2021年12月26日 主日朝礼拝説教「神はキリストを高く上げ」
https://www.youtube.com/watch?v=FNgqqF0xY5o=1s
招詞 詩編139:7~10 創世記39:21~40:23 フィリピの信徒への手紙2:6~11
「三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、元の職務に復帰させてくださいます。」(創世記40:13a)
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピの信徒への手紙2:9)
説教者 山本裕司 牧師
クリスマスによって一週あきましたが、再び創世記連続講解に今朝から戻ります。今やヨセフは監獄の囚人です。監獄とはどういう世界でしょうか。連続企業爆破事件を起こした死刑囚・大道寺将司(まさし)の俳句にはこうあります。「面壁(めんぺき)も二十二年の彼岸かな」、ヨセフの周りにも、面壁を何十年も見つめる死刑囚や終身刑の囚人たちが多くいたことでしょう。医師であり作家の加賀乙彦さんがそういう極限状態にいる囚人研究者であることは有名です。終身刑の者は薄められたような時間の中を、生ける屍のように無感動に過ごす。逆に死刑囚は濃密な時間を生き、激しい躁鬱が繰り返され感情を爆発させると。どちらにしても未来への希望のなさがそうさせるのです。また複数の牧師たちがここの聖書講解で引用しますが、ドストエフスキーは自分自身が4年間の監獄生活を経験し、そこでの見聞を『死の家の記録』という作品としました。「ほとんどの囚人が堕落しきっている。…それは地獄というか、真っ暗闇の世界だ。」人間関係は「中傷、陰口、憎悪にまみれた世界」と書いています。大道寺将司は歌います。「囚人の諍ひ絶えぬ油照」(めしゆうどのいさかいたえぬあぶらでり)。世間は囚人たちを、この蒸し暑く淀んだ「油照」の底に落としてしまえば、彼らの「顔」と存在を忘れることが出来るのです。
ところが、ヨセフはその、諍ひ絶えぬ「死の家」で、囚人たちに、創世記40:7b「今日は、どうしてそんなに憂うつな顔をしているのですか」と尋ねることが出来たのです。左近淑先生はこのヨセフの「今日は…」という何気ない言葉に注目しておられます。「今日は」と聞いているのは、昨日と比べているからだと。毎日、自分が牢屋番として世話している人を注意深く、温かく、わずかの顔色の変化も見落とさないで、思いやりをもって見ているからこそ、顔の変化を敏感に感じ取れるのだと。本当にそうだと思いました。
彼はもう十年間獄中生活を強いられていました。それは、20歳から30歳(41:46)とも、27歳から37歳とも言われますが、どちらにしてもかけがえのない青年時代の全てを「死の家」で過ごしたのです。絶望してドストエフスキーや加賀乙彦が見た囚人のようになっていてもおかしくありません。ところが、ヨセフはあくまで人間の心を失うことはありませんでした。どうしてそんなに優しくなれたのでしょうか。私たちも、時に監獄の「諍い絶えぬ油照」とそれほど違わない穴に落ちてしまう時、このヨセフの秘密を知りたいと切実に思うのではないでしょうか。
その秘密を聖書は繰り返し、 39:21、23「主がヨセフと共におられた」からであると語っていると思います。世間が囚人の存在を忘れても、主なる神様がヨセフを忘れなかったからと言い換えてもよい。そしてヨセフの顔色を毎日主が憐れみの眼差しを以て、先の礼拝招詞139:11のように「見て」いて下さったからに違いない。その愛の眼差しが、ヨセフの空井戸の如き魂に、水のように注ぎ込まれ、それが溢れ出るようにして、ヨセフもまた隣人の顔色を見る、そのいたわりに生きることが出来たのです。
このクリスマスの季節、私たちは何度「インマヌエル」と賛美したことでしょうか。作家たちが「地獄」と呼ぶ獄中で、ヨセフがなお健やかな心を保持することが出来た、その秘密がインマヌエルであるなら、それがいかに偉大な御名であるかを改めてここで私たちは教えられるのです。先にもう一つ朗読したフィリピの信徒への手紙は、別名「喜びの手紙」です。これを書いた使徒パウロは、人生の順風満帆の時を迎えていたから喜びを語ったのでしょうか。そうでありません。これは「獄中書簡」とも呼ばれるのです。そのまま殉教したのではないかとも言われます。しかし彼はこう書いた。先に朗読した少し先ですが、「…礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。/同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(2:17b~18)と。やはりインマヌエルの確信の故であったに違いありません。私たちもまた人間の毀誉褒貶の末、結局、何もかも失った時、人の褒め言葉どころか、陰口、中傷の油照りの穴に転落した時、その時こそ、この御名の値打ち、インマヌエルの大きさが私たちにも初めて分かるようになるのではないでしょうか。
