2021年11月28日 主日朝礼拝説教「ヤコブは衣を引き裂き」
https://www.youtube.com/watch?v=aDO029mCa0s=1s
創世記37:23~36 ヨハネ福音書12:24
「父は、それを調べて言った。『あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。』ヤコブは自分の衣を引き裂き、…」(創世記37:33)
説教者 山本裕司 牧師
先週も話しましたように、トーマス・マンの『ヨセフとその兄弟』によると、ヨセフの「晴れ着」とは、元々母ラケルがヤコブとの結婚式でまとった美しい花嫁衣装でした。ヨセフはヤコブに駄々をこねてその服を譲り受け毎日着ていたのです。その姿は父の正統な跡継ぎは誰であるかを周囲に暗示させるものでもありました。ヨセフは愚かにもそうやって晴れ着を見せびらかすことによって、労働着を汗まみれにして働く兄たちの妬みを増幅させていったのです。マンによれば、兄たちはその父への抗議の意味を込めて北へと出奔(しゅっぽん)しました。ヤコブはこの家庭不和に困惑し、問題の中心ヨセフをシケムに遣わし、兄たちに和解を請い、ヘブロンに帰るよう求めることにしました。しかしヤコブの誤算は、さすがに送り出す時は旅行着であったヨセフが、鞄の中にラケルの晴れ着を隠し持っていたことでした。まさかと思いヤコブは彼の持ち物までは点検しなかったとマンは描くのです。計画通りヨセフは丘を越えて父の目が届かなくなると晴れ着に着替え、それからというもの子驢馬の上から王子のような微笑みを浮かべて、出会う村人たちに手を振りながら進みました。村人は、ヨセフの前を行く者も後に従う者も叫びました。二千年後の初春のエルサレムを先取りするかのように。
「ヤコブの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
しかしそれが先取りであるのなら、その後ヨセフに待っているのは受難以外にはありませんでした。シケムの牧草地に兄を捜しても見つかりません。その暗雲の下で迷っていると、見知らぬ若者が現れ、兄たちはさらに北のドタンにいると告げるのです。やがて兄たちの目に飛び込んできたものこそ、父の愛そのものが縫い付けられているかの如き「晴れ着」をまとったヨセフでした。その瞬間兄たちは嫉妬の狂気にかられて「裾の長い晴れ着をはぎ取り」(創世記37:23)引き裂いた、そう物語られるのです。
次はヨセフの体も引き裂こうとする、その時長男ルベンは「命まで取るのはよそう。…血を流してはならない」(37:21~22)と、弟殺しだけは思い止まらせようとします。そこで弟を空井戸に投げ入れることをもって、兄たちの憤怒の逃げ道としたのです。そうやって一応の決着をつけましたが、実は兄たちは袋小路にはまってしまいました。このまま弟を石で塞いだ井戸の中に放置すれば、やがて飢え死にするに決まっていました。それは殺したことには変わりない。だからと言って救い出してヘブロンに帰せば、どんなに口止めをしても弟は父に告げ口をするだろう。やっぱり消えてもうらしかない。しかしそれは弟殺しのカインの反復となり、自分たちも神の裁きによって「エデンの東、ノド(さすらい)の地に」(4:16)追放されることは必至であった。その解き難いジレンマの中で、3日間の煩悶の時が過ぎていったのです。
思い詰めた長兄ルベンは秘かに群れから離れ、弟を井戸から助け出し、自分の手で父のもとに返そうとします。父はかつてルベンの犯した破廉恥(35:22a)を口実に長子権を剥奪するかもしれませんでした。その父の怒りを何とか宥めたいという気持ちもルベンにはあったのです。ところが「ルベンが穴のところに戻ってみると、意外にも穴の中にヨセフはいなかった」(37:29a)。その時彼は「兄弟たちのところへ帰り、『あの子がいない。わたしは、このわたしは、どうしたらいいのか』と言った」(37:30)、そうあります。注解者は少々ルベンを悪く言い過ぎかもしれませんが、ルベンの関心はヨセフの生命以上に、ここに繰り返される代名詞「わたし」にあったのだ、そう聖書は彼を暗に批判していると指摘しています*。
* 結局、ルベンの長子権は戻ることはありませんでした。物語の終わりに、エジプトのヤコブがルベンに宣告した遺言はつれないものでした。「お前は水のように奔放で/長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した」(49:4)。ルベンはデボラの歌(士師記5:15b~16)以後、完全に「歴史書」から消え(都田保螺)、ルベン族は最も早く解体してしまったのです(von Rad)。
