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2021年2月14日 主日朝礼拝説教「旅人に金銀は重い」

2021年2月14日 主日朝礼拝説教「旅人に金銀は重い」

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創世記13:1~18(旧16頁) ルカ福音書6:20(新112頁)

「その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。」(創世記13:6)

「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」(ルカ福音書6:20)

説教者 山本裕司 牧師

 先週は、創世記12:10以下に記される、アブラムとその家族が、ネゲブ地方での飢饉のため、エジプトに避難した物語を読みました。その時彼は「自分の妻」を「妹」と偽り、エジプト王ファラオのハレムに送りました。それに対してファラオがアブラムに支払った報酬は、12:16「羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなど」でした。この「など」の中には、今朝の13:2、アブラムがネゲブに帰った時、多くの家畜の他に「金銀を持っていた」とありますから、これもファラオから与えられた物でしょう。しかしそれは、妻サライを人身御供のように差し出した「罪の報酬」なのです。使徒パウロは「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)と言いましたが、その呪いは何故かアブラムには及ばず、創世記12:17「ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」のです。神はアブラムを「祝福の源」(12:2)とすると言われましたが、エジプトで彼は「呪いの源」となってしまったのです。人の良いファラオから、あなたの妻も報酬も、呪い諸共持ってここから立ち去ってくれ、そう言われた時、アブラムは自らの犯した罪に愕然としたのではないでしょうか。

 「罪が支払う報酬は死である。」しかし私たちは知っています、私たちの罪の報酬のために呪われたのは私たちではなかった、神の国の王イエスであったということを。アブラムも自分の罪のためにエジプト王が呪われたと知った時、私たちが御子を信じた時と同様に「回心」したのではないでしょうか。悔い改めとは方向転換、回心の意味です。それがアブラムにとって大変具体的な形を取りました。13:1彼は「妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った」とあります。13:3「ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。」これは、12:8~9(旧15頁)に記される彼の旅路の「逆コース」を正確に辿っていることが分かります。事実、13:4で創世記者は、「そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」と念を押して、アブラムは、礼拝の場、主の御名を呼ぶ場に、ブーメランのように戻ったのだ、神に帰ったのだ、そう強調しているのです。

 私たちも一度神から離れてしまって、そこから悔い改めるとしたら、それは具体的な形を取るのです。頭でだけ回心するというのではありません。コロナが去ったある日曜朝、あるいは夕べ、地下鉄に乗って、本当に久し振りかもしれない、東大前駅に降り、西片町教会に戻って来るのです。アブラムはそれをしたのです。そうやって、今度こそ、呪いの源でなく、祝福の源となる、その神様の選びの約束に応えるために、戻って来るのです。

 しかし、とにかく、アブラムは今や13:2「非常に多くの家畜や金銀」とあるように豊かになって帰ってきました。親族ロトも13:5「羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた」とありますが、注解者(中村信博)は細かいことに気付き、13:3の以前の「天幕」は単数形だったが、エジプトから戻った5節は、複数形となっているなどと指摘します。財産を収納するテントが何枚にもなったのかもしれません。しかし繰り返します、その財産とは罪の報酬なのです。その財産にはファラオのやつれた顔と、最愛の妻の心身の傷がへばりついているのです。注解はこうも指摘します。13:2「非常に多くの家畜や金銀を持っていた」、ここを直訳すると、「家畜、金銀で非常に重かった」と訳せると。ここで「重い」と訳された言葉が、12:10にも出て来ていて「飢饉がひどかった」、この「ひどかった」が「重かった」と同じ言葉です。そうであれば、創世記記者は、飢饉や貧しさが人生の重荷である以上に、実は、財産を持つことこそ重い試練なのだ、そう暗示しているのではないでしょうか。

 13:1「アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。」アブラムと甥ロトは、ここまで旅の苦楽を共にしてきました。ところがその二人が、財産が出来た途端別れることになったと言うのです。13:6~7「その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。/アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。」牧草地や水場の取り合いになったのでしょう。「ロト」と聞いて連想するのは、宝くじ「ロト6」のことです。それで思い掛けない大金を手に入れた当選者が、必ずしも幸福にはならないようです。ネットで調べると、不幸になった話が次々に表れます。それこそ金の取り合いで家族がバラバラになったり、友情が壊れたりするという話です。人間にとって過分な財産は余りにも13:2「重い」のです。

