2021年12月12日 主日朝礼拝説教「主は愛する者を鍛え2」

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創世記39:1~23 ヘブライ人への手紙12:5b~8

「『あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです』と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、/ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。」(創世記39:19~20)

「なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」(ヘブライ人への手紙12:6)

説教者 山本裕司 牧師

 ヨセフは父ヤコブに甘やかされて育った子どもでした。人生の苦しみを何も知りません。苦しみを知らない者に神の使命を果たす力は備わりません。そのために神はヨセフに試練をお与えになりました。彼は兄たちの妬みによって着物を剥ぎ取られ、裸にされて穴に投げ込まれました。しかしそこを通りかかった隊商によって買い取られ、遠くエジプトに連れられて行ったのです。その旅が既に父ヤコブの人生の反復でした。ヤコブがメソポタミアで伯父ラバンに20年間仕えたことも、ヨセフがエジプトで奴隷として仕える人生と重なります。この一家の使命とはその太祖アブラハム以来、神の祝福を担い、それを隣人、さらには全人類に分け与えるという壮大なものでした。その祝福の使命を果たすために、父ヤコブも子ヨセフも、主なる神から鍛えられねばならなかったのです。ヘブライ人への手紙が記したように。

 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。…/なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。…/もし…鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません」(ヘブライ人への手紙12:5~6,8)。

 トーマス・マンの物語でも、17歳であったヨセフは、カナンからエジプトに至る、半年にも及んだ砂漠の旅によって、人格的に驚くべき成長を遂げたと言われます。それまでのヨセフは誰もが自分を愛しているのだという「高慢」に捕らえられていました。しかし彼は兄たちの暴力によって、愛されないことの痛みを生まれて初めて知ったのです。そして兄たちの心の痛みを感じることが出来る大人に成長したのです。それこそが、ヨセフが後にエジプトで成功を収める一つの理由ですが、そのように導いたお方こそ主なる神であられたのです。

 「ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった」(創世記39:1)。神の鍛錬によって「仕えられるのでなく仕える者」に変貌を遂げたヨセフは、エジプト高官の家で出世していきました。その時役だったのは、ヘブロンでの英才教育であったに違いありません。父ヤコブは自らの祝福の継承者としてヨセフに家の管理者となるべく教育を行ってきました。その全ての知恵、知識がエジプトで生かされることになったのです。確かに先の手紙の教師からは、それこそ庶子への扱いであって、父ヤコブの依怙贔屓を叱ることでしょう。しかしその地上の父の偏愛をも天上の父は利用して、ヨセフに大きな使命、祝福の源となる指導者へと導いておられたのです。主人ポティファルは、「ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた」(創世記39:4)とあります。マンの計算では、ヨセフは24歳の若さで執事頭に抜擢されます。神が共にいて下さる、その信仰の平安が彼を包み、何故か子どものいないこのエジプトの上流家庭に仕えることが、ヨセフの生き甲斐となりました。

 しかし神の計画は、執事で終わるのではありませんでした。さらなる重責が彼には必要でした。神の人ヨセフが、霊肉の飢餓から多くの人々を救うためです。そのために神はヨセフにさらなる過酷な鍛錬、もう一度井戸の穴に落ちる試練を課すことになるのです。

 ポティファル夫人は、ただ頼りになる僕に止まらず「顔も美しく、体つきも優れて」(39:6b)いたヨセフに目を注ぎました。マンはこうその心理を表現しています。「ヨセフによって女になりたいという欲望を感づかれはしないかと不安に怯え、それでいて同時にまたヨセフが自分のひた隠しにしている欲望を感づいてくれないだろうかという期待に胸を震わせるようになっていた」と。「ポティファルの妻」という言葉は、古来破廉恥な女の代名詞として用いられてきました。「聖書三大悪女の一人」とも呼ばれたのです。しかしマンは深い同情を寄せて、彼女は特別に苦悩に充ちた運命を背負わされた女性であると描きました。

 彼女の一族は元々地方王侯に優るとも劣らない血統でしたが、それも遠い昔となりました。今は一貴族に過ぎない彼女の両親は、政略結婚として王ファラオの高級官僚となるべく生まれたポティファルと縁組みをさせたのです。その時二人は未だ少年少女でした。しかし注解によると、宮廷の「役人」(39:1)、この言葉には「去勢された宦官」の意味があると指摘されます*1


*1  松田明三郎『口語旧約略解』48頁。あるいは以下のような指摘もある。「ケーテ・ハンブリガーによれば、ポティファルという名前は「ファラオの宦官」という意味をもつ。」高山秀三「トーマス・マンと女性」(京都産業大学論集)より