一方ルベンと同じ母レアを持つユダは、隊商がやって来るのを見て、彼らに弟を売ってしまおうと提案します(37:27)。そうやってヨセフを殺すか、告げ口覚悟で父の家に帰すか、そのどちらも選択出来ないジレンマからの解決策を彼らは見出したのです。3日目にヨセフは引き上げられ隊商に売られました。かくして17年間、父の愛を独り占めした弟は、ついに兄たちと父の前から消えた。それはヤコブが若かった頃、同様に兄の殺意に晒され、兄の前からも弟ヤコブを溺愛した母リベカの前からも姿を消した、その反復であったのです。
次に兄たちがするのは隠蔽です。「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した」(37:31)。マンの物語では創世記と異なり、兄たちが直接隊商と価格交渉をして、ようやく銀20枚とヨセフを交換することが出来ました。その契約締結の時、兄たちは習わし通り羊を屠りました。そして穴から引き上げられたヨセフをも加えて、互いに肉を食べることによって、取り引き成立の証明としたのです。そして兄たちは弟の見ている前で晴れ着の破片をその羊の血で赤く染めた。その犠牲によってヨセフはカインの弟アベルのように、土に自らの血を流すことからは免れたと暗示されているのです。それは兄弟たちの曾祖父アブラハムの独り子イサクが、モリヤの地で一匹の雄羊の犠牲によって、自ら血を流すことから免れたことの反復のようにです。それから二千年後の同じモリヤの地、エルサレムで、さらに神の独り子の犠牲と晩餐は反復されるとマンは暗示していくのです。
「イエスはパンを取り、…それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 …「皆、この杯から飲みなさい。/これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ福音書26:26~28)。
食卓を囲んだ憎み合う兄弟たちが、それにもかかわらず、その犠牲の体と血を分かつ時、その聖餐によって、兄の嫉妬の罪も、弟の高慢の罪も、やがて神に赦される時がくるであろう、そしてガラスの城の和解が起こるであろう、そう予感されてくるのです。
さて、ドタンの貧しい男が羊毛と凝乳で雇われ、証拠の「衣」を携え、ヘブロンに旅することとなりました。この使者はヤコブの天幕の前に進み出て言った。「これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください」(創世記37:32)。ヤコブが血で汚れた服の切れ端を受け取って立ちすくんだ時、ようやく使者は自分が何をしたかを悟り、じりじりと後退りした。そして絶望の台風が凄まじい速度で回転し始めたヘブロンの一角から遁走した。無言のまま塩の柱のように硬直して、後ろにひっくり返ったヤコブは、家族の介抱によって、ようやく柔らかくなった時、とうの昔にドタンの男は逃げ去っていた。ところがヤコブはまるでその間、時間まで硬直していたかのように、居もしない男に答えた。「さよう、これはわしの息子の服に間違いありません…」、その瞬間から彼は叫び始めた。「あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ」(37:33)。「引き裂かれてしまった!引き裂かれてしまった!」、そう呻いてヤコブは、どうしたら良いのかついに思いついたかのように、自分が着ていた服をびりびりと引き裂き始めたのだ。「ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ」(37:34)。
息子たちは父が血染めの服を見る瞬間だけは何としても避けたかったので、一週間遅れてヘブロンに帰って来ます。そして衣の断片を未だ握り締めている父を慰めようとした。「父上、一人の息子がいなくなっても、未だ私たち11人の息子と1人の娘がいるではないですか」と。しかし結果は「ヤコブは慰められることを拒んだ。『ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。』父はこう言って、ヨセフのために泣いた」(37:35b)。兄たちは父の愛を求めて恐るべき罪を犯し、さらに衣をもって父を欺きました。しかしそこまでして得たものは銀貨20枚のみだったのです。このヤコブ本人もかつて祝福欲しさに、父イサクを毛皮の衣を以て欺き、返って無一文の逃亡者となったのです。罪人の歴史はそうやって繰り返すばかりです。
ドタンで隊商との取り引きを提案したユダと同じ名を持つ男が、二千年後のエルサレムで、やはり父なる神の独り子と引き換えに、銀貨30枚を得ただけで終わる、そうやって聖書の歴史は螺旋状に事柄が上昇するのか、下降するのか分かりませんが、とにかく相似形を以て、何度でも反復され続けていくのです。21世紀の私たちの家も同様なのではないでしょうか。
