2021年12月24日 クリスマス・イブ礼拝「クリスマスは真夜中の祭り」

https://www.youtube.com/watch?v=yQsNlAu14vY=1s

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ福音書1:5)

説教者 山本裕司 牧師

 クリスマスは夜の祭りです。いえもっと正確には真夜中の祭りです。今クリスマスゆかりの御言葉を幾つか朗読致しました。その御言葉に心を合わせるようにして、クリスマス讃美歌を皆さんも心の中で歌われたことでしょう。そしてお気付きになったでしょうか。どのクリスマスの聖書の言葉を聞いても、どの讃美歌を歌っても、そこに共通していることは、時は夜であるということです。真夜中だということです。

 異国の学者たちが、長い砂漠をこえて幼子イエスを訪ねますが、その旅は夜の旅です。彼等は夜の闇の中に光る一つの星に導かれて、ベツレヘムの飼葉桶の中に眠る幼子イエスと出会うのですから。羊飼いたちもまた、真夜中羊の番をしている時に、光に満たされて空を舞う天使から救い主イエスの誕生を知らされるのです。

 私たちのこのイブ礼拝も、こうして夜守られます。主イエス・キリストの御誕生が夜の闇の中で起こったことを記念するために。

 では、どうして御子イエスは真夜中にお生まれになったのでしょうか。

 昼とは私たちが活発に動き回る時です。町は騒がしくざわめき、人々は時間に縛られ、追いたてられるように仕事をなし、車は先を争って道を走り抜け、少しでも無駄なく成果を上げようとします。昼間とは、私たちが自動車のようになる時だと言ってもよいでしょう。作家の加賀乙彦さんは、ある作品の中で現代の日本人を「自動車」に例えています。「自動車」とは、ただ前進するだけの能力を極限まで高めたものです。それに今の私たちは似ている。最短距離を最短時間で走れるように、ただ目的を目指して前へ前へと走る、自動車のようなものだ。脇目を振ったり、寄り道をしたりすることは許されない。立ち止まって道に咲く花を見たり、雲の流れをいつまでもじっと見ていたりする、そのようなことは許されない。職場でも学校でもそういう前進のためだけの能力をたたき込む。昼間は当然それが正しい立派な生き方だと思っているのです。そうしなくては、競争に負けちゃう。目的を果たせない。そうしなくては豊かになれない。そうしなくては経済成長は出来ないと。

 皆さんの中にも、そのような師走の季節を走り抜けて今夜に至った方がおられるかと思います。受験生は勉強が全てだと思うような生活をして、このイブを迎えたに違いありません。それはしかし、私たちの昼の心です。夜になると、私たちの心は、変わります。

 夜とは静寂の時です。一人になる時、黙る時です。その沈黙の中で、私たちは本当の自分を取り戻していく。そして車を降りるように、昼の舞台から降りて、寄り道をするかのように自分の心と向き合うのです。そうすると、昼に考えていたことと、全く違う生き方があることに気付かせられるかもしれません。この生き方が全てだと思っていた時に、それが崩されるような経験をさせられるのが「夜」ではないでしょうか。

 もっと潤いのあるもの、もっと柔らかなもの、もっと清らかなもの、歌のようなもの、夢のようなことが自分に、とても必要なことを私たちは真夜中に思い出すのではないでしょうか。