 先週、ヨルダンの世界遺産「ワディ・ラム」を紹介する番組を観て魅了されてしまいました。炎天下の砂漠は死と隣り合わせの過酷な環境です。そのため昔からラクダで旅するキャラバンは夜進みます。月明かりに照らされた砂漠の美しさと安らぎは例えようがない。だからその交易路は、ワディ・ラム「月の谷」と呼ばれました。その砂漠の遊牧民は山羊の牧草を求めて一月毎に引っ越しますが、30分もすれば、それこそ一枚(単数)のテントや家財道具もたたまれてしまいます。それは軽い。定住化政策によって、村で暮らす人も増えましたが、昔のままの遊牧の人は言います。決まった所に家を建てて住むなんて窮屈で俺には無理だね。必要なものはみなここにあるじゃないか。この湧き水も草原もみな神様の恵みだ。見ろよこの美しい景色を、みんなここに引っ越して来いよと言います。テントの下の家族の楽しげな団らん、わずかなナンとチーズと紅茶の食卓、私たちには貧しく見えますが、彼らは子どもも含めて健康そのものです。イスラエルの出自はこのような遊牧民でした。そこで彼らは必要なものはみな、その都度与えてくれる砂漠の神ヤハウエと共に生きたのです。私も昔、登山をした時、ろくに使いもしない道具や、食べきれない食糧を持って行ったために、重量に苦しめられた記憶があります。繰り返し言います。まさに私たちには、意外にも財産こそ13:2「重い」、それはそれを担いだ人のみが知っていることでしょう。

 13:6「その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。」13:7、アブラムの羊飼い、ロトの羊飼い、それに先住民「カナン人、ペリジ人」が加わった、三つ巴の水や牧草の取り合いがあったに違いありません。その争いを避けてアブラムは年下のロトに土地の選択権を譲りました。ここに彼の「柔和」な心が表れています。13:9「あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」ロトは、13:10「目を上げて眺め」ます。その視界に入ったのは「ヨルダン川流域の低地一帯は、主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限りよく潤って」いる土地でした。彼はその豊かさに引きつけられ「東へ移って行き」ました。この13:11「東」ですが、既にそこはロトの見立てに反する、呪われた場所と暗示されているのではないでしょうか。「東」という名を聞くと、私たちは原罪を犯したアダムとエバ、そしてカインの追放の地「エデンの東」を思い出すのではないでしょうか。また11:2(旧13頁)、「シンアルの地」に、バベルの塔を建てようとした王たちも「東の方から」移動してきたとありました。アブラムたちが出て来た故郷、やはりバベルの塔のモデルとなった「ジッグラト」が建つウルも「東」にあります。つまり「東」には原罪の匂いがするのです。ロトはその「東」に進み、さらに13:12b「ソドムにまで天幕を移し」ます。13:13「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」そうあるように、このソドムはやがてゴモラと共に神様によって滅ぼされる町です。ロトが定住するこの豊かな町とは、自分たちが出て来た、メソポタミアのウルに匹敵する罪の町だったのです。つまりロトはアブラムと逆の意味で、ブーメランのように彼は「東」に戻った、バベルの塔に象徴される力と富の偶像崇拝に戻った、そう暗示されるのです。

 何故そうなったかと言うと、ロトが御心を尋ねなかったからです。13:10、自分が「目を上げて眺めた」だけです。よく潤っていた、それで東に進む方向を決めた。それと対照的にアブラムは、祈ったに違いありません。御声を聞きます。13:14「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。」そう主は言われますが、ここで同じ「目を上げて見る」でも、ロトのように「神なしで見る」のと、アブラムのように「神に促されて見る」とでは、まるで違う、その後の人生の道は呪いと祝福ほどに違ってしまう、そう創世記記者は読者に向かって、あなたが進もうとする時、目を上げて見る先は、どちらなのですか、そう問うているのです。主はロトが選ばなかった「大地の砂粒が数え切れない」砂漠をアブラムに見せ「しかし」と言われるのです。ソドムではない、こここそ真の「主の園」(13:10)となると、信仰の大地となると、砂漠の主ヤハウエは言われているのです。

