2021年12月5日 主日朝礼拝説教「ついにシロが来て」

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創世記38:1~30 ヨハネ福音書9:6~7

「王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。」(創世記49:10)

そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。(ヨハネ福音書9:7)

説教者 山本裕司 牧師

 既にここで読んできましたように、ヤコブの最愛の子ヨセフは、兄たちの嫉妬の嵐に遭いエジプトへ売られてしまいました。兄たちの弟に対する蛮行は父には隠蔽されました。ヨセフの血染めの衣の断片が父のもとに届けられ、彼は野獣に食われたことになったのです。ヤコブはその報告を疑いながらも、ヨセフが失われてしまったその事実を、長い苦悶の末認めざるを得ませんでした。彼はこの11番目の息子に家督権と祝福を継承したいと願っていましたが、それは不可能となりました。そこで浮上してきた息子こそ四男ユダでした。ドタンでヨセフの死を願わず、古井戸の穴から引き上げ、イシュマエル人に売ろうと提案したのはこのユダでした(創世記37:26)。トーマス・マンに言わせれば、ユダは確かに愚かな罪を犯す男でしたが、良心を持っていました。他の兄弟たちがあの惨劇の記憶に苦しめられることもない中で、ユダは父の悲しそうな顔を見る度に、目を反らさずにおれませんでした。ヤコブは密かにヨセフなき今、かろうじて良心的なユダに神の祝福を継承しようと考えていたのです。

 そのために、その後、ユダはヘブロンで父から徹底的に宗教教育を受け、クリスチャンホームの子どもに間々見られるように、半ば強制されたとはいえ唯一の神への礼拝を欠かさない者となりました。しかし彼は父の家を離れ「アドラム人」(38:1)の地に移ることによってカナンの誘惑を受けることになったのです。そこは農業神バアルと女神アシュトレトとの交わりによって肥沃がもたらされるという信心が支配している地でした。その神々の振る舞いを真似て、祭りの度に神殿娼婦が参詣者と交わるのです。

 父の目の届かないアドラムやケジブに移住したユダは、娼婦の誘惑にさらされる度に、自分自身の官能とせめぎ合わずにおれませんでした。彼はそれを恥じ、自分が祝福を受ける後継者に選ばれる資格が、本当にあるのだろうかと疑わざるをえませんでした。このように罪の誘惑に弱いにもかかわらず、良心の呵責が強い者こそがユダだったのです。他の兄弟たちは、父と唯一の神を裏切ることに何の痛痒も感じませんでした。つまり「地獄」とは純潔を願う人間にのみ存在し、獣には存在しない、そうマンは断じます。
 そのユダの生み出すユダ族こそ、後のイスラエルの歴史の中で卓越した地位を占めることになるのです。「南王国ユダ」や「ユダヤ人」の名もこの一人の男に端緒を持つのです。このように悩みのユダこそが、祝福の継承者と選ばれるのです。後の時代、このように罪に苦しむユダヤ人パウロこそが「信仰のみ」という祝福を知ったように。

 「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:15~24)。
 
 物語にはカナンの地におけるユダの結婚が記されています。「ユダはそこで、カナン人のシュアという人の娘を見初めて結婚し、彼女のところに入った」(創世記38:2)。このカナン人の妻は3人の息子を産みました。エル、オナン、シェラです。やがて長男エルはタマルという嫁を迎えます(38:6)。この女性について作家マンは大きな想像の翼を広げて物語を紡ぎ出していますので、それを今朝は紹介したいと思います。