 山田太一さんというシナリオ・ライターがいます。その作品の一つに『真夜中の匂い』という物語があります。それこそ車の洪水と言ってもよい東京が舞台です。三人の女の学生がひょんなことからある男に出会う。バーのピアノ弾きです。奇妙なゲームを得意とする男。現実を拒否して芝居をし続けて生きているような男です。賢い彼女たちは最初、その男を馬鹿にします。地道な生き方をせず、家庭ももたず、まるで社会の落ちこぼれでしかない男。ところが徐々に彼女たちは、彼の何とも言えない魅力に気付いていく。ついに男との恋が生まれ、彼女たちは一歩ずつ「夜の世界」へ足を踏み入れていくというお話です。自分が傷つくことを恐れ、安定、安全こそ全てだと思っていた女の子の心がそこで変わってくる。そういう中で、山田さんはこういう会話を、その男と学生にさせています。「どうして、こういう生き方をするようになったの」と問われた時に、男はこう答え始める。「会社をやめただけだよ。よくある奴だ。高校を出て、すぐに入った会社でね。16年勤めた。工業用の接着材をつくっていた。しかし、現場ははじめの4年だけであとは経理で、会計士顔負けというようなことをいわれた。結婚も早かった。しかし彼女は29の時、男と逃げた。結婚7年目。不思議なくらい平気だった。仕事が忙しかったし、会社はそういう事情を承知の上で高校出をはじめて経理課長にしてくれた。帰りがおそいと文句をいう女房がいなくなってほっとしたくらいだった。愛というようなものはなかったし、悲しみというようなものもなかった、怒りもね。銀行関係も株式も強かった。群馬の新しい工場は、経理課長の才覚がなかったら出来なかった、などといわれた。 ― ある日ね、部下がやめるといい出した。有能な奴で、将来俺はこいつに抜かれるかもしれないと思って内心ビクビクしていた。ところが、ネパールへ行って、寺にこもるっていうんだ。訳が分からなかった。そういうことをして、帰って来るとハクがついて金でも儲かるのかと聞くと、帰って来るかどうかも分からない。金なんか欲しくないんだという。バカいえ、金の欲しくない奴が何処にいる?

 折角この会社で、俺をおびやかすくらいになって来たんだ。三十前に課長かもしれないのに、棒に振るのかというと、長いこと黙っていて、それから哀れむように俺を見て、そういうことは一切魅力がないというんだ。

 ― やめて行った。どうかしちまったんだ、バカな奴だ、変人だと、こっちも哀れむようなことをいって、相変わらず働いているうちに、ジワジワとききはじめた。そいつのやめ方がね。世の中には、昇進することにも、金を儲けることにも、なんの魅力も感じない人間がいるのか。いい年をして、はじめて気がついたんだ。そう思って自分の生活を見ると、― 前途洋々と思っていたのが不思議なくらい味気ないんだ。小さな会社で、仕事が出来るといわれて、大半の時間を会社ですりへらして、一人暮らしのアパートへ帰ってくる。なにもない。急に自分をとりまいている現実がたまらなくなった。息苦しくなった。といっても、すぐさま現実から逃げようもない。 ― つまり会社人間としては駄目になりはじめた。悩んだよ。出世も魅力があるからね。しかし、会社での自分に気がついてみると女房が出て行った時、悲しみも怒りもなかったように、部下に対しても、本当の関心なんてものは、なにも持っていないんだ。ただ、使いやすいように、大声で声をかけたり励ましたり心配したり、全部うわっ面なんだ。実は、とても冷たいんだ。冷たいというより、強い感情というものがないんだ。ただ、有能な社員だなんてことに酔っているだけなんだ。

 ― 三十四の夏に、やめてね。今までの自分から、なるべく遠くに行きたかった。熱い感情を持ちたかった。現実ではないもの、夢のような物語を愛したり、一枚の絵におぼれたり、ひとつのメロディにうっとりして一日をすごしたりしたかった。女と見りゃあ声をかけたり ―それも努力して、そうした。自分を大きく変えたかった。カサカサな人間から、潤いたっぷりの人間になりたかった。ピアノもそれから女に教わったんだ。」

 大変長い引用を致しました。学生はこの告白をじっと聞くのです。これまで社会の落ちこぼれと思っていたこの男が、どんなに自分を感動させ、心を揺さぶり始めたかに彼女は気付いてゆく。このシーンは、やはり夜の出来事として描かれています。そして彼女はこの男と一緒に生きてみたいと、心から思う。しかしこの物語はさらに進んでいくと、皆がこの男を捨てて終わるのです。真夜中の時が過ぎ去り、夜が明けると、その高まってくる町の雑踏の音に促されるように、彼女たちは賢く自分を守り、自分の計画、自分の設計通りに生きる安全な人生の方に帰っていきました。

 一時の迷いでこの男と一緒になっても、人生は長い、先行きの不安定を思うと、彼女たちは朝、夢から目覚めるように、その男を捨てる。しかしそこで山田さんは、我々に問い掛けているのです。社会を本当に豊かにするのは、高度経済成長のリーダーか、それともそこからこぼれ落ちた人々か。むしろそうやって切り捨てられてしまった人々の中に、社会の最も良質の部分がある。それが実は世界を生きるに値するものにしているのではないかと。