この時入獄した男たちは、エジプト王ファラオの、創世記40:1「給仕役」と「料理役」の長という宮廷高官でした。それはエジプト中のおびただしいソムリエやシェフの頂点に立った超エリートということです。彼らはこれまで自分に向けられるおびただしい賞賛を聞いてきたことでしょう。そうやって人も羨む頂点に昇った。しかしその高評がいかにはかないものであるかを、彼らは知ったのです。
ある牧師はこれらヨセフ物語の一つの主題は、「人生の支えは何か」という問題だと指摘します。言い換えれば「あなたの生存の根拠は何か」という問いだと言われます。ヨセフは、ドタンで兄たちによって裸にされ穴に落とされた。それは彼が頼った、父の寵愛と晴れ着は、人生の支えではなかったということが、暴露された事件だったのです。次に彼はエジプトで頭角を現しポティファル家で執事頭に出世しました。しかしポティファルの妻によってやはり執事の衣を奪われ裸にされた。私たちも似た経験をすると先に言いました。私たちは地上の地位では、からくも裸にされなかったとしても、私たちは必ず終わりの死によって裸にされます。地上の支えの全てを失った時、ヨブが言ったようにです。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」(1:21)。
しかしその裸の闇の底で何もかも失った時、もし私たちをなお支えるものがあるとしたら、それは何か、私たちはそれを喉から手が出るほど欲しい、生存の根拠は何か、もう一度言います。「主がヨセフと共におられた」と。そのインマヌエルの事実、それはもはや誰にも奪うことは出来ない私たちの支えなのです。今朝の礼拝招詞をもう一度朗読します。詩編139:7、11「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。…/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。…わたしは言う。『闇の中でも主はわたしを見ておられる。…』」と。
陰府に落とされ、もうここには誰もいない、誰もわたしを見ていないと思った時、あに図らんや、見よ、あなたはそこにいて見ておられると、驚きの声を詩人はあげています。それは私たちにとって、インマヌエルの御子イエスにおいてクリスマスの夜、現実となりました。御子イエスは馬小屋に生まれ囚人として十字架につけられ陰府に降られました。私たちが家畜扱いの如き陰府の穴に落ちたとしても、主イエスは共にいて下さる、そのためであります。ヘブライ人への手紙4:15「キリストは、わたしたちの弱さに同情できない方ではない。…何故なら、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたからです。」そのキリストの先取りとして、罪人の一人に落ちたヨセフもまた、同じ境遇の隣人の顔色に同情を寄せることが出来る者となったのです。
元々ヨセフは、父に甘やかされて育ち、人の顔色など気にもかけない少年でした。彼は、兄たちの前で、これ見よがしに晴れ着をまとうような子どもでした。兄たちはその晴れ着を見る度に、顔色を変えたに違いない、その顔色の変化が分かれば二度とそんなことは出来ないはずです。しかし少年の目は塞がれている。彼は兄たちの束がヨセフの束の前にひれ伏す夢、太陽と月と11の星がヨセフにひれ伏す夢を見ました。それを得意になって兄たちに吹聴した。確かにその通りの夢ですから、本当のことを言って何が悪い、そうヨセフは思ったに違いありません。しかしそれが本当のことであっても、こうしたら相手の顔色がどうなるか、その想像力は彼には何もありませんでした。終わりにドタンの草原で汗みずくで働いている兄たちの前に、晴れ着を着て涼しげに現れる、それは相手の顔色に無頓着なエゴイストの姿です。
いえまことに賢いヨセフは、むしろ意地悪でそうしたのかもしれません。こうすれば、兄たちはまた顔色を変えるだろう、それを見るのがおもしろかった。そして兄たちが怒って手を上げた時、鬼の首でも取ったかのように、父に告げ口してやろうと思っていたのかもしれない。賢い子どもは時にそういうことをする。そうやって「死の家」、「ガラスの城」をせっせと建てるのです。