 タマルはヘブロン郊外の土地の子であり、バアルを信仰する小農の娘でした。母は焼麦やチーズを小娘に持たせてヤコブの天幕に売りに行かせていました。老ヤコブはタマルが売りにくると必ず買ってあげた。タマルの瞳は深い湖のようであり魔性的なものすら感じさせ、ヤコブはすっかり彼女に惹きつけられていたのです。一方タマルも訪問する度にヤコブの語る「天地創造神話」に魅了され、彼を深く尊敬するようになりました。ヤコブは彼女に大木や巨石を拝む自然宗教や、バアルのような豊饒の神々が約束する御利益では、実は人は生きることが出来ないのだと教えました。我々が井戸のような陰府に落ち、その上を巨石の蓋が塞いでしまっても、それをお一人でわきに転がして下さるお方こそが真の神であり、そのお方こそ砂漠の神ヤハウエなのだ、そう伝えたのです。同時にこの神こそ天地の創造主であり、無から言葉のみで万物を創造されたのだ。ところが最初の人間は禁断の木の実を食べ、偶像崇拝に転落し楽園を追放された。その原罪は遺伝し、やがて生まれた兄弟は例外なく憎み合い、兄は嫉妬にかられて弟を殺す。そうやって唯一神に人間は謀反を企て、それぞれ勝手な偶像を拝むようになったのだと。

 しかしカナンから遙か東方の彼方、メソポタミアのウルで神は一人の男に自らを顕し、偶像から決別させるために、行き先を知らせず旅立たせた。そのウルの男こそ私の祖父アブラハムなのだ。神は全人類の中から唯一選ばれたアブラハムに自らの祝福を与えられた。そしてその祝福を子から孫へ、そのまた孫へと永遠に受け継ぐことを命じられた。「この私こそヤハウエの祝福を受け継いだイスラエルなのだ!」そうタマルの前でヤコブは年甲斐もなく胸を張った。彼女が好きだったヤコブは、自分の名の意味が「かかと」であり、兄エサウのかかとをつかんで「出し抜き」、祝福を奪ったことは、言わなかった…のです。

 タマルが全能者の祝福を相続した大長老イスラエルの言葉に圧倒された時、続けてヤコブは彼女に重々しく預言してみせた。おそらく残された11人の内、四男ユダの血の流れの中から、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と呻かずにおれない原罪を贖う、真の王が生まれるであろう。その王こそが上から全人類を押し潰そうとしてきた罪と死の井戸の石蓋を、ついに脇へ転がしてしまうであろう、そして湧き出でる命の水で洗って下さる、その英雄の名こそ「シロ」であると。それは数十年後、エジプトの老ヤコブが神に召される直前、息子たちに祝福を継承する、その遺言で公に明らかにする希望の「名」でありました。

 「王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」(創世記49:10)。

 ヘブロンのヤコブは、未だ誰にも打ち明けていない天上の秘密を、タマルに告白すると、天を見上げて恍惚としてこう祈ったのだ。

 「主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む」(49:18)。

 タマルはこう聞いた瞬間、電撃に打たれたようになった。自分は確かに異邦人・カナンの女に過ぎないけれども、私もまたこの神の宇宙的救済史の一齣になりたい、そう宗教的野心に捕らえられてしまったのです。それが彼女の信仰開眼でした。神の国という大海に流れ込む祝福の大河の一滴でも良い、自分がそれになりたい。ヤコブ先生が預言した、やがて到来する王の王、主の主「シロ」の母にもしかしたら自分がなれるかもしれない、その予感で体がブルブル震えるほどであった。しかしタマルは既に後れをとっていて、ユダにはカナン人の妻がいて、既に3人の息子がいたので割り込むことは許されませんでした。そこでタマルは祝福の後継者であるユダから、次の後継者に選ばれるはずのユダの息子たちに目をつけました。彼女はユダの長男エルとの縁談をどうか進めて欲しいとお願いをしました。ヤコブは自分が説教した天地創造物語や深い井戸の話に、つまり今で言う聖書講解に、身も心も夢中になって聴いてくれた初めての女性タマルが、自分の親族になってくれるのが嬉しくないわけがなかった。それで一も二もなくユダに長男エルとタマルの縁談を進めるように求めました。ところがその結婚は祝福されなかったのです。「ユダの長男エルは主の意に反したので、主は彼を殺された」(38:7)。エルが何をしたかは書いてありません。マンの小説ではこの3人の息子ともろくな男ではなく、とうてい目に見えない霊的世界に思いを馳せることなど出来ない男たちであったと描かれてあります。とにかくエルは死んだ。そうするとどうなるかと言うと、古代中東の定めに「レヴィラート婚」(申命記25:5~6)という制度がありました。それは死んだ長男の代わりに弟がその長男の妻との間に子どもを作り、長男の名や財産を残すという婚姻法でした。しかしユダは長男が呪われたように死んだことから、何かタマルに不吉なものを感じて、次男オナンを与えるのを躊躇しました。しかし何故か嫁タマルの肩ばかり持つ父が頑固に命令するし、婚姻法にも逆らえず、結局ユダはオナンに言った。「兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫をのこしなさい」(38:8)。しかし次男オナンは子どもが出来たとしても、子は兄エルの名を受け継ぎ、長子の家督権がそちらに相続されると知り、夜の寝室で子種を流して子どもが生まれないようにしたのです。そこからオナンのしたことと意味は、やや変わりましたが「オナニー」という言葉が生まれました。とにかくやはりオナンも主の御心に反したため息絶えた(38:10)。末っ子シェラは未だ16歳であり、いよいよ魔性の嫁タマルが恐ろしくなったユダは、何とか「レヴィラート婚」を免れようと嫁に命じました。「わたしの息子のシェラが成人するまで、あなたは父上の家で、やもめのまま暮らしていなさい。それは、シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからであった」(38:11)。そう聖書に書かれています。

