。それこそが「地」の本質だと言われるのです。この暗黒こそ宇宙を圧倒的に充たしている、その原罪の暗黒を、アブラムもまたこの夜、経験しているのです。
最近、宇宙科学の分野では、正体不明の「暗黒物質」(ダークマター)の存在が語られます。その宇宙を満たす暗黒物質の存在を勘定に入れなければ、宇宙の様々な謎は解けないと学者たちは言うのです。それは創世記記者が、天地創造前やアブラムの時に見詰めている圧倒的暗黒に似ているのではないでしょうか。しかし記者はそこで絶望しません。この救い難き闇と深淵、死大海の面を、それにもかかわらず、神の霊が動いていた、と言うのです。そこに光が射します。そうやって闇の地は、なお神に見捨てられていないと言われるのです。この神の霊、聖霊様が無力な「アブラムの面でも動いて」下さり「煙を吐く炉」となって、契約を結んで下さったのではないでしょうか。その聖霊様のお力によって、アブラムは、15:6「主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」、この信仰を得ることが出来たのではないでしょうか。使徒パウロはこう言いました。コリント一 12:3「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」
先週の「灰の水曜日」より、私たちはレントの期節を迎えました。そこで学ぶことは、御子イエスが、私たちの罪のために十字架で肉を裂かれ血を流されたということです。そのお方が、煙を吐く炉のような聖霊様と共に、燃える松明として、裂かれた生け贄の間を既に通って下さったのではないでしょうか。私たちが、16時40分を迎え、深い眠りと暗黒に覆われ、どうしても神との約束、契約を果たすことが出来ない、人生の夜を迎え、もう麻痺した頭の上の禿鷹を追い払う力は残っていない、だからもう契約を破った者として、肉を裂かれ血を流さなければならない、そう思った時、あに図らんや、引き裂かれ血を流して下さったのは御子であった。そうやって、父に執り成して下さったのです。そこで私たちは契約不履行の罪を、御子は燃える松明として燃やし尽くして下さる。洗礼者ヨハネがこう言ったように。
ルカ3:16b~17「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。/そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
「そのお方」を信じる信仰のみによって義とされる、その道を神は開いて下さったのではないでしょうか。15:6「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」これ以外に、日が沈みかけ、深い眠りと暗黒の中に落ちる私たちに救いはない。行いはなくても信仰のみによって義とされる、この一方的な恵みの契約によって救われる、この宗教改革の心を受け継ぐ時、私たちの罪にもかかわらず、教会は土地を継ぐことが出来るであろう。そこでプロテスタント教会も、そこで疲れ果ててしまった牧師も甦ることが出来る。15:18~19「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで…」と。教会が全世界を力尽くで支配するのではありません。あらゆる土地の上に教会堂を建て「信仰のみによって義とされる」その福音を信じるアブラハムの子を星の数のように増し加えていく、その伝道の使命に生きるのです。そうやって、15:19~21「カイン人、ケナズ人、カドモニ人、/ヘト人、ペリジ人、レファイム人、/アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人」、つまり全世界の民に、教会は祝福を告げて回るのです。そうやってアブラハムの子の使命、12:2「祝福の源」となるのです。
祈りましょう。 主なる神様、罪の暗黒のただ中に落ちている私たちをどうかあなたが憐れみの内に覚えて下さい。そして十字架の御子の犠牲の故に、私たちの罪を贖って下さい。それが故に私たちがどんなに罪と死の暗黒の底に落ちても、そこでもなおアブラハムの信仰の星を輝かせることが出来ますように。そのために禿鷹をも暗黒をも吹き飛ばす聖霊様の風を私たちに強く送って下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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