 そうであればポティファルの両親は、幼児の彼を将来ファラオの家に仕えさせるために去勢したのです。最初無邪気な二人はそのことに不満を持ちませんでしたが、やがて妻はエジプトの貴族社会の中でも目を見張る美貌を持つ三十代の女盛りを迎えます。しかしその肉体は誰にも抱かれたことはありません。つまりこの両家の両親とも、自分の子どもを家門保持のための犠牲としたのです。確かに両家はこの結婚によって見事に上階に昇り、ファラオ最側近の名誉と贅沢を勝ち得ました。しかし表面人も羨むこの家の内情は、真の愛が去勢された仮面家族に過ぎなかったのです。

 その家で生きる虚無はポティファル夫人だけのことでしょうか。ある注解者は、聖書は、最初こそ確かに「ポティファル」という名をおいていますが、その後は名が消えて、主人と呼ばれるだけとなると指摘します。特に妻の名は記しません。その理由は私たちの誰もがポティファルでありその妻だからではないか、そう書かれていました。そうかもしれません。私たちもまたそれなりに努力して、今何かを勝ち得たかもしれない。上階に昇ったかもしれない。しかし私たちの家に、そして心に、一番大事なものが去勢されたような空洞があいている。「そこにはただ風が吹いているだけ」、その感覚からどうしても逃れることは出来ない。それはサマリアの井戸端での、主イエスと女との対話を思い出させるのです。5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない、そのサマリアの女性に主は言われます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」(ヨハネ福音書4:13b)。

 愛に渇いた夫人には、24歳の眩しすぎる執事ヨセフの存在は余りにも大きな誘惑でした。聖書は「主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「わたしの床に入りなさい。」」(創世記39:7)と単刀直入に語りますが、マンが描くには、夫人がヨセフを初めて意識してから、「毎日ヨセフに言い寄る」(39:10a)ところに至るまで、3年間の躊躇逡巡と胸を焦がすような恋の苦しみがあったと書き、こう続けます。「言い伝え(つまり聖書)は、彼女がそんな露骨な言葉を口にしなければならないくらいなら、舌を噛み切ってしまいたいと思った多くの時間を付言するのを忘れている」と。しかし主人に仕えることを以て人生と覚える執事ヨセフ、神の御前に罪を犯すまいとして生きる信仰者ヨセフは決して受け入れません。

 「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、…すべてわたしの手にゆだねてくださいました。…わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。…わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」(39:8b~9)。

 しかし家の者が皆不在であったその日、特に彼女は激しかった。部屋に呼んだヨセフの着物をつかんで同衾を迫る。「ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た」(39:12b)。その手に残されたヨセフの衣を握り締めた時、夫人の恋心は激しい憎悪に反転します。彼女は駆けつけた家の者や夫に言う。あのヘブライ人が「わたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。…わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました」(39:14b~15)。

 夫人はヨセフを「ヘブライ人」(39:14、17)と繰り返し糾弾します。「エジプト人は、ヘブライ人と共に食事をすることはできなかった。それはエジプト人のいとうことであった」(43:32)という言葉もあります。「ヘブライ人」とは後にイスラエルを呼ぶ別名となりましたが、この時代はヨセフのような流れ者、最下層の外国人労働者を指していました。夫人はエジプト人が持っているヘブライ人に対する差別心と偏見を刺激して、残された衣と併せてヨセフを貶めるのです。ところが、マンによれば、その時下の大騒動に聞き耳をたてていた、豪邸上階で暮らすポティファルの老父母は、これが自分たちの「ガラスの城」に起こるべくして起こった破局であると一瞬で悟った。足をばたつかせる幼子にしたその報いが館についに噴出したのです。階下の修羅場によろよろと降りて来た老人たちは、「わたしたちは善意からやったことなのだ…、家のためにやったことなのだ…」と呟き続けるのです。

 この物語で特徴的なことは、ポティファル夫人は大声をあげている傍らで、ヨセフが沈黙していることです。その姿は、受難週に裁きを受ける主イエス・キリストとぴたりと重なります。このヨセフの沈黙の意味を想像すると、それは執事としての務め「仕えられるより仕えること」、これに最後まで忠実であろうとしたためだと思います。つまり主人たちを守るためだったのではないでしょうか。真相を知ったらポティファルは激怒して妻を殺すのではないでしょうか*2


*2  古代エジプト神話「アヌビスとバタの両兄弟」(『旧約聖書略解』49~50頁)二人の兄弟がおり未婚の弟は既婚の兄に仕えていた。兄の不在中に、彼の妻が弟を誘惑する。しかし弟が拒絶したところ、彼女は帰宅した夫に逆に弟に襲われたと訴えた。しかし兄は神から真相を示されため妻の方を殺した。

