2021年12月19日 主日夕礼拝説教「言は肉となって-旅涯ての地-」

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イザヤ書66:22~23 ヨハネ福音書1:14

「新月ごと、安息日ごとに/すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと/主は言われる。」(イザヤ書66:23)

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」(ヨハネ福音書1:14)

 いつの時代にも教会には欲望を抑えて生きようとする禁欲的信仰者が存在してきました。肉を食べたい欲望、酒を飲みたい欲望、それは間違っていないと何度教えられても、その欲の中に、どこか罪の臭いがしてくるからではないでしょうか。今はクリスマスの祝いの季節です。家族でパーティーを開く人もいることでしょう。しかし私たちはだんだん、そのような細やかな飲食では満足しなくなる。やがてもっと強い酒を飲みたくなる。もっと肉を食べたくなる、そうやって年末年始の飲み食いに執着する時、既に、御子イエスが、最も貧しい飼い葉桶に生まれられたことを忘れているのかもしれません。そういう神から離反させる欲望は悪魔の誘いだ。だから肉の思いを断ち切って、野菜だけを少し食べながら、霊のことだけに心を集めて生きよう。そのような禁欲主義的教会が、歴史の中で繰り返し現れてきても、これは少しも不思議ではないと思います。

 このことは、もう一つの肉体の欲望、「性」のことを考えればもっと明らかになると思います。性の交わりもまた神様に許されていると教会は教えます。しかし、たとえば戦時中、軍人たちがした異国女性の肉体に対する限りなき蹂躙を思うと、性の問題には、いつも男たちの悪魔的邪悪さが絡みついている、それを否定することは出来ません。

 そのような「肉」を問うキリスト教セクトは歴史の中で繰り返し現れました。以前、水曜の聖書研究会祈祷会で私たちは「ヨハネの手紙」を学びました。この手紙を書いたヨハネ教会は当時隆盛を極めた「グノーシス主義的信仰」という異端と戦っていました。グノーシス主義は、肉体は牢獄であって、そこから霊魂が解放されることが救いであると教えたのです。そのために彼らは極めて禁欲的になりました。汚れた肉体の欲望を忌避して、いわば清らかな魂だけで生きようとしたのです。この紀元1世紀のヨハネ教会が戦っている異端、グノーシス主義思想を受け継いだのが、中世ヨーロッパの禁欲的教会カタリ派でした。

 作家の坂東眞砂子さんは、その作品『旅涯ての地』で、そのカタリ派を描きました。この派は、地上の目に見える物質全てを、悪神が造った邪なるものと考えます。人間の肉体も空しいものに過ぎません。魂だけが天上に属する聖なるものですが、それも誘惑によって既に汚されている。だから自己を律し地上のものを断ち切った時だけ、その魂は「牢獄なる肉体」から解放され、善神の座す天に至り平安を得ることが出来るだろう。そのため彼らは肉食を断ち、世俗的生活を否定し、苛烈な苦行を実行しました。特に男女はわずかに触れるだけでも許されることなく、まして肉体的関係は最も嫌悪されるものであったのです。その肉体嫌悪の故に、イエスもまた幻のような存在であり、飲食なき霊的存在であられたと主張しました。

 その遠い世界の話と思っていた異端カタリ派の物語を、一人の日本人作家が描いただけでも驚きですが、それだけでなく、その文章の美しさに魅了されて読みました。それはこういう旅の物語です。

 カタリ派が古くから受け継いで来た聖遺物に、一枚のイコンがありました。それは太陽をまとう女の姿が描かれているイコンでした。それはキリストが十字架につけられた時、その血を受けたといわれる「聖杯」を打ち直したものだと伝えられています。聖杯の本来の持ち主と自認するローマ・カトリックも、それを血眼で追究している。世界の覇者カトリックから追い詰められたカタリ派は、イコンを紛失しますが、その探索に出たのが女性信徒マッダレーナでした。彼女の本名は分かりません。マッダレーナとは、彼女が、カタリ派に回心した時、自分でつけた名であって「マグダラのマリア」を意味するのです。彼女は、ついに水の都ヴェネツィアでそれを発見する。イコンを手に入れた彼女は、偶然出会った日本人の血の混じった脱走奴隷・夏桂と共に、命懸けで長い旅を続ける。夏桂はその旅の最中、この瑪瑙色の海のように深い瞳をしたマッダレーナにどうしようもなく引かれる。しかし彼女が、カタリ派の戒律の故、手も触れさせないのは当然のことでした。艱難辛苦の後、ついに「山の彼方」と呼ばれる、カタリ派の隠れ里にまで、そのイコンを持ち帰ることに二人は成功するのです。