 主イエスは真夜中にお生まれになりました。真夜中に、救い主誕生の祝いに駆け付けたのは、ユダヤ社会のエリートとはほど遠い、異国の星占いや差別されていた羊飼いたちだけでした。ということは、主イエスが、まさにあの男と同じように、真昼の価値観で生きている者たちからは理解することの出来ない、出会うことも出来ない存在であられるということを示しています。幼子イエスはどの宿屋にも受け入れられず、馬小屋の飼葉桶にお生まれになりました。成長された主イエスは、その伝道の生活の末に、見るべき成果を一つも上げることなく、捕らえられ十字架につけられました。つまりこの救い主の御一生とは、生まれた時から、死に至る時まで、一貫して人々から受け入れられることがなかったということです。それはまさに人の目から見るならば、社会からこぼれ落ちてしまった挫折の生涯でしかありませんでした。

 しかし主イエスこそ、潤いたっぷりな人間として生きられました。捨てられた病人を訪ね、差別されている者たちの寂しさを分かち合い、罪人と共に食事をすることを好まれ、そして何よりも神の御心が何であるかということを、それは愛だということを、神の国はこのようなものなのだと、それは盛大な祝宴のようなものだと、そこに子どもたち、弱っている者、貧しい者たちが集められ喜び歌うであろう、立ち止まって、空の鳥を見てみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださるではないか。寄り道して、野の花をじっと見てごらん。働きもせず、紡ぎもしない。しかし栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。だから明日を思い煩ってはいけない。自動車のように走り続けると倒れてしまうだろう。もう止めようじゃいか。まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな与えられるのだから。夢見るように、歌うように、人々に語り続けられました。巨大な神殿を建てることにも、大祭司になることも、有名になることにも関心がありませんでした。彼は人々に自分の「命の水」を差し出しましたが、一円の富も与えることは出来ませんでした。その時、昼の世界の人々は「この世の役たたず!」と罵り、イエスを捨てたのです。

 真夜中に主イエスがお生まれになったことの意味は、その闇の中に主の値打ちが隠されているということです。しかしあの山田太一さんの描く男がそうであったように、隠されているけれども、その一人の男によって私たちの世界が豊かになる。潤おう。美しくなる。もしその経済成長に役だたない、あの男がいなかったら、二千年前の夜、お生まれにならなかったとしたら、この世界はもっと恐ろしいものになったに違いない。おぞましい地球になったに違いない。まさに暗黒の闇に塗り込められたに違いない。私たちの心にも、もはや熱い感情というものは生まれなかったに違いない。望みとか夢とか歌はそこに生まれなかったに違いない。イエス・キリストはそういう、私たち人間の世界と、私たちの心を覆い尽くそうとする闇の中に光として、お生まれになりました。

 そして私は今宵思う。昼の光が私たちの現実だと、私たちは覚える。こうして夜のイブで、主イエスこそ私たちを生かす救い主なのだと聞かされても、朝になれば何もかもしらけてしまう。あの時の私の感動、あの夜の安らぎ、しかしあれは夢幻なのだと思う。そしてやはり賢く出世やお金や、成績こそ自分の人生を支える現実なのだと思う。しかしクリスマスは、そうではないと神の真理を教える夜です。本当に私たちを支えるものは、御子の光であるということを、これは夢ではないということ、私たちを真に生かし、世界を豊かにする唯一の現実なのだということを、私たちはこのイブの夜、知りたいと思います。それを知った喜びの中で、御子イエスを二度と排除することなき柔らかな心を以て、良く来て下さいましたとお迎えする今宵でありたい、そう願う。

祈りましょう。 御子イエスを私たちに与えて下さった父なる神様、 私たちの心もまた、闇に閉ざされようとする時、この世の光によって、その闇を充たそうとするのではなくて、真の光である幼子イエスを喜んで今、心に迎え入れることが出来ますように。御子の示された夢のようにはかないと思われる福音こそ、実は私たちの生きる希望であることを、信じるこのイブの夜として下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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