 既に夫人のヨセフを見る熱き眼差しは、勘の鋭い召し使いたちに気付かれていました。ヨセフが奥方に従わなかったこともです。ヨセフが真相を語れば多くの弁護者が現れたことでしょう。しかしヨセフは、17歳の少年だった時のドタンの経験を、この時思い出していたのではないでしょうか。その時も兄たちの嫉妬のために、彼の着物は剥ぎ取られ裸にされた。しかしヨセフは神の最初の鍛錬の道場となった空井戸の裸の夜、その痛みを通して、父の愛を去勢された兄たちの痛み、それを知る人間に成長していったのです。今、その反復として、再びヨセフの着物を剥ぎ取り裸にした夫人も、同じなのだ。愛をどんなに求めても応えはない、その霊肉の飢餓の烈しさ、それに同情出来る男に彼は成長していたのです。

 古代エジプト人の差別的呼称を表題とした「ヘブライ人への手紙」を再び引用します。「この大祭司(イエス)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4:15)。

 大祭司イエスは、どうしても罪を犯す私たちに同情して下さり、私たちの罪の報いを沈黙の内にお一人で負って下さり、裁かれて下さり、アリマタヤのヨセフの墓穴に降って下さいました。そうやって私たちの命を贖い救って下さったのです。「仕えられるより仕える」僕となって下さったのです。執事ヨセフもまたこの「ガラスの城」の住人たちを救うために彼は沈黙し、その罪を一身に負ったのです。

 ヘブライ人への手紙には、大祭司イエスは「罪は犯されなかった」とありました。しかしヨセフは大祭司イエスではありません。そこでマンは「沈黙」のもう一つの理由を語ります。そもそも何故、ヨセフはこの家庭問題の渦中にいながらずっと放置してきたのでしょうか。こうなる前に何らかの対処、例えば邸宅付きから執務室付き秘書への配置換えのようなことを、何故主人に求めなかったのでしょうか。何故、危険極まりない妻の近くで働き続けたのでしょうか。マンに言わせれば、そこに彼の少年時代以来の「高慢」があったのです。それはエジプトでは形を変えて、自分は決して誘惑に屈しないという自信となりました。しかし主イエスは人間が誘惑に弱いことを知っておられました。だからこのように祈りなさいと教えて下さったのです。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」(マタイ6:13)と。主の祈りです。ヨセフは夫人の誘惑を拒絶する純潔青年を演じています。しかしマンの想像力ではヨセフは陥落寸前でした。それが夫人にも見抜かれた時、彼は自分が「試みに負けた」ことを知ったのです。彼はその罪の裁きを沈黙の内に受けようとしたと言われるのです。

 しかし彼はその誘惑に屈しながら、最後の一線はどうして守ることが出来たのでしょうか。マンはそこで父の存在を記します。その瞬間、ヨセフの眼前に父の姿が現れました。それはヤコブの顔のようであり、それを超えた圧倒的な御顔でもあった。その父なる神の鋭い眼光によって、ヨセフの欲望は踏み止まらされ、彼もまたポティファル家も破滅の崖っぷちからギリギリで救われたと言われるのです。

 創世記は、この物語の終わりに監獄のヨセフについて記します。しかし彼は以前と変わらず、仕える者として落ち着いて生活します。そしてポティファル邸と同様の信頼を監獄でも勝ち得ていきます。その彼の平安の理由を聖書は語ります。「主は共におられ」(39:3a)と。「主はヨセフのゆえに…祝福された。主の祝福は…すべて…に及んだ」(39:5)、「しかし、主がヨセフと共におられ…」(39:21a、39:23b)と繰り返されます。そのインマヌエルの主の祝福、父なる神が共にいて下さることによって、彼は神の子として鍛錬を受け、また神の子として守られ、永久に渇かない水によって、どのような深い穴に落ちても、光を見、潤わされていたと。私たち信仰者、神の子の生き方の明るい模範がここに示されているのです。

祈りましょう。 父なる神様、上階に昇ることを求めて生き、外見をどんなに飾っても、去勢されたような魂の空洞をただ風が吹き抜けていく、私たちの虚無を、どうかあなたが憐れみをもって埋めて下さい。あなたがこのような罪人と共にいて下さる父であられ、その故に御子はクリスマスの夜、下界に降りて来て下さり、手ずから命の水を飲ませて下さる、その真の充足を待ち望むアドヴェントの冬の日々として下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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