 カタリ派司教は、そのイコンを受け取ると、太陽をまとう女の絵には目もくれず、イコンの裏側の板を外す。その裏に7~8枚の羊皮紙が隠されていました。「イコン」は実は羊皮紙のカモフラージュだったのです。そこにはアラム語の文字が書かれてあった。それこそが司教の真の目的でした。それは元々、ある洞窟の壺から発見された羊皮紙であって、他の誰も知らない「マリアによる福音書」の写本でした。

 大変興味深いのは、この物語を書いている坂東さんは、最新の聖書学を駆使してこの「マリアによる福音書」の意味を語っていくところです。この福音書を書いたマリアとは、罪を犯した女でしたが、主イエスによって救われ、主の復活の最初の目撃者となったマグダラのマリアです。四つの正典福音書は、イエス様が昇天されて何十年もたって、ようやくギリシア語で書かれました。しかし「マリアによる福音書」は、主イエスと地上を旅して、最も主を愛した女マリア自身の筆による。しかもイエスと彼女自身の言語アラム語によって書かれているのです。だから、どの新約文書より、生のイエス自身に接近可能な、計り知れない価値をもつ写本でした。司教は直ぐ、一人のユダヤ人にその翻訳を命じた。司教はこの最古の福音書によって、カタリ派こそイエスの教えを真に受け継ぐ正統派である、そしてローマ・カトリックこそ異端であることが証明されると期待した。カトリックの悪魔的迫害によって疲弊し切ったカタリ派の起死回生を、司教はこの福音書に託しました。ついにラテン語に翻訳された「マリアによる福音書」が司教のもとに届けられる。貪り読んだ司教は、しかし終わりの頁に至った時、衝撃の余り卒倒します。一体そこに何が書いてあったのか。その前半は、福音書と共通のイエス語録が記されている。マリアが聞いたままのイエスの肉声には、これまでにない、深さと力強さが満ちている。しかしマリアの福音書はそれだけで終わらなかった。その後半の部分があったのです。大怪我をして既に横たわっている「マグダラのマリア」の名を持つマッダレーナや、その傍らの夏桂、その他の信徒の前で、ついにそれが読まれる、固唾を飲む瞬間がやってきました。

 そこには復活のイエスとマグダラのマリアとの再会の場面が再現されていたのです。この場面は正典「ヨハネによる福音書」の方では、復活の主は彼女に「わたしにさわってはいけない」(20:17、口語訳)と言われたとありました。カタリ派にとって、この正典の言葉は自分たちの肉体拒否の教理の強力な聖書的典拠となったのです。「わたしにさわってはいけない」、その翻訳では未だマリアが何もしていない前に、指一本触れるなと命令した、そういうグノーシス的禁欲主義の意味に取れます。ところが荒井献先生は新共同訳の翻訳、「わたしにすがりつくのはよしなさい」(20:17)、この訳の方に賛同し説明します。原文では現在形の命令で表されているので、これは「しがみつく」という動作が既に起こっているという意味だと。「これは読者の想像力を刺激するであろう。イエスとマリアの間にはイエスの生前からスキンシップがあったのではないか。」このヨハネ福音書によるイースターの朝の出来事が他の福音書にはない、マリアと復活のイエス様と一対一の再会(逢い引き)として描かれている、そのことも相まって、イエス様とマリアの間のただならぬ男女の関係を想定する女性解放の神学者もいます*。しかしそこまで言わなくても、主イエスはマリアとのスキンシップは受け入れて下さっているのだと、ヨハネ福音書は暗示しているのです。しかしカタリ派では、口語訳が訳したように、復活の主はマリアとの肉体的触れ合いの一切を拒絶しているのだと伝えられてきました。


