2021年11月21日 朝礼拝説教「愛の蹉跌-ヨセフとその兄弟-」

https://www.youtube.com/watch?v=mrSuP_H_j84=1s

創世記37:12~24 マタイ福音書27:27~31

 「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。/さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。…あれの夢がどうなるか、見てやろう。」(創世記37:19~20)

 「それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。/そして、イエスの着ている物をはぎ取り…」(マタイ福音書27:27~28a)

説教者 山本裕司 牧師 

 ヤコブは最愛の妻ラケルの忘れ形見、しかもラケルと瓜二つのヨセフを溺愛しました。その偏愛によってヨセフは羊飼いの労働から免除され、毎日「裾の長い晴れ着」(創世記37:3)をまとって暮らすご身分であったのです。ところが父は彼にシケムで働いている兄たちの所に行くように命じました。「兄さんたちが元気にやっているか、羊の群れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか」(37:14a)と。ヤコブがどうしてこれほど過保護にしているヨセフを遠い地に単身で旅立たせたのでしょうか。ある学者はヤコブがヨセフを、将来の家の管理者とするための準備をしようとしているのだと解釈しています。つまり帝王教育です。そうであればヤコブは自分の経験同様に、兄ではなく弟であるヨセフに長子の特権と祝福を受け継がせようと考えていたということになります。従ってヨセフは「裾の長い晴れ着」を着てシケムに行くのです。それはその姿をもって労働着の兄たちの前に、イスラエルの家長に約束された身分を自ら表す必要があったからだと言われるのです。

 もう一つの解釈を取るのはトーマス・マンです。彼によれば、ヨセフは兄たちにとって、許すことが出来ない夢を見たのです(37:6~10)。それはヨセフを表す麦束や星座の前に兄たちの同じものがひれ伏すという、ヨセフの傲慢不遜な深層心理を表して余りある夢でした。しかし兄たちはヨセフを溺愛する父の手前、殴りつけることも出来ません。その依怙贔屓に対する抗議の意味を込めて、兄たちは最早ヘブロンには帰りませんと、我々はシケムで羊を飼いますと最後通告をして去って行った、それが真相だと言われます。一家の経済を支えている息子たちとの和解が、ヤコブにはどうしても必要でした。そのために、心配を押し殺してヨセフを遠いシケムにまで遣わし、ヨセフをヘブロンで特別に過保護にしているわけではないというメッセージを息子たちに伝える必要がありました。兄たちと羊の「無事か見届ける」(37:14)、この「無事」とは「シャーローム」(平和)です。その平和の使者としての仕事をヨセフに託したのです。ヤコブは自分もカナンに戻ろうとした時は、兄エサウの怒りを宥めるために、兄の前で「七度もひれ付した」(33:3)のだと、だからお前もくれぐれも兄たちの前で謙ってヘブロンの父のもとに帰ってくれるように、兄さんたちにお願いしてくれ、そう伝えたと思われるのです。

 ところが道中の安全と兄たちに対する態度の細やかな指示を怠らなかったヤコブの目を盗んで、ヨセフはよりによって「裾の長い晴れ着」を持ち物の中に隠して、旅立ったと物語られるのです。そして心配そうに見送るヤコブの姿が見えなくなると、ヨセフはそれをまとい純白の驢馬に跨がり出会う村人たちからの「ホサナ、ホサナ」との称賛の声を浴びながら進んで行った。しかし兄たちにとって、このヨセフに特別に与えられた「裾の長い晴れ着」こそ「穏やか(シャーローム)に話すこともできない」(37:4b)、そのように家庭の平和を破壊する最大の理由でした。

 シケムはヘブロンから北上した約70㎞先です。マンが描くその数日の旅路の中でも深い印象を残すのはベツレヘム近くの路傍の描写です。ヨセフが「裾の長い晴れ着」を携えたかった大きな理由は、マンによれば、実はこれが元々母ラケルの花嫁衣装だったからでした。その姿でヨセフは路傍の石に美酒を供えました。そして石に水を注ぎ、人生に勇敢に立ち向かった母ラケルが永眠している地面に接吻して立ち上がりました。そこに埋められている女性の衣装をまとい、その女性から譲られた夜のように黒い瞳を空に向け、若者は敬虔な祈りの言葉を呟いたのだと。旅の始まりは、この美しい墓参りでも感じられるように実に爽やかなものでした。しかしシケムに着いた頃から暗雲が立ちこめてくる。何故かシケムの草原をどれほどさまよっても兄たちは見当たりません。日が暮れかかり文字通り途方に暮れていると一人の見知らぬ男と出会い、「何を探しているのかね」と問われます。ヨセフは「兄たちを探しているのです。どこで羊の群れを飼っているか教えてください」(37:16)と問うと、不思議なことに余りにもよどみなく答えが返ってくる。「もうここをたってしまった。ドタンへ行こう、と言っていたのを聞いたが」(37:17)と。つまりヨセフはシケムから更に北方30㎞もあるドタンへ進まなければならないと言うのです。この直線距離計100㎞、山坂屈曲を考慮して200㎞の移動の物語、その意味を左近淑先生は、ヨセフが保護を一身に受けていた父ヤコブから遠く隔てられていく様を示しているのだと解説しています。