 13:15b「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。/さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」「縦横に歩き回る」、共同訳では「自由に歩き回る」です。自由に歩き回るには「金銀は重い」。アブラムはウルやエジプト、そしてソドムに代表されるバベル的富に頼む生き方から決別することが求められているのです。その「信仰の父」に、主は、見える限りの土地を永久に子孫に与えると約束して下さるのです。その大地の砂粒のような夥しい信仰の子孫こそが地球に広がるのだと。この約束を聞いて、13:18「アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築」きました。やはりここでも礼拝です。13章の最初13:4と、最後13:18、この両節に「祭壇」という言葉があってこの物語全体を囲い込んでいる、そのような文学的構造があるのが分かります。砂漠の主ヤハウエを礼拝する者こそが、地を受け継ぐと約束されるのです。

 主イエスもまたこう教えて下さいました。ルカ6:20「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」マタイ5:5「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ」と。マタイは主イエスのエルサレム入城の記事で、もう一度「柔和」という言葉を使いました。「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って」と。今年も春のレントの期節が近付いてきましたが、その棕梠の主日で、主イエスは輝くような軍馬ではなく貧しき驢馬の子に乗って、強面ではなく柔和な方として都エルサレムに入城されました。そうやって、真に神の国を、地を嗣ぐ者とは誰か、それを身を以てお示しになったのです。

 創世記を続けて読むと、14:1以下には、古い特殊資料に基づく聖書初の世界大戦の記事があります。その冒頭に14:1「シンアルの王」とあり、まさにバベルの塔の建った土地の王を筆頭に、アブラムが出で立った東方メソポタミア、その国々の王四人が連合して、死海南端の小国を攻撃するために遠征して来る、そういう戦争物語です。この戦争の原因は死海周辺の鉱山利権や奴隷を収奪のためであったと推測されます。鉱山や奴隷は、まさにメソポタミア諸国が巨大都市を築くためには欠かせない資源でした。迎え撃つのは、14:3「五人の王」とありますが、死海南端のソドムとゴモラを含む小都市国家の王たちです。この小国は、14:4にあるように、12年間、やはり東方エラムの王ケドルラオメルに支配されてきたのですが、それに耐えられず、死海で同盟を結び、東の王に謀反を起こしたのです。それに対して、東の王たちも連合軍を組織しカナンに大軍を送ったのです。次々にカナン前哨防衛線は打ち破られ、ついにシディムの谷(死海)で、14:8~9、カナン同盟軍は総力戦に挑みました。しかし脆くも打ち破られ、14:10ですが、カナン王たちは逃亡しました。かくして、14:11~12「ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、/ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。」という大敗北を喫したのです。ここでも金銀は国際紛争の原因、重荷であります。それを聞いたアブラムは奴隷たちを招集して、連れ去られた甥ロトを奪還するという英雄物語となります。

 この戦争は力と富を追い求めるバベル的価値観の衝突です。現在も数千年前と何も変わらず、資源と金を狙う経済、武力の戦争が世界中で続いています。金銀は重い。その時、主イエスは、軍馬でなく驢馬の子に乗って、カナンの地、エルサレムに、柔和な王として入城されました。そして貧しい姿を取られ十字架で死なれたのです。しかしこの王は、十字架の貧しさと柔和さを以て、罪と死の虜となった私たちを奪還して下さいました。そして復活の主は、12使徒を伝道の旅に派遣されます。そういう形で、信仰の父アブラハムの子孫で全世界を大地の砂粒のように、満たそうとされたのです。争いでなく柔和によって、力ではなく愛によって、大都市建設ではなく遊牧の旅によって、重い金銀ではなく身軽によって、バベルの塔でなく祭壇によって、つまり礼拝によって、つまり神の恵みによって、地を受け継ぐ者たちを呼び起こされたのです。私たちもその幸いの、祝福の道を今、旅しているのです。

祈りましょう。 主なる神様、力と富が人を生かす幸いの道と覚え、直ぐ東へと向かう私たちの罪を、御子の十字架の贖いを以て贖って下さい。その犠牲の赦しを知った者として悔い改め、信仰の父アブラハムの子孫にさせて頂き、地を嗣ぐ者となることが出来ますように。その地のどこにあっても、祭壇を築いた先達に倣い、私たちもあなたへの礼拝を一筋に献げつつ旅を続ける、祝福の道を進む西片町教会の民とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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