 それから「かなりの年月がたって」(38:12)、ユダの妻が死に、その喪が明けた頃、羊の毛を切るティムナの祭りの日が巡ってきました。ヨセフのことや家族の死が続き鬱的であったユダですが、カナンの祭りに友人のアドラム人ヒラに誘われて、久し振りに愉快になり、ほろ酔い気分で帰り道を歩いていると、お祭りにつきものの神殿娼婦が路傍に座っていました。鬱屈の人生、そのストレスのはけ口を求めたユダは「路傍にいる彼女に近寄って、『さあ、あなたの所に入らせてくれ』と言った」(38:16a)。この顔を隠して娼婦に変装している女こそタマルでした。彼女はオナンが死んで3年待っても三男シェラとの結婚が許されなかったことで、ユダの本心を知りました。しかし彼女の野心は消えず、自分がヤコブの壮大な救済史の一端に加えられることを願い続けてきた。そこで、もはやその息子ではない、祝福の継承者と確実視されている義父ユダと直接関係を持とうと、とんでもない計画をたて決行したのです。

 そのアシュトレト祭儀の報酬は子山羊一匹としましたが、当然ユダは持ち合わせていないので娼婦は担保を求めます。その一つが「ひもの付いた印章」(38:18)でした。これはユダ家、さらには後のユダ族を象徴する「実印」です。またもう一つの担保「杖」は「部族」とも訳される言葉だそうです。つまりタマルは自分こそが、神の祝福を筆頭で継承するはずの「ユダ部族」の母となる、その保証を暗にここで求め、手に入れようとする、それがこの担保の意味だという解釈があります。

 その後、ユダは子山羊を友人に託して送り届け、保証の印章と杖を取り戻そうとしますが、ヒラがいくら捜しても神殿娼婦は見当たりませんでした。それから3ヶ月が過ぎた頃、寡婦のタマルが妊娠していることが明らかになりました。これはこの地方で久しくなかったスキャンダルでした。喪中の後家が浅ましいことをしたことが明るみに出たのです。しゅうとユダが激怒したのは言うまでもありません。タマルはユダの二人の息子を次々に食い殺した上、この仕打ちかと血が逆流する思いであった。ところが結末はこうです。

 「三か月ほどたって、『あなたの嫁タマルは姦淫をし、しかも、姦淫によって身ごもりました』とユダに告げる者があったので、ユダは言った。『あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ。』/ところが、引きずり出されようとしたとき、タマルはしゅうとに使いをやって言った。『わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。』彼女は続けて言った。『どうか、このひもの付いた印章とこの杖とが、どなたのものか、お調べください。』」(38:24~25)。こうしてユダはタマルの相手が自分自身であったことを悟りました。そして言いました。「わたしよりも彼女の方が正しい」(38:26a)と。