*  ヨハネ福音書20:17「すがりつく」(haptw)と訳されたギリシア語を辞書で調べると、性的関係も表すと書いてあり驚く。

 ところがこの「マリアによる福音書」では、イエスはマリアにはっきり触れる。カタリ派ではイエスは霊的存在だと言われてきました。しかし復活のイエスは肉体をお持ちであり、御腕を伸ばし、マリアの肉体に触れる。新共同訳の翻訳に近かったのです。マリアの肉声で語られる福音書の言葉では、主は「風のように軽く、水のように優しく、太陽のように暖かく」触れて下さった、その時、マリアは永遠に触れた、そう書いてある。そしてそのイエスは言うのです。「私たちは、このように愛の行為を行うことにより、生きるのだ。私が教える地上でのことを信じないで、どうして天上のことを信じることが出来るのだろう。」これで福音書は終わるのです。

 カタリ派信者たちは「これは偽書だ、偽物だ」と叫び、ラテン語翻訳はその場で破り捨てられました。マッダレーナだけがその罵倒の中で、「マリアによる福音書」のアラム語写本を抱き締めて守った。隠れ里は瓦解し、全ての者たちが「山の彼方」を捨て、去って行った。その時、夏桂と2人きりになった死を前にしたマッダレーナは、「私を光の中に連れていって」そう願う。夏桂はマッダレーナを抱きあげた。彼女はもう男に触れられることに抗いはしなかった。司教室のベッドに横たわった彼女の全身に、太陽の光が降り注いだ。その光に包まれるようにして、彼女は語り始めた。「私たちは、間違っていたのかもしれません。肉の交わりを拒むことは、それにこだわり続けることでもあった。きっと私たちは、イエス様のようにこれを超えていかなくてはならないのでしょう。私たちは、イエス様のように、愛の行為に汚れを持ち込まないこと、汚れない交わりを知ること、そう生きていけばよかったのですね」、そして、瀕死の弱い息づかいの中で彼女は始めて求める。「私に触れて下さい」、「優しくなでて欲しい、優しく、優しく」、夏桂は目眩のするような感動の中で、彼女に触れました。夏桂に抱かれながらマッダレーナは死にました。太陽をまとうように光に包まれ、全き安らぎの中で。こうして長い旅の物語は終わります。

 この「マリアによる福音書」はフィクションです。しかしクリスマスの御言葉、ヨハネ福音書1:14には「言は肉となった」とはっきり書かれている。御子イエスは、幻として来たのではなくて、肉体をもった赤子として、この地上にお生まれ下さいました。それは御子が肉体と、この世を、直ちに「汚れ」とも「悪」とも思っておられなかった証拠です。しかし最初に申しました。私たちも時に絶望の余り、目に見えるものに良き物はない、肉体もこの地も悪神が造った地獄でしかない、そうカタリ派同様に思うことがある。そして肉体も、この世も、消し去るために、自殺してしまう人もいる。戦争による破壊衝動に捕らえられる者もいる。しかし、御子イエスは、御自身が肉体をお取りになって、この世に生まれられることによって、肉体をもって復活されることによって、それは「違う」と、「良い物だ」と言って下さるのです。

 ただ私たちの罪が、この本来良いものであったはずの肉を汚し、ないほうがましだと思うほどに汚した。しかしその時、「受肉」された救い主が私たちに触れて下さるのです。血の通った御手を伸ばして下さる。救い主の心臓の鼓動が聞こえるほどに、私たちを抱き締めて下さる。これはもうフィクションではない。事実です。それは禁欲しなければならない暗い欲望と逆の世界、「風のように軽く、水のように優しく、太陽のように暖かい」、つまり愛そのもののことです。

 御子イエスが何故、肉体をとってこのクリスマスの夜来て下さったのか。その意味は一つです。罪の故に肉体を持て余してしまっている私たちを憐れみ、その汚れを十字架で裂かれた御自身の肉をもって、贖って下さるためです。そして改めて、真の肉体の用い方を、私たちに教えて下さる。私たちの心も体も全てを用いて、神と隣人を愛するために用いるべきことを。その御子に導かれる時、暗いだけだと思っていたこの地もまた、明るくなることを信じることが出来る。私たちは、肉体を持った御子を迎えたこの夜、御子の罪の赦しの故に、牢獄どころではない、肉体を持って、この地を生きること、その祝福を、その喜びを知る。クリスマスは何と素晴らしい祭りでしょう。

祈りましょう。 主なる父なる神、受肉の御子が、私たちの霊のみならず、肉もまた清め、贖って下さる、そのクリスマス最大の贈り物を、今宵、深い感謝をもって受け取る私たちとならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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