しかしヨセフは兄たちの怒りの鉄槌を受け穴に落とされ、無論、父に告げ口する機会も与えられないまま、エジプトに引かれていきました。その神の鍛錬によって、彼は学ぶのです。父にどうしても愛されない悲しさや、嫉妬の苦しみ、血を分けた弟を殺したいとさえ思う、その兄たちの心の激痛を、初めて彼は自分の穴に転落した痛みを通して、感じることが出来るようになったのです。そうやって、ヨセフは相手の顔色の変化に同情出来る人に成長していきました。あるいは、彼には元々、相手の顔色を読む賢さが備わっていたのなら、その賜物を悪用するのではなく、これからは良いことに用いられるようになった、そういうことです。創世記40:7b「今日は、どうしてそんなに憂うつな顔をしているのですか」と。全ては神様のご計画でした。そういう思いやりなしには、ヨセフが、やがてやってくる世界の肉体と魂の大飢饉から、エジプト人を、イスラエルを救う、その器とはなり得なかったからです。ある人は、このヨセフ物語は、イスラエルの少年たちがどういう人間に成長しなければならないのか、その教育の教科書としても用いられたのでないかと想像しています。
憐れみ深いヨセフの問に、二人は答えました。40:8a「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」。監獄にはフロイトのような夢判断の学者はいません。だから夢の意味が分からないと嘆いています。しかしヨセフはそこで、40:8b「解き明かしは神がなさることではありませんか」と答えました。言い換えれば、やはり神はここに共におられるという信仰告白の言葉です。その促しによって給仕役の長が打ち明け始めました。40:9~11「わたしが夢を見ていると、一本のぶどうの木が目の前に現れたのです。/そのぶどうの木には三本のつるがありました。それがみるみるうちに芽を出したかと思うと、すぐに花が咲き、ふさふさとしたぶどうが熟しました。/ファラオの杯を手にしていたわたしは、そのぶどうを取って、ファラオの杯に搾り、その杯をファラオにささげました。」ヨセフは神からの示しを受けて答えます。彼の見た三本のつるとは、三日のことです。生命力溢れるその葡萄の木とその実りは、明るい兆しです。40:13a「三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、元の職務に復帰させてくださいます。」次は料理役の番ですが、それと対照的に彼の処刑を予知するものでした。
ヨセフは喜ぶ給仕役に、40:14「ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください」とお願いしました。ところが信仰なき給仕役の長は、喉元過ぎれば熱さ忘れるということでしょうか。王宮高官に戻った時、世間と同様に監獄の囚人ヨセフの顔のことを忘れてしまったのです(40:23)。しかしそこでもう一度言わねばなりません。誰が忘れてしまっても、神だけは「死の家」の底のヨセフの顔を忘れない、インマヌエルの主だということです。
主イエスもまた受難週の夜、囚人として捕らえられました。その裁きの時、やはり囚人は二人いました。しかし、そこから給仕役のように解放されたのは、バラバの方であり、主イエスは料理役のように処刑される側となりました。しかしヨセフに夢解きの神は既にここで「三日たてば」と示されました。そこに作家たちがもう「ない」と言った、穴の底の者への「未来の希望」が生まれるのではないでしょうか。それから一千数百年後、主イエスは三日目に陰府の穴の油照から引き上げられ、春の朝風に吹かれて、復活されるのです。
先に朗読したフィリピ2:6~9を読みます。「キリストは、…へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。/このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」やがてヨセフもこの高く上げられる三日目を迎えることが暗示されているのです。私たちまた皆から見捨てられても、インマヌエルの主は私たちの顔を思い出し下さり、贖い、三日目に高く上げて下さるであろう。このクリスマスの御名こそ、私たちの生存の根拠であり、未来の揺るぎなき命の希望です。
祈りましょう。 主なる神様、時にどん底に落ちる私たちの顔色を、インマヌエルの主は忘れずに思い出して下さる、そのような御名がこの季節与えられたことを心から感謝します。それにもかかわらず、私たちの方は、隣人のみならずあなたの御顔さえ忘れる、この忘恩の罪をどうか戒めて下さり、どうか悔い改めて、2022年こそ、あなたの溢れる愛を以て、あなたと隣人の顔色に仕える者となれるように、聖霊を注いで下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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