 マンはそれから半年後のことを描きます。タマルは月が満ちて双子の男の子を産んだ。ユダは確かに二人の息子をタマルによって失ったが、それと比較にならないほどましな二人の息子をタマルから授かったのだ。特に38:28以下に記される、出産の時、最初に手を出した子ゼラ(真っ赤の意味)を追い抜き、産まれ出たペレツ、だから「出し抜き」と名付けられた子は、わけても逞しく育ちました。まさにこのタマルの双子は、先々代リベカの双子、真っ赤なエサウとヤコブ(かかとをつかむ者)の反復であったのです。従ってペレツこそが、やがてイスラエル・ユダ族の子孫たちを本格的に歴史の中に送り出すことになる本流、祖父ヤコブの祝福の継承者となったのです。

 新約聖書は冒頭でこう語り始めます。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツは…エッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」そして終わりに王の王、主の主イエス・キリストがユダ族・ダビデの子として、クリスマスの夜にお生まれになるのです。

 成長された主イエスは、ある年の仮庵祭で、ヤコブが預言し待ち望んだ「来るべき方シロ」として救済の力を現されました。それがヨハネ福音書9章に記される「シロアムの池」での盲人開眼の物語なのです。その名「シロアム」の意味は「遣わされた者」(ヨハネ9:7)と説明されています。元々の「シロアム」の意味は「水道」という普通の意味だそうですが、それはまさに命の「水道」メシアを暗示するのです。その名「シロアム」と、創世記49章の「ヤコブの遺言」の中に現れる「シロ」が、ユダヤ教「ラビ文書」では一つの名として重なり「メシア預言」として解釈されてきました*1。ユダ族から到来する「シロ」こそ、水道「シロアム」のように、神から遣わされた命の水と光を、渇ける人、闇の中を行く人に届ける「道」である。そのようにラビたちは、伝統的に「シロ」と「シロアム」を結びつけてきました。そこにユダ族の家系から現れ、ついに、このシロアムの池に来られた御子イエスこそ、まさにヤコブが待ち望んだ救い主「シロ」であられると、ヨハネ福音書は洞察しているのです。このシロアムの水で目を洗う時、「イエスこそ、神から遣わされたメシア・シロである」、その霊的事実に開眼する。それが光を見る奇跡なのだとヨハネ福音書は語るのです。

 ヤコブがタマルに教えた壮大な神の救いの歴史、私たちの人生と歴史に覆い被さる原罪、その死の闇の巨石の蓋、それをユダの子孫「シロ」はわきに転がしてしまい、私たちに命の水と光を与えるであろう。そうやってヤコブの祝福をユダを介して全人類に受け継がせていくであろう*2。その救済史、その系図の中に、勇敢にも自分の存在を組み入れようとしたタマルの血は、今も私たちキリスト者の中に流れています。私たちの人生もまた、神の壮大な救いの歴史、全人類を祝福するまで続く神の物語、その一齣として、その流れの中に位置づけられているのです。それは何と光栄なことでしょう。

祈りましょう。 主なる父なる神様、あなたは人類の歴史の曙から、私たち罪人を死から救う計画をたてられ、多くの先達を、あなたの救済史のために用いられたことを覚えて感謝します。私たちの名もまた、聖霊の水の注ぎに与ることによって、ヤコブの祝福を後世に持ち運ぶ器として、クリスマスの御子の系図の一人に書き加えて下さいますようにお願いをいたします。


*1  土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想』【3】238~239頁参照。


*2  銘形秀則「シロアム(遣わされた者、הַשִּׁלֹחַ)の池に行って、洗いなさい。」「池」は「ベレーハー」(בְּרֵכָה)で、語源は「バーラフ」(בָּרַךְ)で「ひざまずく」という意味と「祝福される」と言う意味が隠されている。つまり、「シロアムの池に行って、洗いなさい」とは、遣わされたメシアの前にひざまずくなら、祝福されることを意味する。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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