 先ほど朝礼拝であるにもかからず夕べの讃美歌を歌いました。「日暮れてやみはせまり、わがゆくてなお遠し…」(『讃美歌21』218)、この経験をヨセフもしたからです。やはり夜、焚き火を囲み祖父の語るこの物語に耳を澄ませる子どもたちも、闇の中一歩一歩父のもとから遠ざかる主人公の身の上に、不安と恐れを感じたことでしょう。シケムならヨセフも幼い頃暮らしていた懐かしい土地です。しかし「ドタン」とは旧約聖書で初めてここに出て来る地名です。それは未知の世界へとヨセフが入っていくことを暗示するのです。しかし「かわいい子には旅をさせよ」、青年ヤコブも荒れ野に追われたからこそ成長したように、これこそ愛する子を、子どもから大人へと鍛え上げようとする父なる神の帝王教育でありました。

 その頃マンに言わせると、ドタンの地で焚き火をしていた10人の兄たちは深い憂鬱に捕らえられていました。自分たちがどれ程努力しても父の愛はヨセフにのみに注がれるのです。その愛の飢餓の中、ゆらめく炎に照らされた顔を伏せていた。それは既にヨセフの夢のように彼の麦束の前でひれ伏す兄たちの束、その姿そのもののようでした(37:7)。

 その中で兄たちは誰彼ともなく、既に断片となっていた太古の時代から伝わっていた歌を歌い出した。それがレメクの「剣の歌」だとマンは描きます。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す」(4:23)。最初、レメクを傷付けたのは「大男」の敵のイメージですが、この歌は直ぐ「若者」と言い換えられます。歌はレメクの凄まじい復讐を受けて倒れたのは大男ではく、かぐわしい「若者」の痛ましい姿であったと暗示される。これは私たちにも経験があるのではないでしょうか。頭の中で相手がどんどん悪いイメージで膨らみ、最後には悪魔的大男にまで肥大化される。しかしふと接してみると別に普通の人だったという経験をすることがあるのではないでしょうか。被害妄想です。この後、兄たちもドタンに思い掛けず現れたヨセフに憤激して襲いかかってみれば、弟がただの弱々しい若者だと気付くことになるのですが、ここでは妄想を止めることは出来ません。「カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍」(4:24)。こう歌ったレメク同様、ドタンのたき火に当たりながら、眠ることも出来ない兄たちは、もはや七十七倍の嫉妬と憎しみの「核分裂反応」によってその復讐心は大爆発寸前でした。

 人類最初の兄弟においても、嫉妬の高熱に焼かれた兄カインに父なる神は言われます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。…罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(4:6~7)と。「あなたの内なる罪をねじ伏せなさい。」これはその後の歴史において、数万では済まない、数億、数兆回も人間に対して反復されたに違いない、神の言葉なのです。「お前は罪を支配せねばならない。」

 その時、ドタンに日が昇り東の草原を照らし出した時、遠くに何か光るものが見える。ヨセフがつややかな装飾飾りを付した服をまとい、それが朝日にキラキラ反射し、兄たちの目を眩しいほど打った。カインへの神の言葉の反復、兄たちよ、お前は復讐心を「支配せねばならない」(4:7)、その神の言葉が力を持つ前に「兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した」(37:18~19a)とあります。その時、兄たちの顔はカインの顔のように朝焼けに染まり真っ赤であったに違いありません。「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう」(37:19~20)。これまで自分でも意識しなかったが、このチャンスをずっと狙っていた。ヨセフが生まれて以来17年間です。そこで第二のカインたる兄たちの怒りのマグマ、その噴出が、ついに「さあ、今だ」(37:20a)とある通り、時と場を得る瞬間を迎えました。