家族はその後一日たりとも幸せな日はなかった。兄たちはドタンの秘密のために、二度と正面から父の顔を見ることは出来なかった。禁断の木の実を食べたアダムが、風の吹く頃、「主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」(3:8)た、その反復として。父の心からも息子たちが何か隠しているのではないかという疑心暗鬼が消えることはありませんでした。同時にヤコブ自身もヨセフを送り出す時、あれほど野獣を心配しながら、結局単身で旅立たせたことを死ぬほど後悔していました。そして自分こそがヨセフを殺したのだという思いにかられ、妻ラケルに申し訳がたたない、そう苛まされ続けていたのです。つまりこの家こそ、ヤコブが下りたいと願った、「陰府」(37:35b)そのものであり、石で塞がれた井戸の底であり、月輪が新生する前の下界の3日であったのです。家族はその暗黒の3日を、3ヶ月を、3年を、30年を、神の裁きとして受ける他はありませんでした。
話はドタンに戻りますが、ルベンが秘かに闇夜の井戸に行ったところ「意外にも穴の中にヨセフはいなかった」(37:29b)という経験をしますが、マンの物語ではその井戸端で思いがけず別の男に会います。井戸の塞ぎ石がいつの間にかわきへ転がしてあり、その上に一人の若者が座っていた。その若者こそ実は、シケムでヨセフが彷徨っている時ふと登場し、ドタンへと導く見知らぬ人でした(37:15~17)。ルベンが驚愕して「何をしている」と言うと、若者は「君こそ空の井戸の中を大声で呼び掛け、誰を捜しているのかね」と問う。そしてこの若者は、二千年後の初春、同名ヨセフの新しい墓の前でマリアに言うことになっている言葉を続けた。「あの方は、ここにはおられない」(マタイ28:6)と。ルベンが弟は死んでしまったのかと問うと、若者は謎のような不思議なことを歌うように語り始めました。
「小麦の穀粒の譬えを思い出しなさい。小麦の種は大地の井戸の如き奥底に落ちて死ぬ。しかし死ねば多くの実を結ぶ。今その一粒の穀粒を君の頭の奥底にも蒔かせてもらおう、やがて父君の心にもその種が蒔かれることだろう。それがいつの日か芽を出し何倍にも実る日がくる。その甦る命の神秘を待ち続ける時、君たち家族の飢餓を救うために立ち上がる麦束の前に、兄弟よ、君たちは揃ってひれ伏す時が来るであろう、その時を待ち望め、それを君たちの父親にも聞かせてあげれば、父君の心も少しは明るくなるであろう。」
やがて人類は気の遠くなるような待望の後、その春の朝、深い井戸のような墓穴で、二千年前ルベンがドタンで会った若者と再会するのです。服を引き裂かれた独り子が裸で葬られた、アリマタヤのヨセフの墓の前で。
その独り子は数日前の木曜、弟子たちと「最後の晩餐」の食卓を囲んでおられた。そして、私は神の小羊であると、これは私の体であるとパンを裂き食べよと命じられた。次に、これは私の血潮と、ワインを分けられ飲めと求められた。これこそ父なる神と人との和解、その契約のしるしと。そこで私たち罪人は、この小羊の御体と血潮と引き換えに、引き裂かれて土に血を流すことから免れ、陰府の井戸の底から引き上げられるのだ。その神の小羊はあのドタンの若者の反復として弟子たちにこう語られました。
「 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12:24)
そのお方がまさに地に落ちて死なれ陰府に下られた、しかし下界に沈んだ月輪が、3日目に新生すべく東の夜の地平線を打ち砕いて昇るように、その塞ぎ石は打ち砕かれわきへ転がされてしまうであろう。そして若者がその石の上に座る。そして春の朝、イエスを捜しに来たマリアに言うであろう。「恐れることはない。…あの方は、ここにはおられない」(マタイ28:5~6)と。その直後、マリアは「おはよう」と祝福の挨拶をしながら、自分の目の前に「起き上がった」(復活した)、大いなる麦束、その「足を抱き、その前にひれ伏した」(マタイ28:9)。爾来、私たちも含めて、御子を知った人類は、マリアに倣って、その、墓から「起き上がった」大いなる麦束の前にひれ伏し、礼拝をし続けているのです。少年ヨセフが見た夢の真の成就、実現として。
「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」 (創世記37:7)。
愛という名のもとに、どうしても罪を犯す私たちの魂の飢餓、それがついに贖われる新しい約束の時代を、あなたたちは迎えるであろう、その神の夢はどのような殺意に遭っても抹殺はされない、たとえ井戸に落とされても、3日目にその石蓋を転がして甦るであろう。そう旧約聖書は預言し、その救いを待ち望んでいるのです。
祈りましょう。 主なる神様、時に井戸のような絶望の淵に落ちて行く私たちを憐れんで下り、ご来臨の独り子の十字架とご復活の故に、私たちをもその墓穴から甦らせて下さい。その奇跡を既に遠くから指し示していたヨセフ物語を通して、あなたの救いの約束は必ず実現することを、このアドヴェントの期節、益々確信し待望する私たちとして下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
a:428 t:1 y:0