 つい数日前「ホサナ」との村人の歌声に迎えられた驢馬の上のヨセフは、受難週の神の子と重なり合うように、兄たちによって「裾の長い晴れ着をはぎ」(37:23)取られます。兄たちが何よりも執着したのが、この衣をはぎ取ることであった。それこそが父の愛の象徴、それこそが11番目の弟でありながら家督権と祝福を独り占めする、その身分のしるしでした。兄たちは弟の晴れ着をはぎ取り、素っ裸にして、お前は兄ではない、お前はただの弟だと、兄である俺たちに一度でもお辞儀をしてみろ、そう呻き絞り出すように言う。そもそもヨセフがここに父から派遣されたこと自体が、自分たちを監視するためだと覚えます。それは二つ目のマンの解釈であれば誤解ですが、彼らは被害妄想の中でそうとしか想像出来ません。そうであればこの暴行を父に報告「告げ口」をされないためにやるべきことはただ一つ、ヘブロンに帰さないためにアベルのように殴り殺すことです。

 ところがこの時さすがに「腐っても鯛」「腐っても信仰の家」だったということでしょうか。あるいは長男ルベンはビルハとの一件で損なってしまった父ヤコブの気持ちを和らげ、長子権も戻されるかもしれないと期待したのか、「命まで取るのはよそう」、「血を流してはならい」(37:21b~22a)と求めますが、もはや引き返すことは出来ない。彼らはかろうじて殺すことだけは思い止まります。ヨセフの告げ口だけは避けなければならない。そこで長兄の説得「荒れ野のこの穴に投げ入れよう」(37:22b)、これに合意しました。そうやってカインと神の対話の反復もまたヘブロンで起こることが予想されるのです。父ヤコブから「お前の弟は、どこにいるのか」と問われた時、兄たちはカインと肩を並べるようにしてこう答える他はない。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(4:9b)と。この砕け散る大昔の「ガラスの城」の悲劇が、その後、古今東西の人類の中で、そして21世紀の私たちの家で、この世界で反復され続けているのです。

 以前、梶原寿先生よりキング牧師終焉の地・メンフィス公民権博物館前には、旧約聖書の言葉を刻んだ銘板が立っていると教わりました。その言葉こそ以下です。「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。/さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう」(37:19~20)。キング牧師は1963年8月28日、ワシントンDCのリンカーン記念公園に参集した20万人の前で余りにも有名なスピーチを行いました。「私には夢がある!いつの日かすべての谷は隆起し、丘や山は低地となる。荒地は平らになり、歪んだ地もまっすぐになる日が来る…」と。

 確かにキングの夢とヨセフの夢は正反対のように思えますが、メンフィス公民権博物館はこれを同一のものと覚えたのです。キング牧師は「水平」の世界を求め、ヨセフは「垂直」の世界の頂きに立とうとする。しかしどちらも神が予知夢として人間に見させた「啓示」である点で共通しています。ヨセフの夢も、単に家の王となりたいという彼の深層心理からだけ生まれたものではないと、先週指摘しました。それは今、傲慢と憎悪の七十七倍の破壊力を以て粉々に砕け散った「ガラスの城」イスラエルを、その霊肉ともに建て直すため、そしてその霊肉の飢えから救うための不思議な神の御計画、それを実はヨセフの夢は予め暗示していたのです。それも平和のための夢だったのです。だからヨセフがその夢を見て傲慢になる理由はなかったし、本当は兄たちがその夢の話を聞いて、顔を伏せる必要もなかったのです。神の見せて下さる夢は究極において平和を作り出し、魂の飢餓から救い出すためのものだったからです。

 その神の夢の実現のためにキング牧師もヤコブの子も生きたのです。私たちもその神の夢、神の子の夢を受け継ぐのです。そのために、父なる神は、私たちの人生の苦しみ、その傲慢と妬み、愛の蹉跌(さてつ)、その人間の罪さえも利用しながら「シャーローム」を私たちの家に、私たちの世界に、実現しようと計画されておられるのです。だから「例の夢見るお方」(37:19)を殺してはならない、そう聖書は訴えているのです。

祈りましょう。 主なる父なる神、あなたが私たちに見せて下さる夢が、時に不都合に思えても、あなたへの信頼の故に受け入れ、争いではなく平和・シャーロームに生きる私たちとして下さい。その真の「夢見るお方」イエス・キリストをこの期節、待ち望み、二度と「殺して、穴の一つに投げ込む」ことなき世界を築くための西片町教会の宣教とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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